思想史家 先崎彰容日大教授に聞く
この5月11日(土)、東京・三鷹市公会堂「光のホール」にて、日大教授の先崎彰容(せんざき・あきなか)氏による講演会が開かれた。
以下は、その講演を聞きながら、私が持参した手帳にメモした同氏のトークの一部を簡単にまとめたものである。
講演内容は、「日本国憲法を考える」というテーマであったが、私個人の勝手な嗜好により、特に自分の関心領域に限定したものだけを列記する。
したがって、ここに紹介する記事が、先崎氏の「講演の概要」などというかしこまったものではないことだけは最初にお断りしておく。
本来ならば、先崎氏の原稿チェックが必要であるものかもしれないが、あくまでもブログ筆者の関心事のみをピックアップした私的な記事として、先崎氏および読者にはご容赦いただきたい。
(以下、先崎教授の談話の抜粋)
今日は、日本国憲法をテーマに、「国際社会における『日本』」という問題を考えてみたいが、その前に、今 “国際社会” はどうなっているのかを話したい。
一言でいうと、「多極化」しているといえる。これは言葉を変えていえば「バラバラ」だということだ。
その理由は、1991年にそれまで続いてきた「冷戦」が崩壊したからである。
冷戦の時代は、「アメリカ」を中心とした資本主義国家の西側諸国と、「ソ連」を中心とした社会主義国家の東側諸国という “2色” で世界を説明できた。
しかし、冷戦が終焉したことで、西側諸国は「資本主義の勝利」を高らかに宣言し、社会主義が崩壊したソ連も資本主義の仲間に入ると思い込んで、1998年にロシアをG7に参加させた。さらに2001年には、WTOに中国の参加を促した。
このことにより、一瞬だけだが、「世界は平和になった」と思えた。
しかし、実際にはそうならなかった。
これは何を意味するかというと、人というのは、なかなか他国の人が馴染んできた思想には従いにくいということだ。
たとえば中国は、昔から「世界で一番」であったし、近世まで実際に「世界で一番」であり続けた。
しかし、近代になって、一瞬だけ欧米に抜かれた。これが中国のトラウマになった。
だから中国は、近代の100年間だけを問題にする。それまで「3.000年の歴史」を謳ってきたのだから、そう言い続ければいいのに、欧米中心の世界観で自国を総括することを非常に嫌っている。だから中国はずっと世界の中心に戻りたいと思っている。
ロシアもそうだ。プーチンはロマノフ王朝のツァーリ(皇帝)の復権を目指しているから欧米的な世界観に与しようとはしない。
中東のイスラム諸国も同じである。インドもそうだ。
こういう傾向を、現在は「グローバルサウス」などといっている。
グローバルサウスというのは、いってしまえばG7以外の世界が「多極化」したということだ。
言葉を変えていえば、G7が世界のトップに立っていた時代は終わったということだ。
こういう「多極化」は日本国内でも起こっている。少し前の時代では、テレビと新聞がメディアを代表していた。昔の日本人は、テレビと新聞だけに目を通していれば、家族は盛り上がった。
しかし、今の日本人はみなスマホを眺めている。電車の中においても、席に座っている人は、みな視線を落としてスマホを観ている。もちろんこういう光景は彼らが家庭に戻ったときも変わらないだろう。
昔は、「一家団欒」という言葉があったように、居間に家族が集まってテレビドラマや野球中継で盛り上がったが、今の若者は自分の部屋にこもり、スマホでYOU TUBEやTikTokを観ている。
つまり、もう家庭のなかにおいても、家族同士が「多極化」 … つまりバラバラな生き方が当たり前になった時代を迎えるようになったのだ。
こういう時代になると、「何が普遍的なのか?」というテーマがとても大事になってくる。
どういうことかというと、少し前まで「普遍的なもの」と考えられてきたいくつかの大事な言葉が今は死語化してきている。
たとえば、「自由」、「民主主義」、「人権」などという言葉がかつての輝きを失ってきている。
戦後80年経って、欧米の思想に順応してきた日本人にとって、「自由」、「民主主義」、「人権」などといった言葉は、疑義を申し立てる余地もないくらい普遍的な概念であり、絶対的な正義だった。
しかし、そうは思わない人々が世界中に急増している。最新のデータによると、「民主主義国家」を自認する国は、2005年の89ヵ国をピークに減少し、2021年には83ヵ国になった。
一方、参政権や報道の自由などに制限を加えているロシアや中国のような「専制主義国家」は、05年には45カ国だったが、21年には56カ国にまで拡大している。(※ 以上はブログ筆者 注)
これは何を意味しているのか?
「民主主義」という概念にほころびが生じてきたからだ。
この言葉は、東南アジアや中南米では、「民主主義で選ばれた多数の人間は、そこから漏れた少数者を弾圧してもかまわない」という思想として認知され始めてきたのだ。
そうなると、そういう不都合を国家の統制によって阻止できる「専制主義国家」の方が、人民の安全な暮らしを保証するという逆説が生まれる。
「民主主義」を大事な理念として尊重してきた我々にとってはショッキングな話だが、世界ではそう思う人も増えてきているというリアルな現実を無視できない。
そういう「専制主義国家」に親近感を抱く国の政府からみると、今の中国などは理想的な国家でもある。なにしろ、デモなどを抑圧できるから国家統制が破綻なく進む。つまり国家運営のコストがかからない。だからそういう方向に舵を切ろうとしている国家 … たとえばハンガリーなどが台頭してきている。
そういう国々では、「民主主義」という概念よりも、「法の支配」という概念の方が説得力を持ち始めている。「専制主義国家」には、アメリカ的な … つまりG7的な「自由」はないかもしれないが、代わりに「法の支配」によって国民の安全を担保するというメリットがもたらされる。
つまり、「自由」と「民主主義」という言葉だけでは世界中の人々を説得できない時代が訪れ始めたといっていい。
では、そういう世界の傾向に対して、我々はどう向き合えばいいのか?
とにかく頭をフルに回転させ、いろいろなことを考えることが大切になってくる。
抽象論、観念論でいいから、「本当の自由」、「本当の人権」などというテーマをシビアに考え抜くことが大事だ。
さらにいえば、「戦争」、「核」、「平和」などというテーマに対して、自分なりの結論を構築するための、ささやかな地ならしを始めることだ。
ある意味で、第一次世界大戦の本質を考えることもいい勉強になる。
欧米型の思想が台頭してきて世界を究めようとした最中に、それを一挙に無に帰するような事件として第一次世界大戦を考えることができる。
あの戦争によって、「人間ははたして進化しているのか?」という疑問を人類は抱えるようになった。
人類の文明は20世紀に大発展を遂げた。しかし、その意味を問い直したのがあの戦争だった。
それによって、人間は、文明の輝きの奥に “闇” が口を開けているのをみた。
その「闇」を学問として考え始めたのがフロイトだった。
フロイトの精神分析も、第一次大戦がもたらした悪夢を背景に生まれてきたといっていい。
それをアートの世界で模索したのが「ダダイズム」だった。
ダダイズムというのは、それまでの端正で美しい絵画表現に異を唱え、今の抽象画に近いような破壊的絵画表現を志向した。
それもまた人間の理性に対する不信感がベースになっていた。
フロイトもダダイズムも、人間の心理には「闇」が潜んでいることを明るみに出した。
その「闇」とは何か?
それは、人間がどんな状況になっても捨てることのできない「恐怖心」に関係したものだ。
たとえば、敵対する2人の人間が、お互いに自分の手に何を持っているかを隠したまま対峙する状況を想定してみよう。
すると、両者とも、隠した手にピストルを忍ばせているのではないかと想像する。
そこで、お互いに「手」を相手に向けて、「何も持っていない」とアピールし合うとする。
それでも、お互いはまだ相手を信用しない。なぜなら、こっそりポケットにピストルを隠しているのではないか? と想像するからだ。
この「想像」こそが、恐怖心の源泉となる。
これが戦争を巻き起こす人間の心理に関りを持つことになる。
一方、日本の「能」という芸能は、そういう人間の想像力をプラスに向かわせる。
能面の無表情なたたずまいは、能楽師のちょっとした顔の角度によって、哀しみも怒りも表現する。それこそ観ている者の想像力が最高に飛躍する瞬間だ。
だから、人間の「想像」は、一方では芸術に向かわせるし、一方では戦争に向かわせる。
そういう人間の「想像」の力に思いを馳せることも、価値観の多極化 … つまりはバラバラになった世界を自分なりに統合するための契機になる。
今の時代には、物事を一気に解決するような単純な方法はないと思った方がいい。それよりも、地道に、小さな小石を一つひとつ拾い集めて意味を与えていくようなたゆまぬ「勉強」が世の中を見通す「顕微鏡」にもなり、「望遠鏡」にもなる。
今回の先崎氏の議題には、「集団的自衛権」の問題、「核軍縮vs核抑止」の問題、さらにはオバマ元米大統領の広島訪問の意義など、憲法を考える意味においてはより重要な議論が展開され、「憲法を記念する市民のつどい」メンバーとしては、そういったテーマの方が重要だと感じられる方が多いはずだが、90分の講演をずっとメモしてきた私としては、多少疲れを感じたこともあり、メモをサボりがちになった。そのため、そこは割愛する。