乗客は静かだった。
眠っている初老の男ひとり。
女性週刊誌を眺めている独身風の中年OLひとり。
抱き合っている学生のカップルが一組。
乗っているのは、私を含めその5人だった。
私は、席に座って眠ってしまうのを避けるために、車両の最後部に立ち、退屈ざましに、乗っている人間たちを観察した。
年末の最終電車。
休みに入った企業も多く、人の顔も緊張感を失ってまのびしている。
電車が減速してホームについた。
開いたドアから風が吹き込んでくる。
明かりの消えた町並みが冷気の底に沈んでいる。
眠っていた中年男が目を開けた。
男は寒そうに背を丸め、窓の外を眺めて、舌打ちをする。
郊外にローンで建てた家に、妻ひとり子供二人。いつもは会社が終わると真っ直ぐ帰宅。
今日はたまの忘年会に誘われて、気分が乗り切らないままお開きを迎え、若者グループから義理で誘われたカラオケを断って、そのまま帰る。
… そんな感じの男だ。
OLが雑誌から目を離して大あくびをする。
仲間の独身OLたちと映画の鑑賞。そのまま居酒屋で会社の男たちのうわさ話。
「いい男いないわね」とみんなで愚痴を垂れ、自分だけは恋人探しに熱中していることは隠しつつ、表面的にはお互いに慰めあってきた。
… そんな感じの女。
若いカップル。抱き合ったまま話がない。
女の方は酔っているのか、男の肩に頬を預けてぐったりしている。
男は、早くアパートに寄って女の酔いが醒めないうちにモノしてしまうつもり。
… そんな感じ。
ドアがまだ開いている。
誰も乗らない。
忘年会の狂騒も峠を越えたこの時期に、終電まで飲み歩いている人間はこの辺にはいないようだ。
ドアが閉まる。
ふと後尾車両を覗くと、後ろの車両はどういうわけか乗客が多い。
本来なら、ひとつ後ろの車両だから、乗っている人間の顔など分からないはずなのに、連結部の窓ガラスを通して、後ろの車両に乗っている人間の顔がはっきりと見える。
「あれ?」
私は思わず、声を漏らした。
同僚の北村が乗っている。家とは反対方向だ。
終電に乗って、いったいどこにいくつもりか。
それにしても、北村を見るのは久しぶりだ。
同じ職場なのに、課が変わってからは会うことがなかった。
… はて、最後に顔を見てから、いったい何年経ったのだろう。
連れがいる。引退した前社長の島森だ。
島森が前社長だったなんて、もう記憶からすっかり抜け落ちていた。
二人とも椅子に腰掛けず、吊革につかまったまま立っている。
北村は熱心に島森に話しかけている。
島森はうんざりした顔でうなずいている。
業務の報告を、島森が北村から直接受けるはずはない。
何かプライベートな話なのか。
それにしても、ずいぶん珍しい取り合わせだ。
「や?」
その向こうには桜井がいる。
寒いのに半ズボンを履いている。手に持っているのは図画工作の作品のペーパークラフトだろうか。
黒く塗りつぶされた鳥のような形をした人形を抱えている。
ランドセルが膨らんで中からソロバンが頭を出している。
窓の外をじっと見ている。
室内の明かりが反射して外の景色は見えないはずだ。
窓に映った自分の顔でも眺めているのだろうか。
青い顔だ。体の具合でも悪いのだろうか。
立原もいる。
学生服の下に、相変わらず下駄を履いている。
アルバイトの新聞配達した余りをもらったのか、新聞の束を小脇に抱えている。夕刊のようだ。
同じ新聞を何部も抱えて何にするつもりなのだろう。
学生服につもった自分の頭のフケを手で払っている。
ふくらんだ鼻の穴が動物園のゴリラを思わせる。まだ独身のようだ。
その向こうは叔父だ。
パーティーの帰りか、フロックコートに山高帽だ。
丸い眼鏡の奥で、相変わらず険しそうな目を光らせている。
目を合わせれば、いまだに「お前は、自分の親父の爪のアカでも飲んだほうがいい」と言い出しかねない。
幸い、これも窓の外を凝視したまま視線を動かす気配がない。
座って居眠りをしているのは、私の祖父のようだ。
長い入院生活が続き、私は見舞いの時にしか祖父に会ったことがなかった。
父が「孫が来ましたよ」と報告すると、いつも静かに目を細めるだけだった。
何を見つめているのか、焦点の定まらぬ視線。
それがじっと私に向けられると、私は不気味でしょうがなかった。
今日はどんな目をしているのか。居眠りをしているので、目の “表情” までは読み取れない。
なんだ、叔母もいる。
いやだぜ! 今どき田舎でも見ないモンペを履いている。
何かの買い出しか、篭を背負っている。芋か、米か …。農産物が入っているようだ。
丸い眼鏡越しに、しわの寄った自分の手をじっと眺めている。
顔の色が白樺の幹のように白い。
しかし、どうしてこんなにも最後尾の車両には、私の顔見知りばかり乗っているのだろう。
考えているうちに、私の降りる駅がきた。
ドアから出て、私は後ろの車両をのぞき込んだが、誰ひとり私に気づかない。
声をかけようとした時、ドアがしまった。
最終電車は、宙を滑るように、トンネルのような闇に消えていく。
「 … ま、いいか」
私は遠ざかる電車の明かりを眺めながら、つぶやいた。
見上げた空に、雪のようなものが舞い始めている。
私はコートの衿を立てながら、人影の絶えたホームの上を歩き始めた。
深夜の冷気が酔いを醒ましそうだった。