親父と一緒に酒を飲んだことは1回しかない。
いや、本当はもう少しあるのかもしれないが、記憶に残る酒は、1回だけだ。
もともと親父は、酒をほとんど飲まない。
ビールをコップ一杯飲めば、それだけで顔を赤くし、後は、唇を湿らせる程度にコップの縁をなめているような人だった。
そんな親父が、一回だけ、私をバーに誘った。
オフクロが、ガンの手術を受けた日の夜だった。
親父は仕事を休んで、病院の手術室の前に1日中座っていた。
私も仕事を終えてから病院に直行した。
見舞い客の姿も途絶えた暗い通路のベンチに座り、親父はぼんやりと床を眺めていた。
「どうなの?」
と、私が声をかけると、親父は静かに顔を上げた。
「もうそろそろ10時間が経つ」
と親父はいう。
「大変な手術じゃない!」
「いや、悪いことじゃない」
「どうして?」
「手術がすぐ終わるようだったら、覚悟してください、と先生が言ったんだ」
手術前に、ガンがあちこちに転移していれば、もう切開したところをそのまま閉じてしまう、と医師は伝えたという。
時間が長引いていることは、むしろ、望みがあるということらしい。
やがて執刀医が部屋から出てきて、
「悪いところはみな摘出しましたから、大丈夫でしょう」
と、私たちに話しかけた。
病室にそぉっと入ると、麻酔の効いたオフクロは、こんこんと眠っていた。
病院を出ると、夜の雑踏が2人を包んだ。
親父は、ふと、私の方を振り返り、
「飲むか?」
と、一言いった。
生まれてはじめて聞く言葉だった。
私たちは、カウンターだけの小さなバーに入った。
話すことが何もなかった。
オフクロの手術のことを、ひと言ふた言話すと、もう最初の沈黙がやってきた。
私は戸惑っていた。
親父と連れ立って一緒に酒を飲むということなど、今まで考えたこともなかったからだ。
そもそも、ときどき顔を合わせても、親父との間には、ほとんど会話がなかった。
戸惑っていたのは、親父も同じだったかもしれない。
しかし、気まずくはなかった。
酔いが回るにしたがって、お互いに黙って飲む酒も悪いもんではないと思うようになった。
そして、隣に座っている親父が、たまたまカウンターの横に座っている別の男のように思えてきた。
「親子」ではなく、「男と男」が肩を並べているという感じだったのだ。
隣にいるのは、飲めない酒を無理して胃の中に流し込んでいる寡黙な老人。
ならば、遠慮なく、はじめて会った人間に、親しみを込めて話しかけてもいいのではないか。
… そう思った矢先、
「もう一杯飲むかな」
と、親父はいつになく上機嫌な顔を向けた。
「無理すんなよ」
と私がいうと、
親父はひと言答えた。
「今日はいい日だ」
私ははじめて、親父をいい男だと思った。
オフクロは、その後10年生きた。
その前に、親父の方が死んでしまった。
今でも、ときどき一緒に飲んだ日を思い出す。
しかし、そのバーは、今はない。