アートと文藝のCafe

アート、文芸、映画、音楽などを気楽に語れるCafe です。ぜひお立ち寄りを。

小説「最終電車」

 

 乗客は静かだった。
 
 眠っている初老の男ひとり。
 女性週刊誌を眺めている独身風の中年OLひとり。
 抱き合っている学生のカップルが一組。
 乗っているのは、私を含めその5人だった。
 
 私は、席に座って眠ってしまうのを避けるために、車両の最後部に立ち、退屈ざましに、乗っている人間たちを観察した。
 
 年末の最終電車
 休みに入った企業も多く、人の顔も緊張感を失ってまのびしている。
 
 電車が減速してホームについた。
 開いたドアから風が吹き込んでくる。
 明かりの消えた町並みが冷気の底に沈んでいる。
 
 眠っていた中年男が目を開けた。
 男は寒そうに背を丸め、窓の外を眺めて、舌打ちをする。
 郊外にローンで建てた家に、妻ひとり子供二人。いつもは会社が終わると真っ直ぐ帰宅。
 今日はたまの忘年会に誘われて、気分が乗り切らないままお開きを迎え、若者グループから義理で誘われたカラオケを断って、そのまま帰る。
  そんな感じの男だ。
 
 OLが雑誌から目を離して大あくびをする。
 仲間の独身OLたちと映画の鑑賞。そのまま居酒屋で会社の男たちのうわさ話。
 「いい男いないわね」とみんなで愚痴を垂れ、自分だけは恋人探しに熱中していることは隠しつつ、表面的にはお互いに慰めあってきた。
  そんな感じの女。
 
 若いカップル。抱き合ったまま話がない。
 女の方は酔っているのか、男の肩に頬を預けてぐったりしている。
 男は、早くアパートに寄って女の酔いが醒めないうちにモノしてしまうつもり。
 そんな感じ。
 
 ドアがまだ開いている。
 誰も乗らない。
 忘年会の狂騒も峠を越えたこの時期に、終電まで飲み歩いている人間はこの辺にはいないようだ。
 ドアが閉まる。
 
 ふと後尾車両を覗くと、後ろの車両はどういうわけか乗客が多い。 
 本来なら、ひとつ後ろの車両だから、乗っている人間の顔など分からないはずなのに、連結部の窓ガラスを通して、後ろの車両に乗っている人間の顔がはっきりと見える。
 
 「あれ?」
 私は思わず、声を漏らした。
 
 同僚の北村が乗っている。家とは反対方向だ。
 終電に乗って、いったいどこにいくつもりか。
 それにしても、北村を見るのは久しぶりだ。
 同じ職場なのに、課が変わってからは会うことがなかった。
  はて、最後に顔を見てから、いったい何年経ったのだろう。
 
 連れがいる。引退した前社長の島森だ。
 島森が前社長だったなんて、もう記憶からすっかり抜け落ちていた。
 二人とも椅子に腰掛けず、吊革につかまったまま立っている。
 北村は熱心に島森に話しかけている。
 島森はうんざりした顔でうなずいている。
 業務の報告を、島森が北村から直接受けるはずはない。
 何かプライベートな話なのか。
 それにしても、ずいぶん珍しい取り合わせだ。
 
 「や?」
 その向こうには桜井がいる。
 寒いのに半ズボンを履いている。手に持っているのは図画工作の作品のペーパークラフトだろうか。
 黒く塗りつぶされた鳥のような形をした人形を抱えている。
 ランドセルが膨らんで中からソロバンが頭を出している。
 窓の外をじっと見ている。
 室内の明かりが反射して外の景色は見えないはずだ。
 窓に映った自分の顔でも眺めているのだろうか。
 青い顔だ。体の具合でも悪いのだろうか。
 
 立原もいる。
 学生服の下に、相変わらず下駄を履いている。
 アルバイトの新聞配達した余りをもらったのか、新聞の束を小脇に抱えている。夕刊のようだ。
 同じ新聞を何部も抱えて何にするつもりなのだろう。
 学生服につもった自分の頭のフケを手で払っている。
 ふくらんだ鼻の穴が動物園のゴリラを思わせる。まだ独身のようだ。
 
 その向こうは叔父だ。
 パーティーの帰りか、フロックコートに山高帽だ。
 丸い眼鏡の奥で、相変わらず険しそうな目を光らせている。
 目を合わせれば、いまだに「お前は、自分の親父の爪のアカでも飲んだほうがいい」と言い出しかねない。
 幸い、これも窓の外を凝視したまま視線を動かす気配がない。
 
 座って居眠りをしているのは、私の祖父のようだ。
 長い入院生活が続き、私は見舞いの時にしか祖父に会ったことがなかった。
 父が「孫が来ましたよ」と報告すると、いつも静かに目を細めるだけだった。
 何を見つめているのか、焦点の定まらぬ視線。
 それがじっと私に向けられると、私は不気味でしょうがなかった。
 今日はどんな目をしているのか。居眠りをしているので、目の “表情” までは読み取れない。
 
 なんだ、叔母もいる。
 いやだぜ! 今どき田舎でも見ないモンペを履いている。
 何かの買い出しか、篭を背負っている。芋か、米か 。農産物が入っているようだ。
 丸い眼鏡越しに、しわの寄った自分の手をじっと眺めている。
 顔の色が白樺の幹のように白い。
 
 しかし、どうしてこんなにも最後尾の車両には、私の顔見知りばかり乗っているのだろう。
 
 考えているうちに、私の降りる駅がきた。
 ドアから出て、私は後ろの車両をのぞき込んだが、誰ひとり私に気づかない。
 
 声をかけようとした時、ドアがしまった。
 最終電車は、宙を滑るように、トンネルのような闇に消えていく。
 
 「 ま、いいか」
 私は遠ざかる電車の明かりを眺めながら、つぶやいた。
 
 見上げた空に、雪のようなものが舞い始めている。
 私はコートの衿を立てながら、人影の絶えたホームの上を歩き始めた。
 深夜の冷気が酔いを醒ましそうだった。

 

 

 

年末の大捕りもの

チュー太郎 覚悟せい!

 

 カミさんに、「絶対ブログなんかに書いちゃだめよ」と、きつく念を押されているネタがある。
 「家の恥」
 というものに当たるのだそうだ。

 

 まぁ、俺も「いいネタ」じゃないことは分かる。
 他人様から “後ろ指さされる” というたぐいの話なのかもしれない。
 「不潔な家だな」
 とか、
 「戸締りが不用心な家なのかな」
 などと思われることもあるだろう って気もする。

 

 でも、こんなにビックリした事件ははじめてなので、どうしても書かざるを得ない心境だ。 
 俺にとっては、この4~5年を通じて最大の衝撃なのよ。

 

 それは何か? というと、ついに家にネズミが出たのだ。
 築30年程度の家だから、まだネズミの侵入を許すほど、老朽化が進んでいるわけでもない。

 

 カミさんは清掃熱心だから、ネズミの好むほど家の中がとっちらかった状態というわけでもない。

 

 だけど、ある晩、リビングの扉を開けて廊下に出たカミさんが、顔色を変えて、部屋に戻ってきた。
 「ネズミがいた」
 というのだ。

 「えっ !」
 と叫んだ俺は、とりあえず布団叩きを手に持って廊下に出た。

  
 すると、灰色の小さな物体が、風のような素早さで俺の足元をすり抜けていくではないか。
 大きさは、人間の拳(こぶし)ぐらい。
 それが耳を左右に振り、尻尾を上下になびかせ、ピョンコピョンコ跳ねながら、一目散に階段を降りていく。
 なんというすばしっこさだ !

 

 ゴキブリよりも大きな侵入物を見たことがなかったから、俺もパニックになった。

 

 階段の踊り場を回ったときに、すでにヤツの姿は消えていた。
 その先にあるのは、扉を開けたままの俺の部屋。
 部屋の電気は消してあったから、“チュー太郎” のヤツは暗闇を利用して、ゆくえをくらませたのだ。
 
 照明をつけると、床には、乱雑に置かれている書籍や古雑誌のたぐい。
 仕事に使う書類の束。
 そんなものが、ここかしこに散乱しながらうず高く積み上げられ、複雑な迷路をなしている。

 

 それらの集積物をある程度かき分けてみたが、積み重ねた雑誌類の束の奥は濃い闇に包まれたまま。それ以上の “チュー太郎” の追跡は諦めざるを得なかった。

 

 「家の中に何が潜んでいる」という気配は、実はこの秋口あたりからあった。
 パソコンを置いている部屋と、その隣にある納戸を仕切る壁の間から、ときどきコトコトという音がするようになったのだ。

 

 壁の厚みは10cm程度。
 その間はおそらく空洞になっているのだろうけれど、その空洞のどこからか、コツコツと、壁を小さく叩くような音がし始めた。

 

 それが機械音のように聞こえたので、壁の間を通っている配線が垂れ下がって来て、それがぶらぶら揺れるようになったのか? などと思ったくらいだった。

 

 ところが、“異常” は次第にハッキリとあらわれるようになった。
 隣の納戸の扉を開けると、床に米粒程度の黒い塊が散らばっているのを見るようになったのだ。

 「これ、ネズミのフン?」
 はじめて見たものだったが、それくらいの見当はついた。 

 

 いやぁ、大変なことになったぞぉ … 
 と思い、パソコンを開いて、ネズミ対策情報のネットを次々と開いてみることにした。

 

 いろいろな情報を見ると、ネズミはどこからでも入ってくるという。
 「エアコンの通気口や換気扇の通風孔から入り、水回りの排水管やパイプを利用して、家の隅々にまで移動していく」
 とも。
 
 さらに、こんな情報も。
 「ネズミは繁殖力が旺盛」。
 「そのまま放置すると、メスネズミが1回の出産で5~9匹程度の子を産むから、複数のネズミがいた場合、1年で100匹以上のネズミが家のなかにひしめいてしまうことになる」
 などと書いてあるサイトもあった。

 

 さらに、ネズミが棲みつくことによる被害も。
 「ダニのような害虫が寄生するようになる」
 「ネズミそのものが病原菌を媒介することもある」
 「配線をかじったりして、電気器具の故障や出火を招く」

 

 そうやって危機を煽るネズミ情報の大半は、
 「素人が捕獲するのは至難のワザ。駆除はプロの任せた方が確実」
 という結論に誘導していく。
 で、
 「プロによるネズミ駆除のお値段は、被害に応じて、10万円から25万円程度。お問い合わせは、こちらに
 というフォーマットになっていた。

 

 「やぁ、これは面倒なことになったなぁ … 
 とぼやきながらパソコンを見ていたら、俺の右の眼が、視界の横を走る物体をキャッチ。


 「あっ !」
 と叫ぶ間もなく、一匹のネズミが、パソコン横の本棚を垂直に駆け上がり、本と本の間の隙間に姿を消したのだ。 

 


 急いで、本棚の本を床に下ろし、ネズ公の退路を探ってみたが、どこに姿を消したかはまったく推測もできず。
 ネズミは、500円玉程度の穴があれば、そこを通ってしまい、2~3cm隙間などものともせずにくぐり抜けるという。

 

 「2~3cmの隙間
 本棚の上までよじ登り、懐中電灯を照らしてみると、確かに棚と壁の境目に2~3cmの隙間があった。
 「なるほど。ここから退散したか

 

 その奥は、懐中電灯の光も届かない漆黒の闇。
 暗黒街からの闖入者は、人間界の掟をあざ笑うかのように闇の底に舞い戻ったようだった。
 
 
 翌日、ホームセンターに行って、ネズミ駆除のグッズ類を探してみた。

 あるある。 
 毒エサのたぐいから、ネズミの嫌う臭いを発散するスプレー。
 昔からよくある金網状のかご式捕獲機。
 表面に粘着剤を塗布し、その上を通ったネズミを動けなくさせるシート。
 
 それだけたくさんのネズミ捕獲(駆除)グッズがあるというのは、やはりネズミ害に悩む家庭が多いということなのだろう。

 

 「どれが効果的ですかね?」
 店員に聞いてみた。

 「それぞれ一長一短ですね」
 と店員はいう。
 「毒エサは、昔は確実な駆除の方法でしたが、最近のネズミは耐性が強くなり、毒ぐらいでは死なない新種も増えています。それに、巣のなかで死んでしまうと、死体の処理が難しい」

 

 「では、ネズミ・スプレーは?」
 「これはネズミの嫌いなハーブの臭いと猫の臭いをミックスさせたスプレーですが、10日ぐらいで臭いが薄れるので、また巣に戻ってきます」

 

 「かご式の罠は?」
 「1匹捕まってしまうと、それを見た残りのネズミはもう近づかなくなるんですよ。それに生きたまま捕獲するから、水に浸けて窒息死させるなどの作業が要求されますね」

 

 「では、お薦めは?」
 「はじめての方は、みなさん粘着シートを買われますね。これだと、捕まった後に “生ゴミ” として処理できます。ただ、ネズミは警戒心が強い動物ですから、なかなか捕まらないんですよ」

 この店員さん、いったい売る気があるのやら、ないのやら。


 とりあえず、猫の臭いのするスプレーと、粘着シート(↓)を2セット買って店を出た。

 

 さっそく、粘着シートの1セット(2枚)を、本棚のいちばん奥の隙間の前にセットした。
 もう1セットは、ネズミのフンが落ちていた納戸の床に置いてみた。
 

 
 1日経過。
 どちらの粘着シートにも変化はなし。

 

 2日経過。
 相変わらず、壁と壁の間ではコトコト音がするけれど、粘着シートにネズミが近寄っている気配はなし。

 

 3日目。
 撒きエサで釣ることを考えた。
 スーパーに行って、匂いの強そうなスルメイカと、おつまみ用サラミを買い、それを粘着シートの真ん中に置いてみることにした。

 

 

 こうなると、もう2時間おきぐらいに、ハンティングの成果を見てみたくなる。
 パソコンに座って、画面を見ていても、いつも間にか頭の中は “チュー太郎” のことでいっぱいになっている。

 

 4日目ぐらいの朝。
 粘着シートの様子を見にいくと、ついに身体の半身がベトベトした粘液にまみれて横たわっている子ネズミを発見した。
 シートの真ん中にセットしたスルメイカ欲しさに、我慢できずに粘着糊のところに足を踏み入れてしまったのだろう。

 

 予想外の成果に、こちらがびっくりした。
 こわごわとシートを拾い上げてみた。

 

 まだ、息がある。
 じっとこちを見据えている目が、「お慈悲を 」と訴えているようにも見える。
 顔があまりにも可愛いので、そのことに衝撃を受けてしまった。

 

 目をつぶり、合掌してから、子ネズミを挟んだシートを閉じて、そのままコンビニの袋に収めた。
 
 
 しかし、壁と壁の間から伝わってくる “コトコト音” は消えない。
 親ネズミたちが残っていることは明らかだった。

 

 またホームセンターに行き、さらに粘着シートを追加購入した。

 

 購入したついでに、

 「1匹捕まったよ」
 と店員にいってみた。
 「それはうまくいった例ですよ。最後まで捕まらなかったというお客さんもいっぱいいますから」

 

 今度は粘着シートを4セットぐらい買った。
 子ネズミを捕まえるのにも2セットを要したのだ。
 もっと悪知恵のついた親ネズミを捕るには、その倍ぐらい必要だろう。

 

 さらに、納戸の大掃除も始めた。
 ここには古着や古布団、聞かくなったレコード、昔のガスストーブなどが一切合切詰め込まれている。

 

 さらに、ネズミがエサとして食べていたものも判明した。
 昔、俺のオフクロが、非常食として蓄えていた黒砂糖。
 それを入れた段ボール箱が食いちぎられていて、黒砂糖の入ったビニール袋が破られ、さんざん食べつくされていることも分かった。
 
 そいつらを整理し、不衛生なガラクタを捨て、ようやくネズミのフンが大量に落ちていた部屋の隅までたどり着いた。


  
 あった !
 壁の奥に、2~3cm程度の隙間。
 レコードを置いた棚を長年放置してきたために、総重量100kg近いその重みで床が沈み、床と壁の間に隙間ができていたのだ。

 

 イヒヒヒ !
 ようやくヤツらの出入り口をキャッチしたぞぉ !
 まずはその周辺を清潔になるまで丹念に掃除。

 

 そして、舌なめずりしながら、隙間から少しだけずらしたところに粘着シートをまず1枚。
 それに繋げるように、さらに1枚。


 ヤツらが壁を垂直に登っていくことも確認していたので、ガムテープを使って、壁と垂直に1枚貼り、その隣の壁にも、垂直方向に1枚。
 
 そして、床に敷いたシート中央には、撒きエサとして、輪切りのサラミとスルメイカをどっさり。

 

 はて、成果はいかに?

 

 罠を仕掛けてから、約7時間後。
 つまり、知り合いと外で飲んで帰ってきたころ、納戸の扉を開けて電気をつけると、いた !
 


 子ネズミより一回り大きい。親ネズミ。
 それが、シートとシートの間に挟まってもがいているのだ。
 たぶん、床の罠に気づき、壁沿いに垂直にジャンプしようとして、壁に貼り付けたシートに足を取られ、そのまま床に落下したのだろう。

 

 ネズミをサンドイッチ状態にした2枚のシートの1枚をはがしてみると、確かにネズミの体中に黄色い粘着液がこびり付いている。そのため、体は1mmたりとも動かない状態になっている。

 

 しかし、その目は憤怒に燃えていて、
 「お前のところには、もう永久にネズミ年は来ないぞ」
 と呪っているようにみえた。


 こいつも、シートを二つ折りにしてビニール袋に入れ、朝の生ゴミに出した。


 だが、まだ壁の中からのコトコト音は消えない。
 いったい何匹いるのか見当もつかない。
 引き続き、新しいシートを入り口前に仕掛け、スルメの匂いで釣る。

 

 3匹目が捕まったのは、その翌朝だった。
 「粘着シートにはなかなか引っかからない」とホームセンターの店員は言っていたが、うちの場合はものすごく高効率だ。

 

 捕まったネズミは、「どうか勘弁してください」と涙目で訴えている。
 多少表情が優しそうに見えたから、母親ネズミかもしれない。

 



 
 よく見ると、親ネズミとはいえ、可愛い顔をしている。 
 なんでこんな連中を殺生しなければならないのだ? と疑問を感じつつ、
 「来世は多少でも人間に好かれるハムスターぐらいに生まれかわれよ」
 と心のなかで合掌しつつ、シートを二つ折りにしてコンビニの袋に収容した。


 以降、壁と壁の間のコトコト音はいっさい途絶えた。
 ネズミの出入り口には、また新しい罠をしかけておいたが、今度はいつまで経っても、もう何の反応もなかった。
 けっきょく、親子3匹だけの「核家族ファミリー」だったのかもしれない。


 
 姿が見えなくなると、見えなくなったでさびしい。
 非衛生的な生き物とはいえ、愛くるしい姿には、どこか癒される要素があるのだ。


 
 それにしても、今の家でネズミを見るということがはじめてだったので、それなりの新鮮な衝撃を受けた。
 都市文明の恩恵にたっぷり浴していると思った室内に闖入したネズミは、まさに、“小さな自然の暴威” そのものだった。

 

 「文明」が荒廃すると、 つまり家具の重みなどで、床が沈み込んだりすると、そのぽっかり空いた「文明」のほころびから、異形の「自然」が顔をあらわすようになる。

 

 つまり、絶えず家の補修は必要であり、部屋の隅々にわたるまで掃除や整理整頓も欠かせないということだ。
 いい教訓になった。

 

 

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『私をスキーに連れてって』という映画の不条理感  

映画評
クリスマスが表層的な文化として定着した代表例

 

 

 映画としての大ヒット作だった『私をスキーに連れてって』(1987年公開)は、また音楽としても大ヒット曲と結びついている。
 それは、ユーミンが歌った『恋人がサンタクロース』だ。

 

 映画自体は、当時、そうとう話題になった作品であることは分かっていたが、スキーにも、トレンディードラマにも興味がなかったので、未見だった。
 それを、最近BSシネマで鑑賞した。

 

 スキー映画であると同時に、クリスマス映画。
 主人公たちが出会うのがクリスマス・イブであるし、音楽も、さきほどの『恋人がサンタクロース』のほか、同じくユーミンがつくった「ロッヂで待つクリスマス」も挿入歌として使われ散る。

 

 

 ビッグコミックスピリッツの連載漫画『気まぐれコンセプト』や、単行本の『見栄講座』で、80年代風俗をシニカルなギャグに仕立てて話題を呼んだホイチョイ・プロダクションの制作であることは知っていたので、皮肉を利かせたコメディタッチの作品を想像していたが、多少のドキドキ感も盛り込んだわりとシリアスな映画だった。

 

 だが、この内容の薄い、まったく表層的な展開はいったい何なのだろう?

 

 恋もあり、友情もあり、事件も起こり、美しいスキーシーンや華やかなパーティーシーンが盛りだくさんなのにもかかわらず、恋と友情は、その本質を問われることはなく、事件には深刻さが欠け、スポーツとしてのスキーのアクチュアリティもなく、にぎやかなパーティーには、贅沢感もときめきもない。



 

 すべてが徹底的に表層的。
 音響的には、若者たちの明るい歓声、たわいない恋バナ、そして、彼らが雪上を滑るときのユーミンの歌声しか印象に残らない。

 

 というか、むしろ、徹底的に内容を掘り下げることを否定した制作者たちの断固たる姿勢に、ある種の「覚悟」すら感じる。

 

 そうであるならば、世評とは反して、これは “表層の華麗さ” だけを生真面目に追求したストイックな映画であるのかもしれない。

 

 ゲレンデを滑空していく若者たちの映像に、リズミカルなユーミンの歌がかぶさる。
 音楽の力を利用した、軽やかで、美しいシーンが連続する。

 そこには確かに、
 「スキーってカッコいい !」
 「スキーが上手な男に声をかけられたい」
 「スキー場に行けば、お洒落で可愛い女の子をゲットできそう」
 という、当時の若者の素朴な夢が描かれている。

 

 
 そういう願望形だけを過剰に膨らませながらも、本来はいちばん肝心なことであるはずの、
 「そこでゲットできる恋とは何なのか」
 ということは一つも描かれない。

 

 そして、ドラマは、適度な緊張感を持たせながらも、けっきょく、たわいない予定調和の大団円に向かっていく。

 

 観終ると、
 「なるほど 。バブル時代(1985年~1991年)というのは、こういうものだったのか」
 といううつろな感慨が訪れる。

 しかし、奇妙な感触だけはいつまでも残る。


 制作者たちは、いったい何を語ろうとしていたのだろう。
 
 ― 何もない ―

 

 その虚無感が、むしろ作品の奥に潜んでいる巨大なブラックホールを暗示しているようで、ちょっと不条理な感触すら引き寄せる。

 

 そこに着目すると、ある意味、記念すべき “傑作” かもしれない。

 

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「クリスマス」をテーマにしたブログ

 

山のクリスマス

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大河ドラマ『どうする家康』は失敗だったのか?

ドラマ批評

 

 ようやく面白くなってきたと思ったら、終わり。
 そんな感じで最終回を迎えるNHKの『どうする家康』。
 平均10%台を記録していた視聴率も、ここにきて1ポイント上昇。11%台をまで跳ね上がってきたという。

 

 しかし、平均視聴率でみると、62回という歴史を誇る大河ドラマとしては歴代2位の最悪視聴率を更新するとも。

 

 このドラマは、はたして失敗作だったのか?
 それとも及第点をあげるべきか?

 

 最近の放映をみていると、私は、ようやく “力作” がそろってきたと思っている。

 特に、中盤以降、豊臣秀吉ムロツヨシ)が登場するあたりから、ようやく大河ドラマ的な重厚感を見せるようになり、けっこう楽しめるようになった。
 
 しかし、「時すでに遅し」という雰囲気もなきにしもあらず。

 

 致命的だったのは、前半。
 家康の正妻「築山殿=瀬名(有村架純)」と家康(松本潤)のままごと的エピソードに尺を取り過ぎたこと。
 松潤の演技力が乏しかったこともあり、瀬名との絡みが “学芸会” に見えてしまったのは痛々しいばかりだった。 

 

 

 さらに、それまでのエピソードの積み重ねが歴史マニアの常識とも合致しておらず、「通説無視」のストーリーに怒りを感じた人々も多かったと聞く。

 

 私もまた、全体的に見ると、企画そのものは失敗だと思っている。
 泣き虫の姿をさらす “みじめな家康像” という発想がいくら斬新だからといって、私には違和感ばかりだった。

 

 歴史マニアというのは、けっこう司馬遼太郎の小説あたりから「知識」をとってくる人が多い。
 司馬氏の作品はあくまでも「小説」に過ぎず、しかも昔の資料が中心となるため、必ずしも最先端の知見とはいえない。

 

 しかし、あの自信たっぷりにたたみ込んで来る司馬氏の筆力に惹かれた者にとっては、司馬史観は “神の眼” なのだ。

 

 さらにいえば、司馬氏は関西の出身だから、当然豊臣びいきとなる。
 そのあおりを食らって、関東の家康は冷ややかに扱われる。
 だから私などは、家康は幼少期から計算高い “たぬきジジイ” であったような印象を、いまだにぬぐいきれないでいる。

 

 そういう “司馬病” の私などがようやくこのドラマを安心して観られるようになったのが、中盤以降。
 すなわち、家康がヒゲを伸ばし、落ち着いた表情を見せるようになってからだ。
 メイクもいい仕上がりを見せることが増えて、画像的にも安定した。

 

 

 転換点となったのは、ムロツヨシの秀吉が天下人に登りつめたときといっていい。

 

 私は、このドラマの「陰の主役」はムロ秀吉だと思っている。
 こういう狂気を秘めた恐ろしい秀吉像を見るのは初めてだった。

 

 

 この不気味な秀吉像が成立したからこそ、側室として大坂城に君臨した茶々(淀殿)の凄みも際立つようになった。

 

 茶々にとって、秀吉は自分の家族を殺した “憎きかたき” である。
 なのに、幼い茶々は、自分の母であるお市の方が自害した直後に、早くも秀吉の庇護にすり寄る姿勢を示す。
 それは秀吉が、天下人への階段を駆け上る稀代の権力者に見えたからだ。

 

 

 歴史上の美女は、権力を手に入れようとしている男の輝きに弱い。
 シーザーの庇護を熱烈に求めたクレオパトラ
 玄宗皇帝の寵愛を熱心に乞うた楊貴妃

 

 時代の覇者になろうとしている男たちは、ある種の女から見ると、みな蜜の香りを巻き散らしている。


 信長から信頼され、大きな方面軍を任されるようになった頃の秀吉は、まさに、そのはち切れそうな野心を全面的に開花させていた。
 茶々は、その秀吉を通して天下を遠望する夢を抱いたのだ。

 

 だから、茶々やその母のお市が家康に懸想をしたという話はウソである。
 それは、ドラマ上のフェイクにすぎない。

 

 なぜなら、家康は権力者として「蜜の味」を巻き散らすような人間ではなかった。
 「蜜の味」を巻き散らすことができた男は、この時代、信長か秀吉しかいない。

 

 けっきょく家康は、晩年になっても、信長や秀吉のスケール感を理解できなかったろう。
 逆にいえば、戦争という世界戦略を描けなかった家康は「戦のない世」をつくろうとすることに自分の使命をかけた。
 そこのところだけは、このドラマが説得性を持っている唯一の個所だ。

 

 

 つまり、最後の最後になって、『どうする家康』は、ようやく大河ドラマの骨格を整えることができたといっていい。
 結局、年を取った家康が、「世の中はどうにもならない」ことを悟ったからである。

 

 

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ゴジラ様! カッコいい!

 映画批評 

 

  “ゴジラ・ファン” にとって、ゴジラ映画の最大の関心事は、とにかく、

 「ゴジラの姿がカッコいいか? どうか?」
 である。

 

 そりゃ、ストーリーも大事。
 キャストの演技も大事。
 しかし、それは、映画の構成要素としては、二の次、三の次。

 

 ゴジラ映画の最大の評価ポイントは、なんといっても「カッコいいゴジラ像」が成立しえたかどうかという点に尽きる。

 

 その点、2023年11月に公開された『ゴジラ ー1.0(マイナスワン)』は、文句なく素晴らしい映像美を創造しえたと思う。

 

 

 その成果が口コミで広まったのか、公開3日間で興行収入が10億円を突破。
 2016年の『シン・ゴジラ』との興収対比122・8%という好調なスタートを切ったと報道されている。

 

 さらに、10日のニュースによると、ハリウッドの映画館では、観客総立ちのスタンディングオベーションが巻き起こったとか。

 

 

 ま、それほどの評判を手にした今回のゴジラ映画だが、微細に観察すると、顔は少し「ブス」だ。
 猫でいうと、「ブサかわいい」という方向に引っ張られている。

 

 

 しかし、プロポーションは悪くないのだ。
 バランスの良い筋肉質の体躯に恵まれ、
 襲われる人間の身になってみれば、
 「嫌なガキを怒らせたなぁ
 というトホホ感が込み上げてくる映像になっている。

 

 だから、あの丸太のような足で踏みつぶされる人々の “うんざり感” がなんとも切ない。
 「怖い」というより、「運が悪かった」と、わが身を呪う哀しさがそこから立ち昇ってくる。

 

 

 あらゆる面で印象深い『ゴジラ マイナスワン』であるが、前作の『シン・ゴジラ』と比べた場合はどうか。

 

 恐怖感でいえば、今回のゴジラの方がそうとう優っている。
 ストーリー展開も、今回の方が断然面白い。
 エンターティメントとしての出来映えは、かなり上だと感じた。

 

 

 だが、何かが足りないのだ。
 ゴジラ1作目(1954年)と比べてである。

 

 今回の『ゴジラ マイナスワン』は、その第一作目の誕生70周年を記念した作品ということで、個々のディテールには一作目の記念的シークエンス(配列)が多用されている。

 だから、“初代ゴジラ” を観た人には「見おぼえ」のある映像が出てくるようにも思えるが、決定的な “差” がひとつ。

 

 

 『ゴジラ マイナスワン』におけるゴジラは “怪物” だが、初代ゴジラは “神” だった。

 そういう印象が漂うのは、初代ゴジラが「モノクロ」映像であったことも大きいかもしれない。
 とにかく、画面全体が “闇” 。

 

 
 その闇の中を、闇よりも濃いゴジラの姿が自衛隊のサーチライトを浴びてヌルッと浮かび上がる。
 それはもう「怪獣」ではなく、地上に降臨した「神の影」であった。

 

 

 やがて初代ゴジラは、(お定まりのように)東京の繁華街を破壊しながら内陸部へ向かう。
 そのとき堅牢なビル群が次々と灰燼に帰す。
 
 しかし、そこには意外といっていいほど静けさが漂っている。
 どのビルも、ゴジラという「神」の裁きをしょう然と受け入れる旧約聖書の民のように、沈黙を守ったままひれ伏すように倒壊していく。

 

 
 その光景は、厳粛であり、神秘的であり、絶対的である。
 それは、人間の意識に舞い降りる「畏れ」というものが何であるかを説く映像でもあった。

 

 そのゴジラの神々しさが、2023年の『マイナスワン』には欠けている。

 

 ただ、初代ゴジラの映像を見たことのない観客にとっては、この『マイナスワン』の圧倒的な存在感も、やはり、それなりに貴重である。

 

阪神タイガースの奇跡

 

 現在73歳。
 東京生まれで、東京育ち。
 それでも50年間、“大阪の阪神” ファンをやっている。
 江夏、田淵という選手が輝きを放っている時代の阪神に魅せられたのだ。

 

 東京という土地柄もあって、周りの友達はみな巨人ファンだった。
 しかし私は、完璧なチームワークを誇る巨人にはない、ワイルドで、いい加減で、強いのか弱いのか分からない阪神が好きだった。

 

 忘れられないのは、1985年の「日本一」。
 そのとき私は35歳。
 阪神が最初の「日本一」を達成した瞬間を、私は西武球場のレフトスタンドで眺めた。

 

 吉田監督が胴上げされるのを見て、興奮状態に陥った私だったが、醒めるのも早かった。


 それは、
 「もうこんな瞬間を、自分が生きている間に見ることはないだろう」
 という寂しさと哀しさが入り交じったものだった。

 

 そういうチームだったのだ、阪神は。
 「今年こそは優勝しそうだ」と思わせるときがあっても、シーズンが終わる頃はけっきょく定位置 3位とか4位に沈んでいくチーム。
 
 阪神ファンの多くも、そのことを十分承知していて、
 「こんな駄目チームを応援する俺はほんとうにバカだ!」
 と泣き笑いするような人が多かった。

 

 だから、リーグ優勝がはっきり見えてきた1985年の後半は、もう「風邪」でもひいたかのような微熱状態が私を襲った。
 勝った日の翌日は、スポーツ新聞を何紙も買い込んで、通勤途中の電車のなかで読みふけった。

 

 このときの阪神はどんなチームだったのか。

 

 1年中活火山が噴火しているようなチームだった。
 特にクリーンアップの打撃力がすさまじく、どんな対戦相手のピッチャーも、もう1回か2回で交代しなければならないような試合の連続だった。

 

 語り草になっているのは、4月17日の巨人戦におけるバース・掛布・岡田の「バックスクリーン三連発」。
 
 7回裏の攻撃時に、巨人槙原投手から、3者連続でバックスクリーンにホームランを放った “事件” だった。

 

 

 1年を通してみると、
 3番バース 打率.350 54本塁打 134打点
 4番掛布  打率.300 40本塁打 108打点
 5番岡田  打率.342 35本塁打 101打点

 

 こんなクリーンアップは、その後の野球史上にも類を見ない。
 ちなみに、バースは、この年三冠王をとっている。

 

 以降、
 「もう自分が生きている間に、阪神の日本一を見ることはないだろう」
 そう思い続けてきた38年だった。

 

 しかし、この2023年に二度目の奇跡が起こった。

 

 不思議なものだ。
 「これからは阪神の黄金時代が訪れるかもしれない」
 今はそんな気分になりかけている。

 

 

将棋というゲームの恐ろしさ

 2023年10月11日、将棋の藤井聡太名人が「王座戦」で、永瀬拓哉九段を下し、ついに8冠を達成した。

 

 

 そのニュースが脚光を浴びたせいで、それ以降、テレビなどではその対局の棋譜(きふ)を紹介しながらプロの棋士(きし)が解説するシーンが増えた。

 それらを見るようになって、将棋というゲームの奥行きの深さのようなものを少しは感じられるようになった。

 あれは一種の “アート” のようなものだ。
 一人の棋士が、盤上の駒を進めながら相手の棋士と対局する。
 そこには、数学と文学が同居している。

 将棋の展開には、ピタゴラスアルキメデスのような著名な数学者たちが追求した合理性の極致のような回路が張り巡らされている。
 そこには、完璧なまでに磨き上げられた「整合性の美しさ」がある。
 しかし、同時にボードレールランボーといった天才詩人の作品のような「飛躍の美しさ」もある。

 今回の「王座戦」では、永瀬拓哉九段は、最後の詰めで、「99%の勝利」を一瞬のうちに失った。
 そのことを、本人は「エアポケットに落ちたような 」と述懐しているとか。
 それは、「将棋というゲームの詩のような美しさ」に永瀬氏がハマったことを意味している。

 これまで藤井聡太氏と戦ったことのあるプロの棋士たちの回想によれば、
 「藤井氏は不利な状況になってくると、必ず妙な手を打ってくる」
 という。

 “妙な手” というのは、決して最善手(さいぜんしゅ)とはいえない手のことをいう。
 「好手」と「悪手」に分ければ、むしろ「悪手」の部類に入る。

 今回の「王座戦」でも、永瀬九段が痛恨の一手と後悔した指し手の前に、劣勢を意識した藤井聡太氏が “奇妙な手” を指していたという。

 最近はAI(コンピューター)将棋が普及してきたので、プロ棋士同志の対局中にも、AIが絶えず棋士たちの指し手を分析している。

 よくは分からないが、AIでは通常100万手ぐらいは即座に模範解答を出すのだそうだ。
 今回、永瀬氏のミスを誘った藤井氏の指した手は、AIの解析によると、最善手の候補のなかでは上位3番にも入らなかったものらしい。

 しかし、このときのAIの解析をさらに進めていくと、6億手(6億通り)という膨大な解析までたどり着いた時点で、ようやく藤井氏の指し方が最善手のトップに躍り出てくるとか。

藤井氏は、その6億手ぐらいの読みを、だいた20分とか30分でこなしてしまうらしい。
 なんとも恐ろしい話だと思った。
 
 このように、人間がAIの判断を陵駕することがあるのは、AIと人間の想像力の差かもしれない。

 AIは、人間の「悪意」を読めない。
 つまり、人間は対局相手を騙すために、わざと「無意味に見える」手を考えつくことがある。

 それに対し、AIは、常に最善手を探し出すようにプログラムされている。
 その前提となるのは、「相手もまた最善手を探してくるに違いない」という信念(思考回路)だ。

 藤井名人は、そのようなAI的思考の裏をかいた。

 この藤井氏の魔術にハメられた永瀬九段は、盤上に駒を置いた瞬間、すぐに自分のミスに気づき、天を仰ぎ自分の拳で頭を叩き続けた。

 その動作が可愛いとネットで評判になり、永瀬氏は藤井氏をしのぐ人気を獲得した。
 いずれにせよ、今回の対決は、将棋というゲームの人間臭さを取り出したような試合だった。

  

『どうする家康』は面白いのかどうか

 

 2023年の大河ドラマ『どうする家康』が、この1月8日から始まった。
 ここに至るまでのNHKの番宣はすさまじかった。
 年末から年始にかけて、BS放送も含め、NHKの歴史教養番組はことごとく「徳川家康」に焦点を当てた。
 前作『鎌倉殿の13人』が大ヒットしたことに気をよくしたのかもしれない。

 

 確かに、昨年の『鎌倉殿 … 』は面白かった。
 私も毎回欠かさず観た。
 
 では、この『どうする家康』の初回をどう感じたか。
 


 違和感が残った。

 

 その最大のものは、(あくまでも個人の嗜好の問題かもしれないが)、家康を演じる松本潤の顔立ちである。

 

 バタ臭すぎるのだ。
 ジャニーズ特有の現代的フェイスなので、戦国時代の日本人に見えない。

 

 

 次に感じた違和感は、演出の過剰さ。
 “ヘタレの家康” を強調しようとするあまり、松本潤の泣き叫ぶ顔が頻繁に出てきて、少し食傷気味になった。
 
 また、人質として管理されている身にかかわらず、瀬名姫(有村架純)とのままごと遊び有頂天になっているという設定にも奇妙なものを感じた。
 
 松潤は、役者としての修練を積んできた人ではない。
 演技力があるとは決していえない。
 そういう場合は、むしろ抑制的な演出の方がボロが出なくてすむと思うのだ。

 

 ただ、松本潤の顔立ちに関しては、視聴者によってさまざまな好みがあるので、あのバタ臭さを「是」とする人々も多いだろう。
 事実、ネットの印象批評を見るかぎり、松潤の家康を「かわいい」と感じた人はいたようだが、違和感を感じたという意見は見当たらなかった。

 
 こういう歴史ドラマを観賞するとき、視聴者の判断基準となるのは、鑑賞者の歴史的知識や教養である。

 

 特に、私のような年配の人間にとって、若い頃に学んだ歴史的知識は絶対のものとなる。

 つまり、徳川家康という人物に共感を感じるかどうかは、以前にどういう知識を身につけてきたかによって決定的に決まるようなところがある。

 

 で、思うのだが、司馬遼太郎の小説になじんだ読者は、だいたい “家康嫌い” になる。

 司馬氏の戦国モノといえば、『国盗り物語』、『新史太閤記』、『関ケ原』、『城砦』など多数あるが、そこに家康が登場しても、司馬氏はけっして褒めようとはしない。

 

 司馬氏の作品に登場する家康は、どちらかというと、「地味」、「花がない」、「陰険」、「用心深い」といったネガティブなイメージが付与されていて、颯爽としたところがない。

 

 家康そのものが主人公である『覇王の家』という長編においても、基本的には、ネクラでねちっこい性格に描かれている。
 主人公をこんなにも “いやらしい” キャラクターに染めあげた小説というのも珍しい。
 このあたり、関西出身の司馬遼太郎の「関東嫌い」という気分が反映されているのかもしれない。

 

 私もまた司馬遼太郎の作品に長年なじんだせいで、家康という人物のイメージは「たぬきオヤジ」でしかない。

 

 今回の『どうする家康』というドラマは、そこのところを大胆に書き換える意図が明白なのだが、私のようなガンコな “司馬ファン” の心にどれだけ届くか。

 

 まずはNHKのお手並み拝見といったところだ。

 

サッカー解説にも新しい波

 

 日本中が熱気に包まれたサッカーのワールドカップが終わってしまった。
 今回も、結局日本チームは「ベスト8」の壁を打ち破ることができず、テレビを通じて観戦していた自分としては悔しい思いをしたが、しかし今回の「ベスト16」進出は、今までとは違ったものになったような気がする。

 

 

 それは、日本チームがドイツやスペインといった強豪を破って決勝トーナメントに進んだということだけでなく、「サッカー」というスポーツもまた、ひとつの国民的文化を反映したものだという部分を見せたくれたように思ったからだ。

 

 「サッカーの文化」とは何か?

 

 それは、サッカーというスポーツの枠を超え、そこに国民性の違いやら、その取り組み姿勢の違いなどを浮き上がらせる力のことだ。

 

 特に最後の試合。
 クロアチアという格上チームを相手に、日本はドイツやスペインを相手にしたときと同じような接戦を繰り広げたが、結局延長線の後で迎えたPK戦で敗れた。
 
 あるサッカー解説者はいう。

 

 「PK戦というのは、相手のゴールキーパーには手も出せないような場所にボールを蹴り込むこと尽きる」

 

 手が出せない場所というのは、クロスバーすれすれの高さを確保した場所のことである。

 そこを勢いよく突かれると、たいていのキーパーはボールを捕捉することをあきらめてしまうが、蹴る側からすると、それはとてもリスキーな場所なのだ。
 なぜなら、攻める側にも、ボールをクロスバー内にコントロールすることが難しくなるからだ。

 

 クロアチア戦におけるPK合戦では、日本のキッカーは、そのリスクを避けて、ゴールポストの左右どちらかを狙う作戦に出た。高さを狙うより失敗が少ないからだ。

 

 しかし、ボールが、左右のいずれかに来るのであれば、キーパーは自分の体を水平移動するだけで対処できる。
 クロアチアのキーパーは、最初に蹴った二人の日本選手から、そのコツをなんなく手に入れた。

 

 

 そこに、日本人のメンタリティーがにじみ出てしまった …… と、あるサッカー解説者はいう。

 

 日本人は、リスクを背負ってチャレンジするよりも、冒険を避け、リスクを回避することを好む。
 なぜなら、そういう文化に育ってきたからだ。

 

 そう語ったのは、サッカー解説者の福田正博(ふくだ・まさひろ)氏である。

 

 サッカーというのは、狩猟・騎馬民族的なスポーツだとよく言われる。
 それは大自然のなかで、天候を読み、地形を読み、常に流動的な状況のなかで他者(敵)との戦いを有利に進める文化になじんできた民族のスポーツだ。

 

 それと正反対の思考を持つ文化が、いわゆる農耕民族的な思考様式だ。
 こういう文化を過去に背負ってきた民族は、毎年周期的に訪れる「種まき・刈り取り」のサイクルを忠実に守らないと生きていけない。

 

 この「農耕民族 vs 騎馬民族」というレトリックは、現在のグローバル社会のなかでは過去のものとなったとよく言われる。

 

 しかし、完全に消えたわけではない。
 特に、今回のPK戦という肝心なところで、日本人の農耕民族的なメンタリティーが無意識のうちに出てしまった そんなふうに思えないだろうか。
 
 もちろん、このPK戦に至るまで、日本チームは国際感覚にあふれたゲーム鮮やかにを進めてきた。
 だから、過去の日本チームと比べて、各段の進歩を遂げたのは事実だ。

 

 

 しかし、リスクに対する覚悟の取り方だけは変わらなかった。
 私は、こういうことを考えさせてくれるサッカー解説にとても魅了された。
 
 「サッカーというスポーツから、諸外国と日本の文化の差を感じる」

 

 そう教えてもらったのは得難い経験だった。
 だからこそ逆に、日本が諸外国との差を縮める姿も想像できるようになった。
 
 諸外国と日本サッカーのレベルの違いを、スペイン戦でゴールをあげた田中碧選手が語っている。

 

 「ベスト8に残るようなチームは、ある意味で、“化け物” みたいなチームばかり。それがよく分かった。
 だから次は、自分たちがその “化け物” にならなければならない」

 

 ベスト8のメンバーたちに接したからこそ言える言葉である。

 

 それは、日本のサッカー解説者たちにもいえることである。
 前述した福田正博氏だけでなく、前園真聖氏など、今回のW杯の解説は、そういうすがすがしい説明を行なえるようになった新しい解説者をたくさん見ることができた。

 

 今までの解説は、技術論の解析が主流だった。
 しかし、今回のW杯を通じて、いろいろなチームのいろいろな戦いぶりを観てきた視聴者たちは、もう単純な技術論だけでは納得しない。
 国際試合通じて、国同士の民族の違い、文化の違いをしっかり説明してくれる解説者を望むようになってきている。

 

 つまり、サッカー解説も、「人間の解析」にまで及ぶレベルのものが求められる時代がきたのだ。

 

 私は、それは「一方通行」的なものではないように思う。
 そういった解説者と視聴者、そして現場のアスリートたちとの “心の交流” が生まれることによって、文化が深まると確信している。

 

 もし、日本人アスリートの伝統的な思考様式が、一つの強さにまで昇華すれば、それは海外の選手やサポーターにとっては、エキゾチックな美学になりうる。

 

 すなわち、日本人の “融通の利かない気真面目さ” にストイックな信念を見いだす外国人たちは絶対いる。
 それは、逆にいえば、彼らが感じた「サムライ」であり、「ニンジャ」なのだ。

 

 カッコよさとは、欠点を「美」に昇華したときに生まれる心の形でもある。

 

“玉川徹問題” にみる電通文化の終わり

   

 19日(水曜日)。

 テレビ朝日の「羽鳥慎一モーニングショー」の冒頭に、10日間の謹慎処分を解かれたコメンテーターの玉川徹氏が登場し、「電通と菅氏には申し訳ないことをした」と謝罪。
「今後は現場の取材を中心に番組構成に携わる」
と発言した。

 

 

 つまり今後は、「コメンテーター」という形でスタジオからは発言しないということらしい。

 私は、玉川氏に好感を感じる視聴者の一人としてこの問題に関してずっと関心を持っていたので、とりあえず現場の取材レポーターとして彼の姿を観ることができることに多少安堵している。

 

 ことの発端は、9月28日のオンエア中、玉川氏は、安倍晋三元首相の国葬に出席した菅義偉前首相の弔辞に触れ、その内容は(広告代理店の)電通がつくったものだと断言。


 「僕は演出側の人間としてテレビのディレクターをやってきましたから。(僕だったら)そういうふうに作りますよ」
 と言い切ったことだった。

 もちろんこれは事実誤認だったので、玉川氏は翌日に謝罪し、発言を撤回した。

 

 しかし、ことはそれで終わらなかった。

 氏の発言は安倍元首相の「国葬批判」にもつながるものだったので、安倍氏寄りの自民党議員たちが怒りの声を上げた。

 

 特に、菅前首相の弔辞は、批判的な見方も多かった今回の国葬におけるもっとも “感動的” なシーンだったので、それを否定的に語った玉川氏は自民党議員の集中砲火を浴びることになった。

 

 現に、自民党西田昌司参院議員などは、ユーチューブで玉川氏を次のように批判している。

「菅氏の弔辞を完全に腐す無礼千万なコメント。事実に基づかないで(テレビ朝日の)一社員が腐す発言をするというのはお詫びで済む話じゃない。 テレビ朝日としての責任を取ってもらいたい。 厳正な処分をしないといけない」

 

 こういう流れを受けて、10月6日には、テレビ朝日で開かれた「放送番組審議会」で

は、冒頭のような厳しい意見が相次いだという。

 

 その発言記録を入手した「文春オンライン」によると、審議会に出席した委員は、幻冬舎見城徹社長、弁護士の田中早苗氏、作詞家の秋元康氏、脚本家の内館牧子氏、スポーツコメンテーターの小谷実可子氏、作家の小松成美氏、サイバーエージェント藤田晋社長、ジャーナリストの増田ユリヤ氏の8名。

 

 その審議は2時間に及び、
 「(玉川氏は)何を根拠にあれだけの問題を公器で言ったのか」
 と玉川氏を糾弾する意見が相次いだという。

 

 それにしても、この玉川氏への批判の声の大きさは何を示したことになるのだろう。

 

 はっきりいうと、これは、日本の広告界を牛耳っていた電通と、そういうビジネスを容認してきた自民党主流派の「終わり」を意味するものだということだ。

 東京五輪の贈収賄事件が暴き出したのも、電通的ビジネスの “闇” だった。
 その背後には、自民党の元組織委員会会長の森喜朗元首相が絡んでいるという見方が一般的だ。

 

 結局、金まみれの五輪にしたのは、「電通」OBで元組織委員会理事の高橋治之氏と、自民党の五輪推進派が後押ししたものだったといえる。
(それは、あの五輪の開幕式と閉会式のお粗末なパフォーマンスが象徴的に示している)。

 

 この一連の贈収賄事件には、紳士服大手の「AOKIホールディングス」、出版大手の「KADOKAWA」も絡んでいたことが明るみに出た。

 広告代理店。 ファッションブランド。 出版文化。
 そういう “昭和的な” 産業がすべて凋落したことが示された事件だった。

 

 つまり、安倍元首相の「国葬」というのは、結局そんな “昭和的” なビジネスと文化が終わったことを示す事件だったといえなくない。

 

 「モーニングショー」で、玉川氏が、
 「菅元首相の弔辞には電通が絡んでいる」
 と言い切ったことは、もちろん事実誤認てあったが、しかし、いみじくも昭和的なものの終焉を象徴的に語ったものだと私は感じている。

 

 今回の騒動を受けて、SNSでは、玉川氏の「事実誤認」を批判する人々の声が溢れた。

 しかし、みんな何か勘違いしていないか?
 ワイドショーのコメンテーターの仕事は、ニュースの内容を正しく繰り返すことだけではない。

 「そのニュースが、視聴者が考えるに値するかどうか」
 ということを示唆するのも仕事の一つだと考えている。

 

 そういう観点で振り返ったとき、現在朝のワイドショーなどで、玉川氏以上の仕事をしているコメンテーターがどれだけいるだろうか。


 “カリスマモデル” などという肩書で登場するギャル系のコメンテーター。 あるいは「人をいじる」ことしか芸のなお笑い系芸人たち。
 これらの人々のコメントをまともに聞くこと以上に辛いことはない。

 

 その点、玉川氏は視聴者に「考えるヒント」を与え続けてくれた人だった。

 確かに多少軽率なところはあったが、玉川氏はそういう力を持ったコメンテーターの一人だったと私は思っている。

 

安倍氏の「国葬」問題が暴き出したもの

  

 2022年 9月27日(火曜日)。
 安倍晋三元首相の「国葬」が行われた。

 

 

 最後まで賛否両論に分かれた国葬だった。

 葬儀場となった武道館周辺では安倍氏を偲んで献花に訪れる人々が長蛇の列をつくったが、一方、その近くでは「国葬反対」のプラカードを掲げた市民が激しいデモを繰り広げた。

 

 これまでのさまざまな世論調査によると、どの調査でも「国葬反対」を掲げる声が6割くらいで、「賛成」が4割程度。常に反対の方が多い形で終始していた。

 

 「国葬反対」の理由は、
 「このたびの国葬には法的根拠がない」、
 「(警備などで)16億円以上の税金をつかうのは意味がない」、
 「憲法違反だ」、
 「民主主義的ではない」
 などの意見が多かった。

 

 それ以外では、「安倍元首相という政治家の評価が定まっていない」という声もあった。

 

 私個人の感覚では、安倍氏の銃撃事件以降、多くの自民党議員を巻き込んだ  “旧統一教会問題” が一気に明るみに出たことが最大の要因であるように思う。
 実際、安倍氏の死が報道された直後、つまり統一教会問題が取りざたされる前の世論では国葬を評価する声の方が多かったのだ。

 

 ところが安倍氏を狙撃した犯人の殺害動機が「統一教会への恨みだった」ということがクローズアップされてからは、みるみるうちに安倍氏国葬に疑問の声が上がるようになった。

 

 旧統一教会問題は、何をあぶり出したのか?
 
 自民党を筆頭とする日本の政治家たちは、「嘘つき集団」だったということが暴露されたのだ。それも、あまりにも露骨なかたちで。

        
 自民党議員たちに自己申告制のアンケート調査をしたところ、「統一教会と関りがあった」という報告が相当数噴出したものの、その大半は、
 「関わった団体が統一教会とは知らなかった」、
 「自分が関わった団体がどんなものだったのかあまり意識していなかった」
 という答えに終始するもので、私のような素人が判断しても、その嘘つきぶりはすぐにバレてしまうものばっかりだった。

 

 私たちは、政治家たちの「嘘」に、もう辟易(へきえき)している。
 もちろん、政治の世界では「上手に嘘をつく」ことも技術として要求されることもあるだろう。
 しかし、世界的にみても、最近の政治家たちは、発言を聞いた国民が唖然とするようなしらじらしい嘘を平気でつき通す。

 最近の例では、その筆頭がアメリカのトランプ元大統領だ。
 あのような下手な大嘘を精力的につき通す政治家というのは、今まであまりいなかった。

 

 

 さらに、現在、嘘をつき通す路線を爆走しているのが、ロシアのプーチン大統領だ。

 

 

 私たちはずっと、こういった世界のリーダーの貧しい嘘の連続に、もう心が萎えそうな日々を送っている。

 

 その日本における顕著な例が、まさに安倍元首相の発言だった。
 “モリカケ問題” 、“桜問題” 。
 安倍氏は、国会答弁で、これらの問題を野党に追求されても、ことごとく語気を強めて嘘を通し続けた。
 そして、その最後に、選挙戦では、安倍氏統一教会の票を他の自民党候補に差配していたことが暴露された。

 

 その安倍氏の嘘に接しながら、今の岸田首相は自分の身を挺しても安倍氏の業績をかばい続けた。

 「安倍氏がどれだけ旧統一教会問題と関わっていたかは、安倍氏が亡くなった今、調査するにも限界がある」というのが岸田氏の理屈。
 そんなものはいくらでも調べようがあるにもかかわらずだ。

 

 結局、岸田氏のその発言は、党内最大派閥の “安倍派” への配慮に他ならない。つまりは、岸田氏の大嘘といえよう。

 

 今回の国葬問題に関して、私はBS-TBSの「報道1930」に出演した保坂正康氏の発言に共感した。

 保坂氏は、安倍氏が進めようとした政治は、日本の現代史を逆行させようとしていたという。

 

 

 つまり保坂氏にいわせると、安倍氏は、戦後の政治家として最大の功績があった吉田茂平和憲法の精神を覆そうとしていたというのだ。


 吉田茂は、アメリカのGHQとのたび重なる交渉によって、戦争をしない国家としての戦後日本の原型をつくろうとした。その具体的な宣言が戦後の日本国憲法となった。

 

 しかし安倍元首相は、「戦後レジームとの決別」を標語に、「アメリカに押し付けられた憲法を正し、日本独自の憲法解釈を進める」ことを提案。それが新しい時代のテーマだと主張した。

 

 それに関して、保坂氏はいう。

 

 「戦後の政治を変えようとする主張を悪いとはいわない。しかし、安倍氏はあまりにも吉田茂を筆頭とする当時の日本の政治家たちの努力に敬意をはらわなかった。
 吉田たちがどんな思いでアメリカと交渉し、日本独自の平和憲法の草案をまとめたのか。その必死の思いを安倍氏はまったく汲もうとしなかった」

 

 保坂氏は日本の近現代史に精通したジャーナリストだから、戦後の日本国憲法がどのような形で生まれてきたのか、その経緯を詳しく知っている。そういう保坂氏から眺めると、安倍氏の浅薄な短慮が悲しく思えただろう。 

 

 それは、当然「安倍氏の目指した道を忠実に歩む」と明言した岸田首相への批判にもつながる。保坂氏は、安倍氏の「憲法改正」という路線を継承しようとする岸田氏に失望していることも同番組のなかで明言した。

 

 結局、安倍路線を踏襲しようとしたり、旧統一教会問題に真剣に取り組もうとしない岸田自民党が、これ以上国民の信頼を回復する手段は現在のところ見い出せないというのが「報道1930」の結論だった。


 私も、その通りだと思う。

 

 ただ、一方で、「国葬反対」を唱える人々の主張にも、ものすごい違和感を感じた。
 「違和感」というより、正直にいえば「嫌悪感」に近い。
 報道によると、国葬の参加者が黙祷しているときに、反対を唱えるデモ隊は、鐘や太鼓を鳴らして騒音を立てまくったという。
「なんと下品な!」
 と軽蔑せざるを得ない。

 

 

 私は、「国葬反対」と大声で叫ぶ人々を信用しない。
 安倍氏を擁護する自民党の嘘つきたちと同じくらい信用しない。
 
 方や白々しい嘘を平気で垂れ流す厚顔無恥自民党政治家たち。
 方や、硬直した(薄っぺらい)正義感を恥ずかしげもなく叫び続けるイデオロギッシュな “市民グループ” 。

 

 どちらも消えてくれ。
 日本はもっと成熟した国にならなければならない。

 

カラバッジョの謎の作品

恐くて、美しい眼の女


 かくも恐ろしく、かつ美しい眼をした女性を描いた絵を、ほかに知らない。

 

 

 タイトルは、「ホロフェルネスの首を斬るユディト」。

 

 

 西洋絵画ではおなじみのテーマで、クラナッハクリムトなど有名な画家の無数の作品が残されている。

 

 しかし、上記の絵が評判になったのは、2014年に、フランスのトゥルーズの民家の屋根裏から偶然発見され、しかも作者が、あの巨匠カラバッジョ(1571~1610年)ではないか? と詮索され始めたからだ。

 

 このニュースを知ったのは、NHKの「BS世界のドキュメンタリー」だった。
 邦題は「疑惑のカラヴァッジョ」。(原題 The Caravaggio Affair 2019年フランス)。

 

 絵の異様な迫力に、テレビを見ていた私にも戦慄が走った。

 

 「むごたらしい絵だ!」
 というのが、第一印象だった。

 

 しかし、カメラが原画に近づき、「ユディト」と呼ばれる女性の顔がクローズアップされた段階で、その戦慄は別のものになった。

 

 なんとも奇妙なエロティシズムがその顔に漂っている。
 ただの「恐ろしさ」とは、別のもの。
 人の首に刃をこすりつける瞬間の冷たい “恍惚感” 。
 
 その異様な迫力が、ユディトの眼に宿っている。
 それが、この絵の「むごたらしさ」の正体だ。

 

    

 この絵は、どういう情景を描いたものなのか?

 

 画題は、旧約聖書からとられている。

 

 紀元前600年から500年ぐらいのこと。
 アッシリアの王がユダヤ人の王国を滅ぼそうとして、ホロフェルネスという将軍をユダヤの地に派遣した。

 

 将軍ホロフェルネスは、ベトリアというユダヤ人都市を包囲。
 その陥落も間近というとき、町に住むユディトという美しい未亡人が将軍のもとを訪ねてくる。

 

 ホロフェルネスの幕舎に案内されたユディトは、
 「あの町には愛想をつかしたから、攻略方法をこっそり教える」
 と打ち明け、彼にさんざん酒を勧める。

 

 ホロフェルネスはユディトの色香に惑わされ、部下も退けた状態で、しこたま酒を飲み、泥酔してしまう。

 

 頃を見計らったユディトは、剣をつかみ、侍女とともに、ホロフェルネスの首を斬り落として、味方の陣営に戻り、ベトリアの町を救う。
 
 簡単に要約すると、そういう話なのだが、実話ではないらしい。
 旧約聖書に出てくる話だが、時代を特定できるデータもなく、都市名も架空のもの。
 もちろん「ユディト」と名乗る寡婦が実在したという証拠もない。
  

 
 しかし、ユディトの神々しい美しさと、彼女が犯した残忍な行動の落差が伝説となり、画家たちの想像力が刺激されたことは確かで、中世から近代にかけて無数の絵が生まれた。

 

 そのなかには、クラナッハクリムト、アローリなどという大家の作品もたくさん含まれている。

 

クラナッハ

クリムト

▼ アローリ作


 実は、画家名がカラバッジョだと特定できる作品も、すでに存在している。

 

▼ カラバッジョ

 

▼ 上記の作品の部分

 

 となると、2016年に発見された絵は、カラバッジョが描いた2作目のユディトということになる。

 

 同じ作者が、これほど異なる雰囲気の別バージョンを残すのだろうか?

 

 二つの絵を比べてみると、まず、ユディトの表情がまったく異なる。

 

 すでに「カラバッジョ作」と特定されている絵を見ると、ホルフェルネスの首を切り裂くユディットは、自分で犯した殺人ながら、そのおぞましさに耐えきれず、眉をしかめて身をのけ反らせている。
 
 それに対し、2016年に発見されたユディトの表情には、断固となる冷たい決意がにじみ出ている。


 2016年版は、カラバッジョとは異なる絵描きの作品ではないか? と推理する鑑定士がたくさんいる理由もそこに集中する。

 

 

 真贋を見極める意見は、真っ二つに分かれている。

 

 技法やタッチには、2作とも、紛れもなくカラバッジョでなければ描けないような技術が凝縮しているという。


 X線やコンピューター解析などによる総合的判断の結果、そう主張する鑑定士の数は多い。

 

 だからといって、2016年版が、即座に「カラバッジョ作」とは断定しきれない疑惑も残ったままなのだとか。


 同時代の画家であるルイ・ファンソンが、この絵そっくりの構図で模写している作品もあり、本作も、ファンソンが描いたという可能性が払拭しきれないらしい。

 

 また、カラバッジョが未完成のまま残した作品を、ルイ・ファンソンか別の画家が仕上げたのではないか、と推論する鑑定士もいるようだ。

 

▼ カラバッジョ自画像

 

 今のところ、鑑定の最終判断は下されていない。
 ということは、2016年に発見されたユディトは、作者不詳のまま、「幻の傑作」という状態で放置されたままなのだ。

 

 謎は謎を呼ぶ。

 

 実際に、2016年に発見されたこのユディトの顔は謎に満ちている。
 男の首を斬り離そうとしながら、彼女は、男の顔も自分の手元も見ていない。

 

 

 彼女の心の状態はどうなっているんだろう?

 

 ユダヤの町を救うという使命感に燃えているのだろうか。
 それとも、神の意志を実現するという信仰心に突き動かされているのだろうか。
 あるいは、殺戮の快楽という “おぞましい” 欲望を噛みしめているのだろうか。

  
 最大の謎は、彼女はホロフェルネスの首を斬りながら、誰を見ているのか? ということだ。

 この “カメラ目線” こそ、この絵の最大の謎である。

 彼女の感情を押し殺した冷たい眼の奥に何が潜んでいるのか。
 それは、誰にも分からない。

 

 

 

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他国に軍事介入した国は必ず失敗する

 
 プーチン大統領のロシア軍が隣国ウクライナに侵攻して2ヶ月が経ったが、相変わらず、各国のニュースが戦況の報告に時間を割いている。

 

 そういう報道のなかで、
 「ロシアは悪。ウクライナは善」
 という単純な二分法を批判する意見が目立つようになってきた。

 

 日本では、特に作家、映画監督、政治評論家など、周囲から「インテリ」と目されるような知的な職業に就いている人に多い。

 

 こういう意見に、私は半分だけ同意する。
 戦争の当事者たちは、どちらも「自国の正義」を拠りどころにするものだから、第三者の主観的な直感だけで真実を判断できないという見方が成立する余地は、確かにあり得る。

 

 そういった意味で、ロシアとウクライナを「善悪二元論」で片づけることの危うさに私も気づいている。

 

 だけど、どう考えたって、「プーチンは悪い」という直感が誤っているとは思えない。

 

 

 悪いものは悪い。

 少なくとも、自国の “正義” を貫くために、他国を武力で侵攻することが正しいとは論理的にも倫理的にも言えないはずだ。

 

 20世紀の世界史を振り返ってみても、自国の勝手な主張に頼って他国に武力介入した国は、例外なく失敗し、「悪」の烙印を押されている。

 

 ポーランドチェコ、フランス、さらにロシアを併合しようとしたナチスドイツしかり。


 中国や東南アジアに進出した大日本帝国しかり。

 

 北朝鮮も、朝鮮半島の統合を試みたが、国連軍に38度線まで押し戻され、その後は朝鮮半島の「ならず者」的な扱いを受けている。

 

 冷戦後ベトナムに戦争を仕掛けたアメリカも、「帝国主義」の烙印を押され、その政治的・軍事的な敗北においてトラウマを負った。

  

 このように、軍事的に他国に侵攻した国は、ことごとく敗れ去り、最後は「悪」の汚名を着せられる宿命から逃れることはできない。
 おそらく、ロシアもそうなる。

 

 そういう「悪の滅亡」が法則化されている世の中で、ロシアのプーチン氏だけは、自分の試みは成功すると思っているのだろうか?

 

 

 「思っている」と観測する意見は多い。
 オーストリアのネハンマー首相は、モスクワでプーチン大統領と会談したあと、
 「彼は戦争に勝っていると信じている」
 と報道人に対してうんざりした表情でコメントした。

 

 プーチン氏には独特の信念があって、それは次のようなものだという。

 

 「EUNATOの西側諸国は、民主主義を拠りどころにしているが、民主主義というのは、国民がわがままを言い始めると分裂してしまう。
 それに対し、ロシア人は民主主義のような頼りないものを信じていないため、最後は政治的に勝利する」

 

 彼が本当にそう明言したかどうかは分からない。
 ただ、おそらくプーチン氏の理念を言葉にすると、そうなるはずだ。
 
 
 現在、西側諸国が恐れているのは、プーチン氏が核戦争を起こすかどうかだということだ。
 核兵器には地域限定的な「戦術核」と、広範囲なエリアを焦土化する「戦略核」の2種類がある。

 

 もし片方が「戦略核」を使用すると、相手方もその報復として「戦略核」を放って対抗しようとする。

 

 そのような戦略核の応酬となれば、ヨーロッパやアメリカの主要都市も、ロシアの主要都市も壊滅的な被害を被ることになる。

 

 

 こういう不安は、ロシア国内でも巻き起こっているらしい。
 ただし、ロシア人のなかには、世界が核被害を受ける「第三次世界大戦」を容認する声もあるという。

 

 ある日本のテレビ番組で、ロシアの国営放送の様子が伝えられていた。
 男女を含んだ数人のロシア人キャスターが討論している様子が紹介されていた。

 

 

 女性キャスター 「このままでは核戦争が起こるかしら?」
 男性キャスター 「西側諸国が挑発を止めないかぎり、そういう可能性はあるね」
 女性キャスター 「困ったことね」
 男性キャスター 「あいつらはバカだから、核の怖さを分からないみたいだ」
 女性キャスター 「でも、人間はいつか死ぬのだから、私は気にしないわ」
 男性キャスター 「核戦争で死んでも、ロシア人はみな天国にいける。しかし、西側の住民は、ただ “死ぬ” だけだ」

 

 こういうやりとりが本当にあったのかどうか。
 もしかしたら、これは西側諸国がたくらんだフェイクニュースかもしれない。
 しかし、もし上記のようなやりとりが本当だとしたら、ロシアの国営放送の恐ろしさが如実に分かるエピソードだ。

 

 実際、プーチン氏は「核戦争」の結末をリアルにイメージしていない可能性がある。
 なぜなら、
 「この世にロシアがいない世界など、生き残っても意味がない」
 と、何かのついでに発言したという話もあるからだ。

 

 この発言の真偽も、裏がとれていない。
 しかし、いかにも彼が言いそうな話だ。
 

 
 この究極の自暴自棄ともとれる発言は何を意味するのか?

 プーチン氏が、「国家」というものを、合理的な存在として見ていないことを意味している。
 彼が考えているのは、経済や政治の総合的なシステムとしての近代国家ではなく、中世人たちが考えていたような「神聖国家」である。

 

 そのイメージには、ロシア正教的な「ルースキーミール(ロシアの世界)」という宗教的・神秘的な国家観が反映されていることは確かだが、それを支えるものとして、「朕は国家なり」という彼自身の自己肥大妄想も影を落としている。

 

 

 プーチン氏は「歴史」というものに極度な関心を示し、特に、ロシア史のエピソードに関しては、歴史学者顔負けの知識を蓄積しているという。

 

 なかでも、ピョートル大帝やエカテリーナ2世(写真下 ロシアドラマより)といったロシアの偉大さを誇示した皇帝たちの話が大好きで、自分もそれに負けない大英雄になることを夢見ているという話もある。 

 

 

 このように、歴史を深掘りするということは、「垂直軸の思考方法」を身に着けることを意味している。


 そのとき、現実の世界地図を広げて情勢分析するような「水平軸の思考」は意識のかなたにフェイドアウトしていく。

 

 つまり、プーチン氏にとって、現在侵攻しているウクライナという隣国は、地図を広げたときに目に入ってくる「他国」ではなく、「(これから編入される)ロシアの領土」でしかないということなのだ。
 
 このように、ロシアという「領土」と自分が一体となったプーチン氏の思考では、「自分が理解できない世界は抹殺してもかまわない」という発想しか生まれてこない。

 

 

 現在、ロシアからの「頭脳流出」が話題になっている。
 海外に逃れているのは、IT 企業の経営者やその技術者だ。


 グローバルな電脳世界で活躍する彼らにとって、IT にもAI にも関心のないプーチン氏が仕切るロシア世界というのは、息苦しいだけでしかない。

 

 こういう頭脳流出がどれだけロシアの未来を貧しいものにしてしまうか、プーチン氏には分かっていないようだ。

 

 自己肥大化願望を、軍事のみで満たそうとするプーチン氏の凋落はすぐそこまで来ている。

 

 

思ってもいない言葉が口をつく

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 人間、追いつめられて、疲労も蓄積してくると、頭脳と肉体がそれぞれ別の方向に向かって歩き出してしまうことがよくある。
 思ってもいない言葉が、ふと口をつくというヤツ。
 
 いくつかの例があるが、私の場合、そのひとつが、「意味のない独り言」。
 
 先だって、ある人と話していたら、
 「身体も心もトコトン疲弊してくると、いつのまにか独り言をつぶやいているんだよね」
 という話になった。
 
 道を歩いていても、電車に乗っていても、気づくと、仕事や生活とはまったく無縁の、ほとんど意味のないことをつぶやいている。
 
 「あ、それ、俺もある!」
 「やっぱ?」
 と、2人で見つめ合い、お互い哀れむようにうなづきあった。
  

 
 もうひとつ怖いのは、言い間違いが多くなってきたこと。

 年のせいかもしれないが、自分がおかしなことを言い始めても、なかなか気づかない。 

 
 こういうことって、他の人にもいっぱいあるらしい。
 ある雑誌を読んでいたら、疲れてタクシーを拾った人が行き先を告げるときの失敗談を載せていた。
 
 本 人  「家までお願い」
 運転手 「どこのです?」
 本 人  「だから、家までだよ」
 
 似たような話が、自分にもある。
 
 ある私鉄の駅で、自動販売機を使わずに、駅員のいる窓口でキップを買おうとしたときのことだ。
 
 行き先の駅名を何度言っても、窓口の向こうにいる駅員はまったく応じてくれない。
 そればかりか、私の真意をさぐるような目つきでこちらを見つめてくる。
 
 駅名を連呼しているうちに、私は、ふと気がついた。
 駅員に向かって、
 「マイルドセブンライト(煙草の名)」
 と、言い続けていたのだ。
 
 切符を買ったあと、駅構内に入ったら、売店で煙草を買う。
 頭の中でそういう段取りを付けていたのだが、その順序が逆になったのだ。
 
 この手の話を、
 「アハハハ俺その時ボケちゃってよ」
 ってな笑い話で済ませられるうちはいい。
 
 だけど、笑い話で済ませられないようになったら、どうしよう。

 たとえば、ある日カミさんと、こんな受け答えをしたら?
 
 「お、ヨシ子、パーマにいったのか? 似合うじゃないか」
 
 「私、パーマなどに行っていませんけど。それにヨシ子じゃありません。ヨシ子って、誰?」