アートと文藝のCafe

アート、文芸、映画、音楽などを気楽に語れるCafe です。ぜひお立ち寄りを。

ゴジラ様! カッコいい!

 映画批評 

 

  “ゴジラ・ファン” にとって、ゴジラ映画の最大の関心事は、とにかく、

 「ゴジラの姿がカッコいいか? どうか?」
 である。

 

 そりゃ、ストーリーも大事。
 キャストの演技も大事。
 しかし、それは、映画の構成要素としては、二の次、三の次。

 

 ゴジラ映画の最大の評価ポイントは、なんといっても「カッコいいゴジラ像」が成立しえたかどうかという点に尽きる。

 

 その点、2023年11月に公開された『ゴジラ ー1.0(マイナスワン)』は、文句なく素晴らしい映像美を創造しえたと思う。

 

 

 その成果が口コミで広まったのか、公開3日間で興行収入が10億円を突破。
 2016年の『シン・ゴジラ』との興収対比122・8%という好調なスタートを切ったと報道されている。

 

 さらに、10日のニュースによると、ハリウッドの映画館では、観客総立ちのスタンディングオベーションが巻き起こったとか。

 

 

 ま、それほどの評判を手にした今回のゴジラ映画だが、微細に観察すると、顔は少し「ブス」だ。
 猫でいうと、「ブサかわいい」という方向に引っ張られている。

 

 

 しかし、プロポーションは悪くないのだ。
 バランスの良い筋肉質の体躯に恵まれ、
 襲われる人間の身になってみれば、
 「嫌なガキを怒らせたなぁ
 というトホホ感が込み上げてくる映像になっている。

 

 だから、あの丸太のような足で踏みつぶされる人々の “うんざり感” がなんとも切ない。
 「怖い」というより、「運が悪かった」と、わが身を呪う哀しさがそこから立ち昇ってくる。

 

 

 あらゆる面で印象深い『ゴジラ マイナスワン』であるが、前作の『シン・ゴジラ』と比べた場合はどうか。

 

 恐怖感でいえば、今回のゴジラの方がそうとう優っている。
 ストーリー展開も、今回の方が断然面白い。
 エンターティメントとしての出来映えは、かなり上だと感じた。

 

 

 だが、何かが足りないのだ。
 ゴジラ1作目(1954年)と比べてである。

 

 今回の『ゴジラ マイナスワン』は、その第一作目の誕生70周年を記念した作品ということで、個々のディテールには一作目の記念的シークエンス(配列)が多用されている。

 だから、“初代ゴジラ” を観た人には「見おぼえ」のある映像が出てくるようにも思えるが、決定的な “差” がひとつ。

 

 

 『ゴジラ マイナスワン』におけるゴジラは “怪物” だが、初代ゴジラは “神” だった。

 そういう印象が漂うのは、初代ゴジラが「モノクロ」映像であったことも大きいかもしれない。
 とにかく、画面全体が “闇” 。

 

 
 その闇の中を、闇よりも濃いゴジラの姿が自衛隊のサーチライトを浴びてヌルッと浮かび上がる。
 それはもう「怪獣」ではなく、地上に降臨した「神の影」であった。

 

 

 やがて初代ゴジラは、(お定まりのように)東京の繁華街を破壊しながら内陸部へ向かう。
 そのとき堅牢なビル群が次々と灰燼に帰す。
 
 しかし、そこには意外といっていいほど静けさが漂っている。
 どのビルも、ゴジラという「神」の裁きをしょう然と受け入れる旧約聖書の民のように、沈黙を守ったままひれ伏すように倒壊していく。

 

 
 その光景は、厳粛であり、神秘的であり、絶対的である。
 それは、人間の意識に舞い降りる「畏れ」というものが何であるかを説く映像でもあった。

 

 そのゴジラの神々しさが、2023年の『マイナスワン』には欠けている。

 

 ただ、初代ゴジラの映像を見たことのない観客にとっては、この『マイナスワン』の圧倒的な存在感も、やはり、それなりに貴重である。

 

阪神タイガースの奇跡

 

 現在73歳。
 東京生まれで、東京育ち。
 それでも50年間、“大阪の阪神” ファンをやっている。
 江夏、田淵という選手が輝きを放っている時代の阪神に魅せられたのだ。

 

 東京という土地柄もあって、周りの友達はみな巨人ファンだった。
 しかし私は、完璧なチームワークを誇る巨人にはない、ワイルドで、いい加減で、強いのか弱いのか分からない阪神が好きだった。

 

 忘れられないのは、1985年の「日本一」。
 そのとき私は35歳。
 阪神が最初の「日本一」を達成した瞬間を、私は西武球場のレフトスタンドで眺めた。

 

 吉田監督が胴上げされるのを見て、興奮状態に陥った私だったが、醒めるのも早かった。


 それは、
 「もうこんな瞬間を、自分が生きている間に見ることはないだろう」
 という寂しさと哀しさが入り交じったものだった。

 

 そういうチームだったのだ、阪神は。
 「今年こそは優勝しそうだ」と思わせるときがあっても、シーズンが終わる頃はけっきょく定位置 3位とか4位に沈んでいくチーム。
 
 阪神ファンの多くも、そのことを十分承知していて、
 「こんな駄目チームを応援する俺はほんとうにバカだ!」
 と泣き笑いするような人が多かった。

 

 だから、リーグ優勝がはっきり見えてきた1985年の後半は、もう「風邪」でもひいたかのような微熱状態が私を襲った。
 勝った日の翌日は、スポーツ新聞を何紙も買い込んで、通勤途中の電車のなかで読みふけった。

 

 このときの阪神はどんなチームだったのか。

 

 1年中活火山が噴火しているようなチームだった。
 特にクリーンアップの打撃力がすさまじく、どんな対戦相手のピッチャーも、もう1回か2回で交代しなければならないような試合の連続だった。

 

 語り草になっているのは、4月17日の巨人戦におけるバース・掛布・岡田の「バックスクリーン三連発」。
 
 7回裏の攻撃時に、巨人槙原投手から、3者連続でバックスクリーンにホームランを放った “事件” だった。

 

 

 1年を通してみると、
 3番バース 打率.350 54本塁打 134打点
 4番掛布  打率.300 40本塁打 108打点
 5番岡田  打率.342 35本塁打 101打点

 

 こんなクリーンアップは、その後の野球史上にも類を見ない。
 ちなみに、バースは、この年三冠王をとっている。

 

 以降、
 「もう自分が生きている間に、阪神の日本一を見ることはないだろう」
 そう思い続けてきた38年だった。

 

 しかし、この2023年に二度目の奇跡が起こった。

 

 不思議なものだ。
 「これからは阪神の黄金時代が訪れるかもしれない」
 今はそんな気分になりかけている。

 

 

将棋というゲームの恐ろしさ

 2023年10月11日、将棋の藤井聡太名人が「王座戦」で、永瀬拓哉九段を下し、ついに8冠を達成した。

 

 

 そのニュースが脚光を浴びたせいで、それ以降、テレビなどではその対局の棋譜(きふ)を紹介しながらプロの棋士(きし)が解説するシーンが増えた。

 それらを見るようになって、将棋というゲームの奥行きの深さのようなものを少しは感じられるようになった。

 あれは一種の “アート” のようなものだ。
 一人の棋士が、盤上の駒を進めながら相手の棋士と対局する。
 そこには、数学と文学が同居している。

 将棋の展開には、ピタゴラスアルキメデスのような著名な数学者たちが追求した合理性の極致のような回路が張り巡らされている。
 そこには、完璧なまでに磨き上げられた「整合性の美しさ」がある。
 しかし、同時にボードレールランボーといった天才詩人の作品のような「飛躍の美しさ」もある。

 今回の「王座戦」では、永瀬拓哉九段は、最後の詰めで、「99%の勝利」を一瞬のうちに失った。
 そのことを、本人は「エアポケットに落ちたような 」と述懐しているとか。
 それは、「将棋というゲームの詩のような美しさ」に永瀬氏がハマったことを意味している。

 これまで藤井聡太氏と戦ったことのあるプロの棋士たちの回想によれば、
 「藤井氏は不利な状況になってくると、必ず妙な手を打ってくる」
 という。

 “妙な手” というのは、決して最善手(さいぜんしゅ)とはいえない手のことをいう。
 「好手」と「悪手」に分ければ、むしろ「悪手」の部類に入る。

 今回の「王座戦」でも、永瀬九段が痛恨の一手と後悔した指し手の前に、劣勢を意識した藤井聡太氏が “奇妙な手” を指していたという。

 最近はAI(コンピューター)将棋が普及してきたので、プロ棋士同志の対局中にも、AIが絶えず棋士たちの指し手を分析している。

 よくは分からないが、AIでは通常100万手ぐらいは即座に模範解答を出すのだそうだ。
 今回、永瀬氏のミスを誘った藤井氏の指した手は、AIの解析によると、最善手の候補のなかでは上位3番にも入らなかったものらしい。

 しかし、このときのAIの解析をさらに進めていくと、6億手(6億通り)という膨大な解析までたどり着いた時点で、ようやく藤井氏の指し方が最善手のトップに躍り出てくるとか。

藤井氏は、その6億手ぐらいの読みを、だいた20分とか30分でこなしてしまうらしい。
 なんとも恐ろしい話だと思った。
 
 このように、人間がAIの判断を陵駕することがあるのは、AIと人間の想像力の差かもしれない。

 AIは、人間の「悪意」を読めない。
 つまり、人間は対局相手を騙すために、わざと「無意味に見える」手を考えつくことがある。

 それに対し、AIは、常に最善手を探し出すようにプログラムされている。
 その前提となるのは、「相手もまた最善手を探してくるに違いない」という信念(思考回路)だ。

 藤井名人は、そのようなAI的思考の裏をかいた。

 この藤井氏の魔術にハメられた永瀬九段は、盤上に駒を置いた瞬間、すぐに自分のミスに気づき、天を仰ぎ自分の拳で頭を叩き続けた。

 その動作が可愛いとネットで評判になり、永瀬氏は藤井氏をしのぐ人気を獲得した。
 いずれにせよ、今回の対決は、将棋というゲームの人間臭さを取り出したような試合だった。

  

『どうする家康』は面白いのかどうか

 

 2023年の大河ドラマ『どうする家康』が、この1月8日から始まった。
 ここに至るまでのNHKの番宣はすさまじかった。
 年末から年始にかけて、BS放送も含め、NHKの歴史教養番組はことごとく「徳川家康」に焦点を当てた。
 前作『鎌倉殿の13人』が大ヒットしたことに気をよくしたのかもしれない。

 

 確かに、昨年の『鎌倉殿 … 』は面白かった。
 私も毎回欠かさず観た。
 
 では、この『どうする家康』の初回をどう感じたか。
 


 違和感が残った。

 

 その最大のものは、(あくまでも個人の嗜好の問題かもしれないが)、家康を演じる松本潤の顔立ちである。

 

 バタ臭すぎるのだ。
 ジャニーズ特有の現代的フェイスなので、戦国時代の日本人に見えない。

 

 

 次に感じた違和感は、演出の過剰さ。
 “ヘタレの家康” を強調しようとするあまり、松本潤の泣き叫ぶ顔が頻繁に出てきて、少し食傷気味になった。
 
 また、人質として管理されている身にかかわらず、瀬名姫(有村架純)とのままごと遊び有頂天になっているという設定にも奇妙なものを感じた。
 
 松潤は、役者としての修練を積んできた人ではない。
 演技力があるとは決していえない。
 そういう場合は、むしろ抑制的な演出の方がボロが出なくてすむと思うのだ。

 

 ただ、松本潤の顔立ちに関しては、視聴者によってさまざまな好みがあるので、あのバタ臭さを「是」とする人々も多いだろう。
 事実、ネットの印象批評を見るかぎり、松潤の家康を「かわいい」と感じた人はいたようだが、違和感を感じたという意見は見当たらなかった。

 
 こういう歴史ドラマを観賞するとき、視聴者の判断基準となるのは、鑑賞者の歴史的知識や教養である。

 

 特に、私のような年配の人間にとって、若い頃に学んだ歴史的知識は絶対のものとなる。

 つまり、徳川家康という人物に共感を感じるかどうかは、以前にどういう知識を身につけてきたかによって決定的に決まるようなところがある。

 

 で、思うのだが、司馬遼太郎の小説になじんだ読者は、だいたい “家康嫌い” になる。

 司馬氏の戦国モノといえば、『国盗り物語』、『新史太閤記』、『関ケ原』、『城砦』など多数あるが、そこに家康が登場しても、司馬氏はけっして褒めようとはしない。

 

 司馬氏の作品に登場する家康は、どちらかというと、「地味」、「花がない」、「陰険」、「用心深い」といったネガティブなイメージが付与されていて、颯爽としたところがない。

 

 家康そのものが主人公である『覇王の家』という長編においても、基本的には、ネクラでねちっこい性格に描かれている。
 主人公をこんなにも “いやらしい” キャラクターに染めあげた小説というのも珍しい。
 このあたり、関西出身の司馬遼太郎の「関東嫌い」という気分が反映されているのかもしれない。

 

 私もまた司馬遼太郎の作品に長年なじんだせいで、家康という人物のイメージは「たぬきオヤジ」でしかない。

 

 今回の『どうする家康』というドラマは、そこのところを大胆に書き換える意図が明白なのだが、私のようなガンコな “司馬ファン” の心にどれだけ届くか。

 

 まずはNHKのお手並み拝見といったところだ。

 

サッカー解説にも新しい波

 

 日本中が熱気に包まれたサッカーのワールドカップが終わってしまった。
 今回も、結局日本チームは「ベスト8」の壁を打ち破ることができず、テレビを通じて観戦していた自分としては悔しい思いをしたが、しかし今回の「ベスト16」進出は、今までとは違ったものになったような気がする。

 

 

 それは、日本チームがドイツやスペインといった強豪を破って決勝トーナメントに進んだということだけでなく、「サッカー」というスポーツもまた、ひとつの国民的文化を反映したものだという部分を見せたくれたように思ったからだ。

 

 「サッカーの文化」とは何か?

 

 それは、サッカーというスポーツの枠を超え、そこに国民性の違いやら、その取り組み姿勢の違いなどを浮き上がらせる力のことだ。

 

 特に最後の試合。
 クロアチアという格上チームを相手に、日本はドイツやスペインを相手にしたときと同じような接戦を繰り広げたが、結局延長線の後で迎えたPK戦で敗れた。
 
 あるサッカー解説者はいう。

 

 「PK戦というのは、相手のゴールキーパーには手も出せないような場所にボールを蹴り込むこと尽きる」

 

 手が出せない場所というのは、クロスバーすれすれの高さを確保した場所のことである。

 そこを勢いよく突かれると、たいていのキーパーはボールを捕捉することをあきらめてしまうが、蹴る側からすると、それはとてもリスキーな場所なのだ。
 なぜなら、攻める側にも、ボールをクロスバー内にコントロールすることが難しくなるからだ。

 

 クロアチア戦におけるPK合戦では、日本のキッカーは、そのリスクを避けて、ゴールポストの左右どちらかを狙う作戦に出た。高さを狙うより失敗が少ないからだ。

 

 しかし、ボールが、左右のいずれかに来るのであれば、キーパーは自分の体を水平移動するだけで対処できる。
 クロアチアのキーパーは、最初に蹴った二人の日本選手から、そのコツをなんなく手に入れた。

 

 

 そこに、日本人のメンタリティーがにじみ出てしまった …… と、あるサッカー解説者はいう。

 

 日本人は、リスクを背負ってチャレンジするよりも、冒険を避け、リスクを回避することを好む。
 なぜなら、そういう文化に育ってきたからだ。

 

 そう語ったのは、サッカー解説者の福田正博(ふくだ・まさひろ)氏である。

 

 サッカーというのは、狩猟・騎馬民族的なスポーツだとよく言われる。
 それは大自然のなかで、天候を読み、地形を読み、常に流動的な状況のなかで他者(敵)との戦いを有利に進める文化になじんできた民族のスポーツだ。

 

 それと正反対の思考を持つ文化が、いわゆる農耕民族的な思考様式だ。
 こういう文化を過去に背負ってきた民族は、毎年周期的に訪れる「種まき・刈り取り」のサイクルを忠実に守らないと生きていけない。

 

 この「農耕民族 vs 騎馬民族」というレトリックは、現在のグローバル社会のなかでは過去のものとなったとよく言われる。

 

 しかし、完全に消えたわけではない。
 特に、今回のPK戦という肝心なところで、日本人の農耕民族的なメンタリティーが無意識のうちに出てしまった そんなふうに思えないだろうか。
 
 もちろん、このPK戦に至るまで、日本チームは国際感覚にあふれたゲーム鮮やかにを進めてきた。
 だから、過去の日本チームと比べて、各段の進歩を遂げたのは事実だ。

 

 

 しかし、リスクに対する覚悟の取り方だけは変わらなかった。
 私は、こういうことを考えさせてくれるサッカー解説にとても魅了された。
 
 「サッカーというスポーツから、諸外国と日本の文化の差を感じる」

 

 そう教えてもらったのは得難い経験だった。
 だからこそ逆に、日本が諸外国との差を縮める姿も想像できるようになった。
 
 諸外国と日本サッカーのレベルの違いを、スペイン戦でゴールをあげた田中碧選手が語っている。

 

 「ベスト8に残るようなチームは、ある意味で、“化け物” みたいなチームばかり。それがよく分かった。
 だから次は、自分たちがその “化け物” にならなければならない」

 

 ベスト8のメンバーたちに接したからこそ言える言葉である。

 

 それは、日本のサッカー解説者たちにもいえることである。
 前述した福田正博氏だけでなく、前園真聖氏など、今回のW杯の解説は、そういうすがすがしい説明を行なえるようになった新しい解説者をたくさん見ることができた。

 

 今までの解説は、技術論の解析が主流だった。
 しかし、今回のW杯を通じて、いろいろなチームのいろいろな戦いぶりを観てきた視聴者たちは、もう単純な技術論だけでは納得しない。
 国際試合通じて、国同士の民族の違い、文化の違いをしっかり説明してくれる解説者を望むようになってきている。

 

 つまり、サッカー解説も、「人間の解析」にまで及ぶレベルのものが求められる時代がきたのだ。

 

 私は、それは「一方通行」的なものではないように思う。
 そういった解説者と視聴者、そして現場のアスリートたちとの “心の交流” が生まれることによって、文化が深まると確信している。

 

 もし、日本人アスリートの伝統的な思考様式が、一つの強さにまで昇華すれば、それは海外の選手やサポーターにとっては、エキゾチックな美学になりうる。

 

 すなわち、日本人の “融通の利かない気真面目さ” にストイックな信念を見いだす外国人たちは絶対いる。
 それは、逆にいえば、彼らが感じた「サムライ」であり、「ニンジャ」なのだ。

 

 カッコよさとは、欠点を「美」に昇華したときに生まれる心の形でもある。

 

“玉川徹問題” にみる電通文化の終わり

   

 19日(水曜日)。

 テレビ朝日の「羽鳥慎一モーニングショー」の冒頭に、10日間の謹慎処分を解かれたコメンテーターの玉川徹氏が登場し、「電通と菅氏には申し訳ないことをした」と謝罪。
「今後は現場の取材を中心に番組構成に携わる」
と発言した。

 

 

 つまり今後は、「コメンテーター」という形でスタジオからは発言しないということらしい。

 私は、玉川氏に好感を感じる視聴者の一人としてこの問題に関してずっと関心を持っていたので、とりあえず現場の取材レポーターとして彼の姿を観ることができることに多少安堵している。

 

 ことの発端は、9月28日のオンエア中、玉川氏は、安倍晋三元首相の国葬に出席した菅義偉前首相の弔辞に触れ、その内容は(広告代理店の)電通がつくったものだと断言。


 「僕は演出側の人間としてテレビのディレクターをやってきましたから。(僕だったら)そういうふうに作りますよ」
 と言い切ったことだった。

 もちろんこれは事実誤認だったので、玉川氏は翌日に謝罪し、発言を撤回した。

 

 しかし、ことはそれで終わらなかった。

 氏の発言は安倍元首相の「国葬批判」にもつながるものだったので、安倍氏寄りの自民党議員たちが怒りの声を上げた。

 

 特に、菅前首相の弔辞は、批判的な見方も多かった今回の国葬におけるもっとも “感動的” なシーンだったので、それを否定的に語った玉川氏は自民党議員の集中砲火を浴びることになった。

 

 現に、自民党西田昌司参院議員などは、ユーチューブで玉川氏を次のように批判している。

「菅氏の弔辞を完全に腐す無礼千万なコメント。事実に基づかないで(テレビ朝日の)一社員が腐す発言をするというのはお詫びで済む話じゃない。 テレビ朝日としての責任を取ってもらいたい。 厳正な処分をしないといけない」

 

 こういう流れを受けて、10月6日には、テレビ朝日で開かれた「放送番組審議会」で

は、冒頭のような厳しい意見が相次いだという。

 

 その発言記録を入手した「文春オンライン」によると、審議会に出席した委員は、幻冬舎見城徹社長、弁護士の田中早苗氏、作詞家の秋元康氏、脚本家の内館牧子氏、スポーツコメンテーターの小谷実可子氏、作家の小松成美氏、サイバーエージェント藤田晋社長、ジャーナリストの増田ユリヤ氏の8名。

 

 その審議は2時間に及び、
 「(玉川氏は)何を根拠にあれだけの問題を公器で言ったのか」
 と玉川氏を糾弾する意見が相次いだという。

 

 それにしても、この玉川氏への批判の声の大きさは何を示したことになるのだろう。

 

 はっきりいうと、これは、日本の広告界を牛耳っていた電通と、そういうビジネスを容認してきた自民党主流派の「終わり」を意味するものだということだ。

 東京五輪の贈収賄事件が暴き出したのも、電通的ビジネスの “闇” だった。
 その背後には、自民党の元組織委員会会長の森喜朗元首相が絡んでいるという見方が一般的だ。

 

 結局、金まみれの五輪にしたのは、「電通」OBで元組織委員会理事の高橋治之氏と、自民党の五輪推進派が後押ししたものだったといえる。
(それは、あの五輪の開幕式と閉会式のお粗末なパフォーマンスが象徴的に示している)。

 

 この一連の贈収賄事件には、紳士服大手の「AOKIホールディングス」、出版大手の「KADOKAWA」も絡んでいたことが明るみに出た。

 広告代理店。 ファッションブランド。 出版文化。
 そういう “昭和的な” 産業がすべて凋落したことが示された事件だった。

 

 つまり、安倍元首相の「国葬」というのは、結局そんな “昭和的” なビジネスと文化が終わったことを示す事件だったといえなくない。

 

 「モーニングショー」で、玉川氏が、
 「菅元首相の弔辞には電通が絡んでいる」
 と言い切ったことは、もちろん事実誤認てあったが、しかし、いみじくも昭和的なものの終焉を象徴的に語ったものだと私は感じている。

 

 今回の騒動を受けて、SNSでは、玉川氏の「事実誤認」を批判する人々の声が溢れた。

 しかし、みんな何か勘違いしていないか?
 ワイドショーのコメンテーターの仕事は、ニュースの内容を正しく繰り返すことだけではない。

 「そのニュースが、視聴者が考えるに値するかどうか」
 ということを示唆するのも仕事の一つだと考えている。

 

 そういう観点で振り返ったとき、現在朝のワイドショーなどで、玉川氏以上の仕事をしているコメンテーターがどれだけいるだろうか。


 “カリスマモデル” などという肩書で登場するギャル系のコメンテーター。 あるいは「人をいじる」ことしか芸のなお笑い系芸人たち。
 これらの人々のコメントをまともに聞くこと以上に辛いことはない。

 

 その点、玉川氏は視聴者に「考えるヒント」を与え続けてくれた人だった。

 確かに多少軽率なところはあったが、玉川氏はそういう力を持ったコメンテーターの一人だったと私は思っている。

 

安倍氏の「国葬」問題が暴き出したもの

  

 2022年 9月27日(火曜日)。
 安倍晋三元首相の「国葬」が行われた。

 

 

 最後まで賛否両論に分かれた国葬だった。

 葬儀場となった武道館周辺では安倍氏を偲んで献花に訪れる人々が長蛇の列をつくったが、一方、その近くでは「国葬反対」のプラカードを掲げた市民が激しいデモを繰り広げた。

 

 これまでのさまざまな世論調査によると、どの調査でも「国葬反対」を掲げる声が6割くらいで、「賛成」が4割程度。常に反対の方が多い形で終始していた。

 

 「国葬反対」の理由は、
 「このたびの国葬には法的根拠がない」、
 「(警備などで)16億円以上の税金をつかうのは意味がない」、
 「憲法違反だ」、
 「民主主義的ではない」
 などの意見が多かった。

 

 それ以外では、「安倍元首相という政治家の評価が定まっていない」という声もあった。

 

 私個人の感覚では、安倍氏の銃撃事件以降、多くの自民党議員を巻き込んだ  “旧統一教会問題” が一気に明るみに出たことが最大の要因であるように思う。
 実際、安倍氏の死が報道された直後、つまり統一教会問題が取りざたされる前の世論では国葬を評価する声の方が多かったのだ。

 

 ところが安倍氏を狙撃した犯人の殺害動機が「統一教会への恨みだった」ということがクローズアップされてからは、みるみるうちに安倍氏国葬に疑問の声が上がるようになった。

 

 旧統一教会問題は、何をあぶり出したのか?
 
 自民党を筆頭とする日本の政治家たちは、「嘘つき集団」だったということが暴露されたのだ。それも、あまりにも露骨なかたちで。

        
 自民党議員たちに自己申告制のアンケート調査をしたところ、「統一教会と関りがあった」という報告が相当数噴出したものの、その大半は、
 「関わった団体が統一教会とは知らなかった」、
 「自分が関わった団体がどんなものだったのかあまり意識していなかった」
 という答えに終始するもので、私のような素人が判断しても、その嘘つきぶりはすぐにバレてしまうものばっかりだった。

 

 私たちは、政治家たちの「嘘」に、もう辟易(へきえき)している。
 もちろん、政治の世界では「上手に嘘をつく」ことも技術として要求されることもあるだろう。
 しかし、世界的にみても、最近の政治家たちは、発言を聞いた国民が唖然とするようなしらじらしい嘘を平気でつき通す。

 最近の例では、その筆頭がアメリカのトランプ元大統領だ。
 あのような下手な大嘘を精力的につき通す政治家というのは、今まであまりいなかった。

 

 

 さらに、現在、嘘をつき通す路線を爆走しているのが、ロシアのプーチン大統領だ。

 

 

 私たちはずっと、こういった世界のリーダーの貧しい嘘の連続に、もう心が萎えそうな日々を送っている。

 

 その日本における顕著な例が、まさに安倍元首相の発言だった。
 “モリカケ問題” 、“桜問題” 。
 安倍氏は、国会答弁で、これらの問題を野党に追求されても、ことごとく語気を強めて嘘を通し続けた。
 そして、その最後に、選挙戦では、安倍氏統一教会の票を他の自民党候補に差配していたことが暴露された。

 

 その安倍氏の嘘に接しながら、今の岸田首相は自分の身を挺しても安倍氏の業績をかばい続けた。

 「安倍氏がどれだけ旧統一教会問題と関わっていたかは、安倍氏が亡くなった今、調査するにも限界がある」というのが岸田氏の理屈。
 そんなものはいくらでも調べようがあるにもかかわらずだ。

 

 結局、岸田氏のその発言は、党内最大派閥の “安倍派” への配慮に他ならない。つまりは、岸田氏の大嘘といえよう。

 

 今回の国葬問題に関して、私はBS-TBSの「報道1930」に出演した保坂正康氏の発言に共感した。

 保坂氏は、安倍氏が進めようとした政治は、日本の現代史を逆行させようとしていたという。

 

 

 つまり保坂氏にいわせると、安倍氏は、戦後の政治家として最大の功績があった吉田茂平和憲法の精神を覆そうとしていたというのだ。


 吉田茂は、アメリカのGHQとのたび重なる交渉によって、戦争をしない国家としての戦後日本の原型をつくろうとした。その具体的な宣言が戦後の日本国憲法となった。

 

 しかし安倍元首相は、「戦後レジームとの決別」を標語に、「アメリカに押し付けられた憲法を正し、日本独自の憲法解釈を進める」ことを提案。それが新しい時代のテーマだと主張した。

 

 それに関して、保坂氏はいう。

 

 「戦後の政治を変えようとする主張を悪いとはいわない。しかし、安倍氏はあまりにも吉田茂を筆頭とする当時の日本の政治家たちの努力に敬意をはらわなかった。
 吉田たちがどんな思いでアメリカと交渉し、日本独自の平和憲法の草案をまとめたのか。その必死の思いを安倍氏はまったく汲もうとしなかった」

 

 保坂氏は日本の近現代史に精通したジャーナリストだから、戦後の日本国憲法がどのような形で生まれてきたのか、その経緯を詳しく知っている。そういう保坂氏から眺めると、安倍氏の浅薄な短慮が悲しく思えただろう。 

 

 それは、当然「安倍氏の目指した道を忠実に歩む」と明言した岸田首相への批判にもつながる。保坂氏は、安倍氏の「憲法改正」という路線を継承しようとする岸田氏に失望していることも同番組のなかで明言した。

 

 結局、安倍路線を踏襲しようとしたり、旧統一教会問題に真剣に取り組もうとしない岸田自民党が、これ以上国民の信頼を回復する手段は現在のところ見い出せないというのが「報道1930」の結論だった。


 私も、その通りだと思う。

 

 ただ、一方で、「国葬反対」を唱える人々の主張にも、ものすごい違和感を感じた。
 「違和感」というより、正直にいえば「嫌悪感」に近い。
 報道によると、国葬の参加者が黙祷しているときに、反対を唱えるデモ隊は、鐘や太鼓を鳴らして騒音を立てまくったという。
「なんと下品な!」
 と軽蔑せざるを得ない。

 

 

 私は、「国葬反対」と大声で叫ぶ人々を信用しない。
 安倍氏を擁護する自民党の嘘つきたちと同じくらい信用しない。
 
 方や白々しい嘘を平気で垂れ流す厚顔無恥自民党政治家たち。
 方や、硬直した(薄っぺらい)正義感を恥ずかしげもなく叫び続けるイデオロギッシュな “市民グループ” 。

 

 どちらも消えてくれ。
 日本はもっと成熟した国にならなければならない。

 

カラバッジョの謎の作品

恐くて、美しい眼の女


 かくも恐ろしく、かつ美しい眼をした女性を描いた絵を、ほかに知らない。

 

 

 タイトルは、「ホロフェルネスの首を斬るユディト」。

 

 

 西洋絵画ではおなじみのテーマで、クラナッハクリムトなど有名な画家の無数の作品が残されている。

 

 しかし、上記の絵が評判になったのは、2014年に、フランスのトゥルーズの民家の屋根裏から偶然発見され、しかも作者が、あの巨匠カラバッジョ(1571~1610年)ではないか? と詮索され始めたからだ。

 

 このニュースを知ったのは、NHKの「BS世界のドキュメンタリー」だった。
 邦題は「疑惑のカラヴァッジョ」。(原題 The Caravaggio Affair 2019年フランス)。

 

 絵の異様な迫力に、テレビを見ていた私にも戦慄が走った。

 

 「むごたらしい絵だ!」
 というのが、第一印象だった。

 

 しかし、カメラが原画に近づき、「ユディト」と呼ばれる女性の顔がクローズアップされた段階で、その戦慄は別のものになった。

 

 なんとも奇妙なエロティシズムがその顔に漂っている。
 ただの「恐ろしさ」とは、別のもの。
 人の首に刃をこすりつける瞬間の冷たい “恍惚感” 。
 
 その異様な迫力が、ユディトの眼に宿っている。
 それが、この絵の「むごたらしさ」の正体だ。

 

    

 この絵は、どういう情景を描いたものなのか?

 

 画題は、旧約聖書からとられている。

 

 紀元前600年から500年ぐらいのこと。
 アッシリアの王がユダヤ人の王国を滅ぼそうとして、ホロフェルネスという将軍をユダヤの地に派遣した。

 

 将軍ホロフェルネスは、ベトリアというユダヤ人都市を包囲。
 その陥落も間近というとき、町に住むユディトという美しい未亡人が将軍のもとを訪ねてくる。

 

 ホロフェルネスの幕舎に案内されたユディトは、
 「あの町には愛想をつかしたから、攻略方法をこっそり教える」
 と打ち明け、彼にさんざん酒を勧める。

 

 ホロフェルネスはユディトの色香に惑わされ、部下も退けた状態で、しこたま酒を飲み、泥酔してしまう。

 

 頃を見計らったユディトは、剣をつかみ、侍女とともに、ホロフェルネスの首を斬り落として、味方の陣営に戻り、ベトリアの町を救う。
 
 簡単に要約すると、そういう話なのだが、実話ではないらしい。
 旧約聖書に出てくる話だが、時代を特定できるデータもなく、都市名も架空のもの。
 もちろん「ユディト」と名乗る寡婦が実在したという証拠もない。
  

 
 しかし、ユディトの神々しい美しさと、彼女が犯した残忍な行動の落差が伝説となり、画家たちの想像力が刺激されたことは確かで、中世から近代にかけて無数の絵が生まれた。

 

 そのなかには、クラナッハクリムト、アローリなどという大家の作品もたくさん含まれている。

 

クラナッハ

クリムト

▼ アローリ作


 実は、画家名がカラバッジョだと特定できる作品も、すでに存在している。

 

▼ カラバッジョ

 

▼ 上記の作品の部分

 

 となると、2016年に発見された絵は、カラバッジョが描いた2作目のユディトということになる。

 

 同じ作者が、これほど異なる雰囲気の別バージョンを残すのだろうか?

 

 二つの絵を比べてみると、まず、ユディトの表情がまったく異なる。

 

 すでに「カラバッジョ作」と特定されている絵を見ると、ホルフェルネスの首を切り裂くユディットは、自分で犯した殺人ながら、そのおぞましさに耐えきれず、眉をしかめて身をのけ反らせている。
 
 それに対し、2016年に発見されたユディトの表情には、断固となる冷たい決意がにじみ出ている。


 2016年版は、カラバッジョとは異なる絵描きの作品ではないか? と推理する鑑定士がたくさんいる理由もそこに集中する。

 

 

 真贋を見極める意見は、真っ二つに分かれている。

 

 技法やタッチには、2作とも、紛れもなくカラバッジョでなければ描けないような技術が凝縮しているという。


 X線やコンピューター解析などによる総合的判断の結果、そう主張する鑑定士の数は多い。

 

 だからといって、2016年版が、即座に「カラバッジョ作」とは断定しきれない疑惑も残ったままなのだとか。


 同時代の画家であるルイ・ファンソンが、この絵そっくりの構図で模写している作品もあり、本作も、ファンソンが描いたという可能性が払拭しきれないらしい。

 

 また、カラバッジョが未完成のまま残した作品を、ルイ・ファンソンか別の画家が仕上げたのではないか、と推論する鑑定士もいるようだ。

 

▼ カラバッジョ自画像

 

 今のところ、鑑定の最終判断は下されていない。
 ということは、2016年に発見されたユディトは、作者不詳のまま、「幻の傑作」という状態で放置されたままなのだ。

 

 謎は謎を呼ぶ。

 

 実際に、2016年に発見されたこのユディトの顔は謎に満ちている。
 男の首を斬り離そうとしながら、彼女は、男の顔も自分の手元も見ていない。

 

 

 彼女の心の状態はどうなっているんだろう?

 

 ユダヤの町を救うという使命感に燃えているのだろうか。
 それとも、神の意志を実現するという信仰心に突き動かされているのだろうか。
 あるいは、殺戮の快楽という “おぞましい” 欲望を噛みしめているのだろうか。

  
 最大の謎は、彼女はホロフェルネスの首を斬りながら、誰を見ているのか? ということだ。

 この “カメラ目線” こそ、この絵の最大の謎である。

 彼女の感情を押し殺した冷たい眼の奥に何が潜んでいるのか。
 それは、誰にも分からない。

 

 

 

campingcarboy.hatenablog.com

 

 

 

他国に軍事介入した国は必ず失敗する

 
 プーチン大統領のロシア軍が隣国ウクライナに侵攻して2ヶ月が経ったが、相変わらず、各国のニュースが戦況の報告に時間を割いている。

 

 そういう報道のなかで、
 「ロシアは悪。ウクライナは善」
 という単純な二分法を批判する意見が目立つようになってきた。

 

 日本では、特に作家、映画監督、政治評論家など、周囲から「インテリ」と目されるような知的な職業に就いている人に多い。

 

 こういう意見に、私は半分だけ同意する。
 戦争の当事者たちは、どちらも「自国の正義」を拠りどころにするものだから、第三者の主観的な直感だけで真実を判断できないという見方が成立する余地は、確かにあり得る。

 

 そういった意味で、ロシアとウクライナを「善悪二元論」で片づけることの危うさに私も気づいている。

 

 だけど、どう考えたって、「プーチンは悪い」という直感が誤っているとは思えない。

 

 

 悪いものは悪い。

 少なくとも、自国の “正義” を貫くために、他国を武力で侵攻することが正しいとは論理的にも倫理的にも言えないはずだ。

 

 20世紀の世界史を振り返ってみても、自国の勝手な主張に頼って他国に武力介入した国は、例外なく失敗し、「悪」の烙印を押されている。

 

 ポーランドチェコ、フランス、さらにロシアを併合しようとしたナチスドイツしかり。


 中国や東南アジアに進出した大日本帝国しかり。

 

 北朝鮮も、朝鮮半島の統合を試みたが、国連軍に38度線まで押し戻され、その後は朝鮮半島の「ならず者」的な扱いを受けている。

 

 冷戦後ベトナムに戦争を仕掛けたアメリカも、「帝国主義」の烙印を押され、その政治的・軍事的な敗北においてトラウマを負った。

  

 このように、軍事的に他国に侵攻した国は、ことごとく敗れ去り、最後は「悪」の汚名を着せられる宿命から逃れることはできない。
 おそらく、ロシアもそうなる。

 

 そういう「悪の滅亡」が法則化されている世の中で、ロシアのプーチン氏だけは、自分の試みは成功すると思っているのだろうか?

 

 

 「思っている」と観測する意見は多い。
 オーストリアのネハンマー首相は、モスクワでプーチン大統領と会談したあと、
 「彼は戦争に勝っていると信じている」
 と報道人に対してうんざりした表情でコメントした。

 

 プーチン氏には独特の信念があって、それは次のようなものだという。

 

 「EUNATOの西側諸国は、民主主義を拠りどころにしているが、民主主義というのは、国民がわがままを言い始めると分裂してしまう。
 それに対し、ロシア人は民主主義のような頼りないものを信じていないため、最後は政治的に勝利する」

 

 彼が本当にそう明言したかどうかは分からない。
 ただ、おそらくプーチン氏の理念を言葉にすると、そうなるはずだ。
 
 
 現在、西側諸国が恐れているのは、プーチン氏が核戦争を起こすかどうかだということだ。
 核兵器には地域限定的な「戦術核」と、広範囲なエリアを焦土化する「戦略核」の2種類がある。

 

 もし片方が「戦略核」を使用すると、相手方もその報復として「戦略核」を放って対抗しようとする。

 

 そのような戦略核の応酬となれば、ヨーロッパやアメリカの主要都市も、ロシアの主要都市も壊滅的な被害を被ることになる。

 

 

 こういう不安は、ロシア国内でも巻き起こっているらしい。
 ただし、ロシア人のなかには、世界が核被害を受ける「第三次世界大戦」を容認する声もあるという。

 

 ある日本のテレビ番組で、ロシアの国営放送の様子が伝えられていた。
 男女を含んだ数人のロシア人キャスターが討論している様子が紹介されていた。

 

 

 女性キャスター 「このままでは核戦争が起こるかしら?」
 男性キャスター 「西側諸国が挑発を止めないかぎり、そういう可能性はあるね」
 女性キャスター 「困ったことね」
 男性キャスター 「あいつらはバカだから、核の怖さを分からないみたいだ」
 女性キャスター 「でも、人間はいつか死ぬのだから、私は気にしないわ」
 男性キャスター 「核戦争で死んでも、ロシア人はみな天国にいける。しかし、西側の住民は、ただ “死ぬ” だけだ」

 

 こういうやりとりが本当にあったのかどうか。
 もしかしたら、これは西側諸国がたくらんだフェイクニュースかもしれない。
 しかし、もし上記のようなやりとりが本当だとしたら、ロシアの国営放送の恐ろしさが如実に分かるエピソードだ。

 

 実際、プーチン氏は「核戦争」の結末をリアルにイメージしていない可能性がある。
 なぜなら、
 「この世にロシアがいない世界など、生き残っても意味がない」
 と、何かのついでに発言したという話もあるからだ。

 

 この発言の真偽も、裏がとれていない。
 しかし、いかにも彼が言いそうな話だ。
 

 
 この究極の自暴自棄ともとれる発言は何を意味するのか?

 プーチン氏が、「国家」というものを、合理的な存在として見ていないことを意味している。
 彼が考えているのは、経済や政治の総合的なシステムとしての近代国家ではなく、中世人たちが考えていたような「神聖国家」である。

 

 そのイメージには、ロシア正教的な「ルースキーミール(ロシアの世界)」という宗教的・神秘的な国家観が反映されていることは確かだが、それを支えるものとして、「朕は国家なり」という彼自身の自己肥大妄想も影を落としている。

 

 

 プーチン氏は「歴史」というものに極度な関心を示し、特に、ロシア史のエピソードに関しては、歴史学者顔負けの知識を蓄積しているという。

 

 なかでも、ピョートル大帝やエカテリーナ2世(写真下 ロシアドラマより)といったロシアの偉大さを誇示した皇帝たちの話が大好きで、自分もそれに負けない大英雄になることを夢見ているという話もある。 

 

 

 このように、歴史を深掘りするということは、「垂直軸の思考方法」を身に着けることを意味している。


 そのとき、現実の世界地図を広げて情勢分析するような「水平軸の思考」は意識のかなたにフェイドアウトしていく。

 

 つまり、プーチン氏にとって、現在侵攻しているウクライナという隣国は、地図を広げたときに目に入ってくる「他国」ではなく、「(これから編入される)ロシアの領土」でしかないということなのだ。
 
 このように、ロシアという「領土」と自分が一体となったプーチン氏の思考では、「自分が理解できない世界は抹殺してもかまわない」という発想しか生まれてこない。

 

 

 現在、ロシアからの「頭脳流出」が話題になっている。
 海外に逃れているのは、IT 企業の経営者やその技術者だ。


 グローバルな電脳世界で活躍する彼らにとって、IT にもAI にも関心のないプーチン氏が仕切るロシア世界というのは、息苦しいだけでしかない。

 

 こういう頭脳流出がどれだけロシアの未来を貧しいものにしてしまうか、プーチン氏には分かっていないようだ。

 

 自己肥大化願望を、軍事のみで満たそうとするプーチン氏の凋落はすぐそこまで来ている。

 

 

思ってもいない言葉が口をつく

f:id:campingcarboy:20220412041156j:plain

 

 人間、追いつめられて、疲労も蓄積してくると、頭脳と肉体がそれぞれ別の方向に向かって歩き出してしまうことがよくある。
 思ってもいない言葉が、ふと口をつくというヤツ。
 
 いくつかの例があるが、私の場合、そのひとつが、「意味のない独り言」。
 
 先だって、ある人と話していたら、
 「身体も心もトコトン疲弊してくると、いつのまにか独り言をつぶやいているんだよね」
 という話になった。
 
 道を歩いていても、電車に乗っていても、気づくと、仕事や生活とはまったく無縁の、ほとんど意味のないことをつぶやいている。
 
 「あ、それ、俺もある!」
 「やっぱ?」
 と、2人で見つめ合い、お互い哀れむようにうなづきあった。
  

 
 もうひとつ怖いのは、言い間違いが多くなってきたこと。

 年のせいかもしれないが、自分がおかしなことを言い始めても、なかなか気づかない。 

 
 こういうことって、他の人にもいっぱいあるらしい。
 ある雑誌を読んでいたら、疲れてタクシーを拾った人が行き先を告げるときの失敗談を載せていた。
 
 本 人  「家までお願い」
 運転手 「どこのです?」
 本 人  「だから、家までだよ」
 
 似たような話が、自分にもある。
 
 ある私鉄の駅で、自動販売機を使わずに、駅員のいる窓口でキップを買おうとしたときのことだ。
 
 行き先の駅名を何度言っても、窓口の向こうにいる駅員はまったく応じてくれない。
 そればかりか、私の真意をさぐるような目つきでこちらを見つめてくる。
 
 駅名を連呼しているうちに、私は、ふと気がついた。
 駅員に向かって、
 「マイルドセブンライト(煙草の名)」
 と、言い続けていたのだ。
 
 切符を買ったあと、駅構内に入ったら、売店で煙草を買う。
 頭の中でそういう段取りを付けていたのだが、その順序が逆になったのだ。
 
 この手の話を、
 「アハハハ俺その時ボケちゃってよ」
 ってな笑い話で済ませられるうちはいい。
 
 だけど、笑い話で済ませられないようになったら、どうしよう。

 たとえば、ある日カミさんと、こんな受け答えをしたら?
 
 「お、ヨシ子、パーマにいったのか? 似合うじゃないか」
 
 「私、パーマなどに行っていませんけど。それにヨシ子じゃありません。ヨシ子って、誰?」

 

 

 

庄野潤三の小説に流れる不思議な空気感

   
 庄野潤三の短編集『プールサイド小景静物』(新潮文庫)を買った。
 収録されていた七つの短編にはそれぞれ独特の空気があって、どれも不思議な気分にさせられた。

 

f:id:campingcarboy:20220410032247j:plain

  
 どの作品も、昭和25年(1950年)から昭和35年(1960年)までの間に書かれたものである。
 芥川賞をとった『プールサイド小景』からすでに68年経つことになる。
  
 しかし、読んでみると古びていない。
 特に、『舞踏』と『プールサイド小景』などは、今のテレビ局が単発ドラマの原作として使っても、十分に通用するような話だ。

 

 この本には、ほかに『相客』、『五人の男』、『蟹』、『静物』といった同時代の作品群が収録されているが、基本的には、どの話も、一般庶民のさりげない交流を描いた作品といっていい。

 

 なのに、みな、どこか “落ち着かない” 。
 そこはかとない “不穏な” 空気が漂ってくるのだ。

 

 その中でも一番奇妙な味わいを持つのは、本の表題の一つとして掲げられている『静物』である。

 

 この作品は、村上春樹が『若い読者のための短編小説案内』でも採り上げたことがあるので、それに触発されて、にわかに最近の若者にも読まれるようになったと聞く。

 

f:id:campingcarboy:20220410032339j:plain

 
 
 『静物』を読んでみると、確かに、ある意味で村上春樹好みの作品という感じもする。

 

 主な登場人物は、父親、母親、そして女の子と2人の男の子である。
 その家族の中で繰り広げられる日常生活の一コマ一コマが、何の脈絡もないまま並列につながっているだけの作品なのだ。

 

 しかし、その一コマ一コマの “切れ目” に、何かが潜んでいる。
 
 たとえば最初の章は、子供たちが、父親にせがんで釣り堀に連れていってもらい、意気込んで釣糸を垂れるのだが、何も釣れず、最後に父親が小さな金魚を一匹だけ釣って家に帰るところで、プツッと終わる。

 

 事件が起こるわけでもなく、しゃれたオチが用意されているわけでもない。
 
 なのに、この作品全体から、うっすらと不思議な感覚が立ち昇ってくる。
 常に、文字として書き込まれていない何かがここには居座っている。

 

 「何も起こらない」ことは、こんなにも不気味なものなのか?
 そう思わせる何かが、この小説にはある。
 

  
 その正体のひとつは、簡単に探し出せる。
 家族のなかの、夫と妻との間にときおり忍び込んで来る「すきま風」だ。
 
 ある晩、父親はそばで寝ている妻のことを、ふとこう考える。
 「おれの横にこちらを向いて眠っている女 …… これが自分と結婚した女だ。15年間、いつもこの女と寝ているのだな。同じ寝床で、毎晩」
  
 結婚したどの夫にも必ず訪れる、ごくありきたりの感慨かもしれない。
 しかし、この覚めた夫の観察は、どこか異様である。
 15年一緒に寝ているはずの妻に対し、ベッドのなかで見知らぬ女を見つけたときのような冷たさが文章から漂ってくる。

 

 
 またある日、夫は家の中で昼寝しているときに、「女のすすり泣き」を耳にする。

 妙だなと思って、台所を覗いてみると、妻はほうれん草を洗っていた。
 「何か音がしなかったか?」
 と妻に尋ねる。
 「いいえ、何か聞こえました?」
 と妻は晴れやかな顔をこちらに向けた、というのである。
  
 結局、夫には「すすり泣き」の犯人がいまだに分からない。
 場面はそこで変わり、話は子供たちのドーナツ作りに移っていく。
  
 しかし、読者には分かってしまう。
 たぶん、この夫は、かつて妻をすすり泣かせるようなことをしてしまったのだ。

 

 読者にそう思わせる何かが、ここでは暗示されている。
 でもそれが何であるか、作者は語らない。
  

 
 多くの人が、この『静物』にときおり顔を出す「不安の徴候」に注目した。
 そして、その「不安の徴候」こそが、この牧歌的で微温的な小説をピリッと引き締めるタガになっていると指摘した。
 
 しかし、この『静物』という小説は、夫と妻の関係が明らかになれば、作品全体を貫く奇妙な味わいの秘密が解けるのかというと、そうではない。

 

 夫の心理状態がどうであれ、妻の対応が何であれ、それとは関係ないところで、不思議なものが迫り出してくる。
 その不思議なものを探る前に、以下の場面を見てみたい。
   
   
 ある日父親は、男の子に、イカダ流しをしていた “川の先生” の話をする。

 

 「川の先生は、川のことにかけては人とは比べものにならない名人で、川に魚が何匹いて、どっちの方向を向いて、何をしているということまできっちり言い当てる。
 その “川の先生” が、『あとひとつ』というと、もうその川にはあと一匹しか魚がいないということなんだ」


 それを聞いて、男の子は、話してくれた自分の父親に、「すごい!」と言う。
  
 
 その話のついでに、父親は釣りをしていると必ず現れてくるキツネの話をする。
 キツネはカゴに入った釣った魚を狙っていて、石を投げても、ヒョコヒョコと避けるだけで立ち去らない。
 そして、油断をしていると、カゴをくわえて、すーっと走り去る。
 聞いている男の子は「あーあ」とがっかりした声を出す。
  
  
 「学校の花壇を掘っていたら、土の中からおけらが一匹出てきたの」
 と、女の子が父親に話す。

 

 「そのおけらはね、誰それさんの脳みそ、どーのくらい? って聞くと、びっくりして前足を広げるの」
 そういって、女の子は両方の手でその幅を示す。
 「そのおけらの前足の幅でね、みんなの脳みその大きさが分かるの」
 
  
 男の子がボール箱の中に入れておいた蓑虫(みのむし)がある日いなくなる。
 子供は、蓑虫を庭の木からつまみあげ、裸にして、木の葉っぱや紙切れと一緒に箱の中に入れ、巣をこしらえる様子を観察するつもりでいたのだ。
 

 
 その蓑虫がどこかに姿を消す。
 しばらくすると、蓑虫はいつのまにか子供の勉強部屋に巣を作って収まっている。

 
 
 父親は、戸外に巣を作るはずの蓑虫が家の中に巣を作っている様子を見て、不思議な気持ちになる。
  
 これらの話に、不気味な兆候というものは何一つない。
 なのに、読んでいると、文字に書かれたもの以外の気配がそおっと降りてくる。

 

 それはいったい何なのだろう。
 
 一言でいうと、「自然」である。

 

 この小説では、冒頭の金魚釣りから始まり、必ず同じ道をたどろうとするイノシシの話、あくまでも前へ前へと進むアユの話など、父と子供たちの会話に必ず「自然」が登場する。
 
 テレビゲームも携帯電話もない昭和35年
 子供たちの遊びのフィールドがアウトドアだったことは分かる。
 
 しかし、父親と子供たちの対話の中で、これほど自然をテーマにした話が繰り返されるとなると、庄野潤三が、「自然」という言葉に、なにがしかの意図を込めたことを感じないわけにはいかなくなる。

  
 たぶん、庄野潤三は “自然” の持つ「超越性」を、この作品の中に導入したかったのだ。

 

 人間が、可能な限りの人智を奮っても制御できないもの。
 人間のつくり出す秩序を軽々と超えて、人間などには関わることのできない大きな秩序を形成しているもの。
 
 父親は、それを「自然」という言葉に仮託して子どもたち( つまりは読者)に伝えようとしたのだ。

 それが、この作品の底に流れる “不気味なもの” の正体だ。
 
  
 この『静物』という作品は、舌を巻くほど見事な描写力を誇っている小説である。
 特に、子供たちが見せる無邪気な会話や仕草。
 それを、これほどまで克明に写し取った作者の技量は、並大抵のものではない。

 
 
 しかし、そのようにして獲得されたリアリティは、逆に「リアリズムでは獲得できない世界」があることも、地面に落ちた影のように映し出してしまう。

 

 その一つが、「消えた蓑虫が、ある日こっそりと勉強部屋に移動して作ってしまった巣」である。

 

 これは、実はとんでもない “謎” を秘めた話なのだが、この小説では、それがまったく「謎」として描かれていないところが怖い。  
 
 つまり、「消えた蓑虫」というのは、日常生活の中にせり出してきた異形のパワーとしての「自然」の比喩である。
 それは、子どもたちには分かるが、大人には分からないものだ。

 

 村上春樹は『若い読者のための短編小説案内』の中で、ここに登場する子供たちを、作者の「イノセンス(無垢)」への憧憬が表現されたものとして捉える視点を披露した。

 

 そのイノセンスこそ、子供たちが無意識に備えている「自然」への親和性と解釈することもできる。

 

  
 庄野潤三がこれを書いた昭和35年(1960年)という時代は、まだ都会生活を送る人々の間ですらも、自然をテーマに語るときの素材が豊富に溢れていたのだ。
  
 しかし、今ここで描かれたような自然と接することができるのは、人里離れた山奥にでも行かなければ無理になった。

 

 だからこそ、『静物』という作品が、不思議な光芒を放つように感じられるのは、逆に今の時代かもしれない。

 

 

ロシア人が「プーチン幻想」から覚める日

 

 ここ一ヶ月ほど、全世界のテレビ、新聞、雑誌、SNSなどを通じて一番連呼された人の名前は、
 「プーチン
 ではなかろうか。

 

f:id:campingcarboy:20220407073715j:plain

 

 なにしろ、この名前の露出度は、ここ3ヶ月ほど群を抜いている。


 政治家としてはバイデン、トランプ、習近平金正恩などというビッグネームを抜き去り、アスリートとしては、大谷翔平リオネル・メッシタイガー・ウッズ大坂なおみなどを置き去りにしてしまう。

 

 イーロン・マスク、ジェフ・ベソス、ビル・ゲイツなどという大富豪たちも「プーチン」の前にはかすんでしまう。

 

 そのイメージは「極悪非道のラスボス」。
 なにしろ、侵略しているウクライナで、どれだけの民間人が虐殺されようが意に介さない。若いロシア兵たちが駆り出されて戦死しようが、それも「当然のこと」と黙殺。
 
 こういう冷酷非情さを堂々と世界にさらして開き直っている国家元首というのも最近では珍しいのではないか。

 

 このままでは、
 「20世紀のヒットラー
 「21世紀のプーチン
 という呪われた評価のまま終わるだろう。

  

 
 しかし、そういうプーチンの支持率がロシア国内では “うなぎ上り” になっている。 
 3月31日に集計されたロシアの世論調査では、ついに83%を超えたという。

 

f:id:campingcarboy:20220407073801j:plain

 

 世界中の「悪」が、ロシア国内では「ヒーロー」。

 

 この評価の落差に、現在のロシアという国の秘密が隠されていそうだ。

 

 多くの “西側メディア” は、ロシア政府の言論統制により、
 「今回の紛争ではウクライナが一方的に悪い」
 というロシア当局のプロパガンダに、ロシア国民が洗脳されていると告発する。

 

 なにしろ、ウクライナの市街地が爆撃で破壊している画像には、
 「ウクライナのネオナチ勢力が、自分の国の町を破壊している」
 「ウクライナの極右部隊が、親ロシア住民を虐殺している」
 というように、すべてウクライナ側が一方的に暴力を奮っているという説明がなされている。

 

 国営テレビしか見ないロシアの中高年はみなそれを鵜呑みにし、より一層プーチン支持の気持ちを固める。

 

 もちろん、ネットを通じて海外から伝わる「戦争の真実」を知る若者も多いという。
 しかし、それほど意識の高くない若者たちは、けっきょくロシアの中高年同様、プーチンを英雄視する傾向を強めているという話も聞く。

 

f:id:campingcarboy:20220407073844j:plain

 

 ロシア人たちが、プーチンの催眠術から解かれ、世界の真実を眺める日がくるのだろうか。

 

 いずれは、そういう日が訪れるとは思うが、「プーチン魔術」は、そう簡単には色あせない。
 
 なぜなら、プーチンが語る「ロシアの夢」や「ロシアの希望」は、この国が200~300年かけて積み重ねてきた「ロシア帝国」の栄光を引き継ぐものだからである。

 

f:id:campingcarboy:20220407073905j:plain

 

 『独裁者プーチン』(2012年)という本を書いた拓殖大学の名越健郎教授によると、プーチンが評価するロシア史上の人物は、ピョートル大帝とエカテリーナ2世だという。
 二人とも、帝政ロシアの発展に尽くしたロマノフ王朝の “ツァーリ(皇帝)” だ。

 

f:id:campingcarboy:20220407073924j:plain

 

 プーチンは、ソビエト連邦KGB(秘密警察)出身だから、ソ連をつくりあげた革命家を評価してもおかしくないはずなのに、彼が尊敬する人物名には革命家レーニン(写真下)などの名は出てこない。

 

f:id:campingcarboy:20220407073943j:plain

 

 それよりも、プーチンは、革命によって倒されたロマノフ王朝の方がお気に入りらしい。

 

 実は、プーチンは、「革命」という概念に恐れを抱いている人だという話もある。

 

 1989年、ベルリンの壁が崩壊したとき、東ドイツKGBの勤務をこなしていたプーチンは、壁を打ち砕いて侵入してきた西ドイツの民衆たちに恐怖を抱いたと述懐している。


 彼は、そのことを西側民衆の「革命」ととらえ、以降、自分自身は「ソ連」という革命政権に仕えながらも、「革命」をもっとも恐れる政治家になっていく。

 

f:id:campingcarboy:20220407074014j:plain

 

 彼の好みは、たぶんレーニンのような暗くて陰気な革命家よりも、きらびやかな帝政ロシアの絢爛たる皇帝たちの方にあるのだろう。

 

 昔、『ニコライとアレクサンドラ』(1971年)というハリウッド映画(写真下)があった。
 ロシア革命が起こり、最後は革命政権に銃殺されてしまうニコライ2世とその家族を描いた映画だったが、おそらくプーチンは、(もしその映画を観たら)処刑されるロマノフ王家の人々に感情移入したのではなかろうか。

 

f:id:campingcarboy:20220407074054j:plain

 

 壮大なロシア帝国の滅亡。
 彼は、それを本気で嘆いた人なのかもしれない。

 だから、彼は、今回のウクライナ侵攻においても、ロシア帝国の再興をリアルに夢見た可能性がある。
 
 彼の尊敬するピョートル大帝(17~18世紀)は、ロシアの後進性を打破して、ヨーロッパ諸国と並ぶ大国に押し上げた。
 そのために、スウェーデンと戦い、バルト海に進出した。

 

ロシア帝国の発展に寄与したピョートル大帝

f:id:campingcarboy:20220407074141j:plain

 

 また、プーチンの愛したエカテリーナ2世は、ポーランドウクライナを併合し、クリミア半島を制圧してロシアの領土を広げた。

 

▼ ロシアの人気ドラマ『エカテリーナ2世』の1シーン

f:id:campingcarboy:20220407074213j:plain

 
 プーチンの意識には、常に、膨張・拡大を続けた「ロシア帝国」のイメージがある。
 それを、彼は「大ロシア主義」、あるいは「ユーラシア主義」と呼び、ヨーロッパともアジアとも異なる独特の文化共同体であると訴える。

 

 この共同体は、別名「ルースキー・ミール(ロシアの世界)」とも呼ばれ、そもそもロシア、ウクライナベラルーシなどは同じロシア文化圏に属する盟友同志であるという理論で補完されている。

 

 その共同体を支えるのは、軍事力だ。

 帝政ロシアツァーリも、プーチンも、ともに軍事力を国力の根幹にすえる発想は変わらなかった。 

 

f:id:campingcarboy:20220407074247j:plain

 

 ここで注意しなければならないのは、「大ロシア主義(ルースキー・ミール)」というのは、そのまま、
 「他国には嘘をついてもかまわない」

 という精神状況を作り出すということだ。

 

 なにしろ、「ロシアはどこまでも膨張していく」のだから、その過程で 《外》 というものはやがてなくなる。


 つまり、今まで外だったものが、やがて 《内》 になるのだから、「嘘と真実」を分ける必要もなくなる。(内に入れば、みな真実だ) 

 

 それがプーチンの論理である。
 彼が “国際法” を守らないのも、同じように、すべてがやがて「ロシア」になるのだから、国と国の関係を法律化する「国際法」も意味がないという議論に進んでいく。
 

 それは、プーチンの願望がそのまま反映された思想でもあるが、同時に、ロシア人が伝統的に夢見ていたものでもあるのだ。


 
 ロシア人の夢とは何か?

 

 「ロシアは、いつでも膨張の過程にある」という信じ込みだ。

 

 そして、その膨張を訴えるリーダーに忠誠を誓い、祖国愛が鼓舞されることに陶酔することである。

 

 仮に、その祖国愛が、経済や政治のレベルで高コストになろうとも、情念の力でそれを補っていくというのが、ロシア人のメンタリティーである。

 戦前の日本の思想に置き換えると、「大和魂」というものに近いのかもしれない。

 

f:id:campingcarboy:20220407074354j:plain

 
 ロシア帝国の時代は、そういう精神を統合する人物はツァーリ(皇帝)だった。
 帝政時代の農民は、「農奴」といわれるまでに人権を奪われたみじめな存在になりさがっていたが、農奴を含め、純朴な国民はみなツァーリを愛した。

 

f:id:campingcarboy:20220407074415j:plain

 

 彼らは、自分たちを貧しい環境に追い込んだものこそツァーリ体制だったにもかかわらず、ツァーリの家族の慶事を素直に喜び、ツァーリの家族を襲う悲しみには涙をこぼした。

 

 ツァーリとは、あの広大なロシアの “大地” そのものだった。
 
 帝政ロシアの時代に、版図はユーラシア全土に及んだ。


 東は極寒のベーリング海峡を望み、西はポーランドウクライナを併合してドイツ、オーストリアというヨーロッパ列強と国境を接した。
 南ではオスマン帝国(トルコ)を破り、黒海アゾフ海を自国の海に定めた。
  
  
 このように、ロシア人は帝政ロシアの時代に(軍事力によって)国土が無限に膨張していく感覚を身につけた。
 そのときの高揚感がロシア人の身体感覚に焼き付き、それが代々受け継がれていった。

 

 だから、1991年の「ソ連崩壊」というのは、帝政ロシアの夢を打ち砕いたという意味で、ロシア人にとっては負の記憶でしかない。

 

 それは当然「ソ連」という国家そのものを否定するような歴史観を醸成する。
 ロシア人にとって、「ソ連」の解体は、領土の損失そのものだったからだ。

 

f:id:campingcarboy:20220407074501j:plain

 

 その歴史の節目に登場したのがプーチンである。 
 彼こそは、ソ連崩壊の悪夢を乗り越え、帝政ロシアの栄光を復興させるヒーローだと、オールドロシア人は歓迎する。
  

f:id:campingcarboy:20220407074527j:plain


 このような一途なロシア人たちの精神をつちかってきたのが、ロシア正教である。

 

 ロシア正教というのは、東ローマ帝国ビザンチン帝国)の国教ともなった東方正教会のロシア地区を束ねる壮大な宗教体系だが、西側のカトリックプロテスタントとは異なり、より内面性の強いところに特徴がある。

 

f:id:campingcarboy:20220407110818j:plain

 

 インフラ的には絢爛豪華()。

 宗教的には、神秘主義的な傾向がロシア正教には備わっている。 

 

 あらゆる宗教を排除しようとしたソ連時代には、ロシア正教もずいぶん弾圧された。
 しかし、プーチンの時代になるとロシア正教は見事に復活し、徐々にプーチン政権と蜜月関係を結ぶようになる。

 

 帝政ロシアの時代に、ロシア人民の精神的支柱となり、純朴なロシア人をたくさん生み出したロシア正教の力を、プーチンが利用しないわけはなかった。

 

 現に、現在のロシア正教を統率するキリル総主教は、

 「プーチン大統領の軍事侵攻は西側諸国に責任がある。西側諸国がプーチン大統領との約束を守らず、NATOをロシアとの国境に近づけてきたからだ」

 と発言。プーチンを支持する声明をはっきりと打ち出している。

 

f:id:campingcarboy:20220407074604j:plain

 
 この神秘主義的なロシア正教の宗教観で “ロシアの大地” を眺めてみると、また不思議な光景がせり上がってくる。

 

 「地平線の彼方に、また別の大地が広がっている」
 という感覚だ。

 

f:id:campingcarboy:20220407074627j:plain

 

 2018年に開かれた『ロシア絵画の至宝展』(東京富士美術館)で、18世紀以降のロシア美術の風景画を観に行ったとき、その展示スペースに、同時代のヨーロッパ絵画とはまったく異なる空間造形が広がっているのを見て、その圧倒的な光景に驚嘆したことがある。

 

 この大地の壮大な “奥行き感” こそ、「大ロシア」の感覚、すなわち「ユーラシア主義」といわれる世界観の反映であると思わざるをえない。

 

f:id:campingcarboy:20220407074649j:plain

 

 ロシア人の意識の底には、合理性の及ばない領域が潜んでいる。
 ロシア絵画やロシア文学には、それを示す作品が多々ある。

 

 しかし、そういうロシア人の感性を、プーチンがいつまでも利用できるはずはない。

 

 ロシアの思想やアートには、基本的に「愛」が備わっている。
 しかし、プーチンが今人々に示しているのは、残虐性を嘘で塗り固めた虚偽の「栄光」に過ぎない。
 ロシア芸術が示してきた「愛」は一かけらもない。

 

 そもそも、21世紀のハイブリッド戦の時代になっても、プーチンの戦いは相変わらず大砲を打ちながら陸軍が行進するという18世紀・19世紀型の戦闘だ。
 そういう戦争しかイメージできなかったところに、プーチンの限界があった。 

 

f:id:campingcarboy:20220407074723j:plain

 

 やがて、プーチンが失脚する日が訪れるだろう。

 

 日本のYOU TUBERのなかには、「プーチンは失脚しない」と言い切って、西側諸国の底の浅さをあざ笑う人たちもいる。

 

 しかし、そういう人は(仮にその観測が正しくても)、大切なことを見逃している。
 プーチン個人が胸のなかに抱えている人間に対する残虐性を批判する目を失っている。

 

 だから、プーチンの失脚は必ず来る。
 今すぐではないかもしれないが。

 

 


  

 

 

 

 

 

高田純次になりたい

 

 あなたには憧れのシニアタレントって、いる?  
 たとえばさぁ、「年取ったら、こんな人間になってみたい」というような人とかさぁ。
 そういう人、いる?

 

 俺の場合は、高田純次。 
 いま75歳だよね、この人は

 

 で、俺も75歳になったときには、高田純次みたいに、「いつも人をおちょくっている老人になりたい」と思っているわけ。   

 

 相手をおちょくって、嫌味いって、からかって。
 それなのに、からかわれた人間からまったく恨まれず、むしろ喜んでもらえるというのが、この高田純次の才能というか人柄だよな。

 

f:id:campingcarboy:20220331034345j:plain

 
 もう5年ほど前のこと。
 「肺高血圧症」の手術のために病院に入院したときがあったの。
 その間、2ヶ月。
 ヒマだから、ベッドの上にあぐらかいて、ずっとテレビを観ていたわけ。

 

 お気に入りは、朝の10時からテレビ朝日で放映される高田純次の『じゅん散歩』。

 

 今じゃこの時間帯の看板番組みたいになっているけど、俺が入院していたときはさ、ちょうどそれが始まった頃だったのよ。

 

 もともとこの散歩番組は、地井武男氏が出演していたのかな。
 タイトルは『ちい散歩』だった。

 

 次が加山雄三
 『若大将のゆうゆう散歩』とかいうタイトルがついていたと思う。

 

 いずれも関東ローカルの番組で、地井氏も若大将も、東京、神奈川、埼玉のような首都圏の商店街を歩き、ぶらっと立ち寄った店の主人と短い交流をするという、まぁ、どちらかという地味な番組だったんだよな。

 

 それが、高田純次に代わってから、にわかに “お笑い番組” の様相を呈するようになったわけ。
 立ち寄った店ごとに、奥から出てきた主人にかます高田純次の一言がきつい !

 

 たとえば、ぶらっと入る店のドアを叩くときの挨拶。
 「こんにちわぁ、ちょっと入っていい? 怪しい者ですが」

 

 ま、これは定番の言葉なんだけど、出た来た主人が年配女性の場合は、


 「まぁ、可愛い女の子。お母さんいる?」

 

 で、店の主人が中年男性の場合。 
 「この店、いかにも古そうですけど、ご主人は何代目?」
 「私は2代目です」
 「あ、そう。2代目って、たいてい先代の店をつぶしちゃうんだよね」

  
 街中で、向こうから4~5人のオバサンが歩いてきたときは、 
 「おぉ、久しぶりに女子大生の群れに会ったな。あなたたち、どこから来たの?」 

 

 オバサンたちが笑いながら、
 「あそこの保育園から来たんです」と答える。
 すると、じゅんちゃん、
 「じゃ児童の方々?」

 

 商店街の裏道に、手押しポンプの井戸があると、すかさずそのポンプを押してみて、
 「井戸ってのはね、水が出ても出なくても、こうするもんなんですよ」
 と、いたずらしながら通り過ぎる。

 

f:id:campingcarboy:20220331034507j:plain

 
 たまに東京近県を離れて、地方に行くこともある。 
 三重県伊勢神宮がロケ先だったときだ。

 

 高田氏、茶店で旅行中の女子二人組に話しかける。
 「あなたたち、どこから来たの?」
 「三重です」 
 「目は二重だけどね」

 

 テレ朝のアナウンサー室を訪ねたとき。
 社員たちのデスクが並ぶ室内にズカズカと入り、いきなり一人の女子社員に声をかける。
 「あなたは独身?」 
 「はい。そうです」
 「じゃ、この部屋にいる男性社員のなかで、あなたがいま旦那さん候補として狙っている男はどれ?」


 散歩中、たまに、高田純次を知っているオバサンとすれ違うこともある。
 「あ~ら高田さん。いやぁ、本物だわ」 
 「どうです? ナマ高田は?」 
 「やっぱり本物の方がいいですね(笑)」
 「え、なんて言ったの? 最近耳が遠くなっちゃって」
 「本物の方がいい(笑)」
 「そう ! 抱かれたいくらい?」

 

f:id:campingcarboy:20220331034540j:plain

 

 その口ぶりの軽さ、いい加減さ、無責任さ。 
 5~6歳ぐらいの悪童のいたずらを、枯れた老人の表情でやってのける。  

 なんという自由人! 

 

 観ていると、ほんとうにこういう老人になりたいと思うのだ。

 

 

 だから入院していたときに『じゅん散歩』を観ると、病棟にいる看護師さんたちに話しかける言葉が少し変わってしまった。


 「町田さん、採血の時間です。今日は全部で4本取ります」 
 「あなたなら、さらにもう1本余分に取ってもいいよ。後で飲んでみて。おいしいから」

 (ワシの本名は町田である)

 「町田さん、これから心電図の検査です。検査室までは車椅子で行きますね」
 「ついでに家まで送ってくれる?」

 

 まぁ、こんなヨタを言っても、相手に好かれるようになるには、俺の場合はまだ修業が足りなかったけどな。

 

 でも、今後の目標はいちおう高田純次 ということで。

    

 

言葉にならないもの(柄谷行人について)

  

 柄谷行人(からたに・こうじん)という批評家の本について、以前にも書いたことがあったが、そのなかの『意味という病』(1975年)という本をもう一度取り上げてみたい。

 

 

 この著作は、シェークスピアの『マクベス』を論じた「意味に憑かれた人間」を中心に構成された評論集だが、ほぼ同時期に書かれた文学論を包括的に収録しており、哲学的・思想的な傾向を強めた後の著作群と比較すると、かなり文芸的な香りを強く放っている。

 

 それゆえに “文学好き” には分かりやすい部分も多く、かつ文体も爽やかでみずみずしい。
 そのため、発行から50年近く経っているにもかかわらず、いまだに私が気に入った評論集の一つになっている。

 

 そのなかに、次のようなくだりがある。


  
  「 …… 自分をうまく説明できない人に代わって、その説明できない部分を説明してやっているような文章が横行していますが、書く方にも読む方にも、言葉では掬い(すくい)きれないものへの自覚がなければ、言葉は力を持たないでしょう」


  
  これは、柄谷自身の言葉ではなく、柄谷が小説家の古山高麗雄のエッセイの一文を引用したものだ。

 

  この引用文を紹介した評論「人間的なもの」の中で、柄谷自身はこういう。


  
  「(言葉では)表現できない不透明な部分が人間の行為にはつきまとっている。
 ジャーナリズムは(世間を騒がす奇々怪々な事件を論評するとき)奇怪なものを “奇怪なもの” として受けとめずに、何か別のもの …… たとえば心理学とか社会学の言葉を借りて安心しているようにみえる。
 (しかし)そういう態度は傲慢だ。それは、自分の理解しうるものの領域の外に一歩も出ないということであり、結局、新しい現実を古い経験の枠に押し込んで安心しているだけだ」 
  


  この文が書かれたのは昭和48年(1973年)である。
  だから、ここで言われる「奇々怪々な事件」というのは、連合赤軍浅間山荘事件とか、その前の年の大久保清による連続女性殺人事件、さらにその前年の三島由紀夫の割腹自殺事件などが想定されているように思える。


  
  しかし、柄谷行人が指摘する「奇怪なものを自分たちの理解できる形に翻訳して安心してしまう」という私たちの態度は、令和4年(2022年)の現在においても、一向に変わっていない。


  むしろ、当時よりも、この傾向は強まっているようにも感じる。

 

 たとえば、自己啓発本
 本屋の店頭に並んでいる自己啓発本のたぐいを一冊でも取り上げてみると、ほとんどの本が「奇怪なもの」から目を背けて書かれていることが分かる。


  
 それらの本で解明される “人間心理” は、ほとんど社会学か心理学、ないしは脳科学の概念を導入にしたものばかりだ。

 

  つまり、それらの本の著者たちが、結局「世界」というものを、社会学や心理学、あるいは脳科学のフィルターを通してしか見ていないということを意味する。
  
  そのような世界観で「世界」をまとめてしまえば、「世界」はすべて「了解可能」なものにとどまるだけである。
  そこで失われるのは「人間存在」の手触りである。

   

 
 私は、簡単に「答を出そうとする」すべてのものに、不信感を持っている。
 答を導きだすよりも、むしろ、出された答の前に立ちはだかっていた「謎」の方が美しいということは、この世によくあることだ。

 

 

 柄谷行人の著作は、すべて「謎」を「謎」として向き合うことの魅力を説いている。   

 彼はどんな文芸評論をこなすときも、自分の気に行った本を語るときには、かならずその本のなかに、「謎」を発見する。
 それが、文章の深みを引き寄せる。

 

 そもそも、文章の深みというのは、いったいどこからくるのか?

 

 それは、言葉で説明できない何かを、社会学や心理学などの助けを借りて説明することを避けつつ、不断にそれを追い求めていくという緊張感から生まれてくる。

 

 

 柄谷行人は、古井由吉の『先導獣の話』という作品から引用した文章で、このように書いている。(『意味という病』 「小説の方法的懐疑」)
  
  「あまりにも合理的なものは、ある時、そっくりそのまま非合理的なものである」
  
  彼は、その後に、こう書く。
  「古井氏は、人間の人格・心理・思想といったあいまいなものを少しも信じていない」 。
  
  そして、このような認識の根底にあるものは、「意味の体系」の否認である、と続ける。

 

 「意味の体系の否認」とは、我々が常に自分の心の拠りどころとして引き寄せようとする「常識」とか、「社会通念」などと呼ばれるものの総称だ。
 それに頼っているかぎり、何かあったとき、自分を安心させることはできても、物事の真実を突き詰めようとする意欲も熱意も浮かんでこない。

 

 

 それにしても、  
 「あまりにも合理的なものは、ある時、そっくりそのまま非合理的である」
 とは、またなんと素敵なフレーズであろうか!

 

 この言葉を逆から眺めれば、
 「非合理的なものでも、みんなが承認してしまえば、合理的なものになる」
 ということだ。
 

 
  実は、近代の歴史は、常にそのようにつくられてきた。
 

 
 現在、我々が直面している社会のさまざまな問題も、本当のことをいえば、どうしようもない不条理に満ちているはずなのだ。

 

 しかし、テレビや新聞、あるいはYOUTUBESNSで拡散していくニュースは、みなその不条理の根底まで掘り起こすことなく、現在流布している「常識」の範囲で説明しようとする。

 

 そこで明るみに出るのは「真実」ではなく、ただの「更新された情報」にすぎない。

 

 近代社会というものが、そういう構造の上に成り立ってきたということは、「近代文学」もまた、結局は、世間的に流布している「社会学」、「心理学」、「脳科学」でしか説明できない範囲で結着をつけようとしてきたということなのだ。
  


 私たちに「真実」に迫る方法があるとしたら、答はひとつ。
 「言葉にならないもの」を探し求めていくしかない。

 

 言葉にできないものの “手触り” 。そして、それを言葉にしたいと思っても、それができない時のもどかしさ。

 

  たぶん、それを手放してしまったら、小説家も、評論家も、Jポップの作詞家も、マニュアルライターも、物書きとしての生命は終わる。

 

 柄谷の著作は、いつもそのことを教えてくれる。