アートと文藝のCafe

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カラバッジョの謎の作品

恐くて、美しい眼の女


 かくも恐ろしく、かつ美しい眼をした女性を描いた絵を、ほかに知らない。

 

 

 タイトルは、「ホロフェルネスの首を斬るユディト」。

 

 

 西洋絵画ではおなじみのテーマで、クラナッハクリムトなど有名な画家の無数の作品が残されている。

 

 しかし、上記の絵が評判になったのは、2014年に、フランスのトゥルーズの民家の屋根裏から偶然発見され、しかも作者が、あの巨匠カラバッジョ(1571~1610年)ではないか? と詮索され始めたからだ。

 

 このニュースを知ったのは、NHKの「BS世界のドキュメンタリー」だった。
 邦題は「疑惑のカラヴァッジョ」。(原題 The Caravaggio Affair 2019年フランス)。

 

 絵の異様な迫力に、テレビを見ていた私にも戦慄が走った。

 

 「むごたらしい絵だ!」
 というのが、第一印象だった。

 

 しかし、カメラが原画に近づき、「ユディト」と呼ばれる女性の顔がクローズアップされた段階で、その戦慄は別のものになった。

 

 なんとも奇妙なエロティシズムがその顔に漂っている。
 ただの「恐ろしさ」とは、別のもの。
 人の首に刃をこすりつける瞬間の冷たい “恍惚感” 。
 
 その異様な迫力が、ユディトの眼に宿っている。
 それが、この絵の「むごたらしさ」の正体だ。

 

    

 この絵は、どういう情景を描いたものなのか?

 

 画題は、旧約聖書からとられている。

 

 紀元前600年から500年ぐらいのこと。
 アッシリアの王がユダヤ人の王国を滅ぼそうとして、ホロフェルネスという将軍をユダヤの地に派遣した。

 

 将軍ホロフェルネスは、ベトリアというユダヤ人都市を包囲。
 その陥落も間近というとき、町に住むユディトという美しい未亡人が将軍のもとを訪ねてくる。

 

 ホロフェルネスの幕舎に案内されたユディトは、
 「あの町には愛想をつかしたから、攻略方法をこっそり教える」
 と打ち明け、彼にさんざん酒を勧める。

 

 ホロフェルネスはユディトの色香に惑わされ、部下も退けた状態で、しこたま酒を飲み、泥酔してしまう。

 

 頃を見計らったユディトは、剣をつかみ、侍女とともに、ホロフェルネスの首を斬り落として、味方の陣営に戻り、ベトリアの町を救う。
 
 簡単に要約すると、そういう話なのだが、実話ではないらしい。
 旧約聖書に出てくる話だが、時代を特定できるデータもなく、都市名も架空のもの。
 もちろん「ユディト」と名乗る寡婦が実在したという証拠もない。
  

 
 しかし、ユディトの神々しい美しさと、彼女が犯した残忍な行動の落差が伝説となり、画家たちの想像力が刺激されたことは確かで、中世から近代にかけて無数の絵が生まれた。

 

 そのなかには、クラナッハクリムト、アローリなどという大家の作品もたくさん含まれている。

 

クラナッハ

クリムト

▼ アローリ作


 実は、画家名がカラバッジョだと特定できる作品も、すでに存在している。

 

▼ カラバッジョ

 

▼ 上記の作品の部分

 

 となると、2016年に発見された絵は、カラバッジョが描いた2作目のユディトということになる。

 

 同じ作者が、これほど異なる雰囲気の別バージョンを残すのだろうか?

 

 二つの絵を比べてみると、まず、ユディトの表情がまったく異なる。

 

 すでに「カラバッジョ作」と特定されている絵を見ると、ホルフェルネスの首を切り裂くユディットは、自分で犯した殺人ながら、そのおぞましさに耐えきれず、眉をしかめて身をのけ反らせている。
 
 それに対し、2016年に発見されたユディトの表情には、断固となる冷たい決意がにじみ出ている。


 2016年版は、カラバッジョとは異なる絵描きの作品ではないか? と推理する鑑定士がたくさんいる理由もそこに集中する。

 

 

 真贋を見極める意見は、真っ二つに分かれている。

 

 技法やタッチには、2作とも、紛れもなくカラバッジョでなければ描けないような技術が凝縮しているという。


 X線やコンピューター解析などによる総合的判断の結果、そう主張する鑑定士の数は多い。

 

 だからといって、2016年版が、即座に「カラバッジョ作」とは断定しきれない疑惑も残ったままなのだとか。


 同時代の画家であるルイ・ファンソンが、この絵そっくりの構図で模写している作品もあり、本作も、ファンソンが描いたという可能性が払拭しきれないらしい。

 

 また、カラバッジョが未完成のまま残した作品を、ルイ・ファンソンか別の画家が仕上げたのではないか、と推論する鑑定士もいるようだ。

 

▼ カラバッジョ自画像

 

 今のところ、鑑定の最終判断は下されていない。
 ということは、2016年に発見されたユディトは、作者不詳のまま、「幻の傑作」という状態で放置されたままなのだ。

 

 謎は謎を呼ぶ。

 

 実際に、2016年に発見されたこのユディトの顔は謎に満ちている。
 男の首を斬り離そうとしながら、彼女は、男の顔も自分の手元も見ていない。

 

 

 彼女の心の状態はどうなっているんだろう?

 

 ユダヤの町を救うという使命感に燃えているのだろうか。
 それとも、神の意志を実現するという信仰心に突き動かされているのだろうか。
 あるいは、殺戮の快楽という “おぞましい” 欲望を噛みしめているのだろうか。

  
 最大の謎は、彼女はホロフェルネスの首を斬りながら、誰を見ているのか? ということだ。

 この “カメラ目線” こそ、この絵の最大の謎である。

 彼女の感情を押し殺した冷たい眼の奥に何が潜んでいるのか。
 それは、誰にも分からない。

 

 

 

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他国に軍事介入した国は必ず失敗する

 
 プーチン大統領のロシア軍が隣国ウクライナに侵攻して2ヶ月が経ったが、相変わらず、各国のニュースが戦況の報告に時間を割いている。

 

 そういう報道のなかで、
 「ロシアは悪。ウクライナは善」
 という単純な二分法を批判する意見が目立つようになってきた。

 

 日本では、特に作家、映画監督、政治評論家など、周囲から「インテリ」と目されるような知的な職業に就いている人に多い。

 

 こういう意見に、私は半分だけ同意する。
 戦争の当事者たちは、どちらも「自国の正義」を拠りどころにするものだから、第三者の主観的な直感だけで真実を判断できないという見方が成立する余地は、確かにあり得る。

 

 そういった意味で、ロシアとウクライナを「善悪二元論」で片づけることの危うさに私も気づいている。

 

 だけど、どう考えたって、「プーチンは悪い」という直感が誤っているとは思えない。

 

 

 悪いものは悪い。

 少なくとも、自国の “正義” を貫くために、他国を武力で侵攻することが正しいとは論理的にも倫理的にも言えないはずだ。

 

 20世紀の世界史を振り返ってみても、自国の勝手な主張に頼って他国に武力介入した国は、例外なく失敗し、「悪」の烙印を押されている。

 

 ポーランドチェコ、フランス、さらにロシアを併合しようとしたナチスドイツしかり。


 中国や東南アジアに進出した大日本帝国しかり。

 

 北朝鮮も、朝鮮半島の統合を試みたが、国連軍に38度線まで押し戻され、その後は朝鮮半島の「ならず者」的な扱いを受けている。

 

 冷戦後ベトナムに戦争を仕掛けたアメリカも、「帝国主義」の烙印を押され、その政治的・軍事的な敗北においてトラウマを負った。

  

 このように、軍事的に他国に侵攻した国は、ことごとく敗れ去り、最後は「悪」の汚名を着せられる宿命から逃れることはできない。
 おそらく、ロシアもそうなる。

 

 そういう「悪の滅亡」が法則化されている世の中で、ロシアのプーチン氏だけは、自分の試みは成功すると思っているのだろうか?

 

 

 「思っている」と観測する意見は多い。
 オーストリアのネハンマー首相は、モスクワでプーチン大統領と会談したあと、
 「彼は戦争に勝っていると信じている」
 と報道人に対してうんざりした表情でコメントした。

 

 プーチン氏には独特の信念があって、それは次のようなものだという。

 

 「EUNATOの西側諸国は、民主主義を拠りどころにしているが、民主主義というのは、国民がわがままを言い始めると分裂してしまう。
 それに対し、ロシア人は民主主義のような頼りないものを信じていないため、最後は政治的に勝利する」

 

 彼が本当にそう明言したかどうかは分からない。
 ただ、おそらくプーチン氏の理念を言葉にすると、そうなるはずだ。
 
 
 現在、西側諸国が恐れているのは、プーチン氏が核戦争を起こすかどうかだということだ。
 核兵器には地域限定的な「戦術核」と、広範囲なエリアを焦土化する「戦略核」の2種類がある。

 

 もし片方が「戦略核」を使用すると、相手方もその報復として「戦略核」を放って対抗しようとする。

 

 そのような戦略核の応酬となれば、ヨーロッパやアメリカの主要都市も、ロシアの主要都市も壊滅的な被害を被ることになる。

 

 

 こういう不安は、ロシア国内でも巻き起こっているらしい。
 ただし、ロシア人のなかには、世界が核被害を受ける「第三次世界大戦」を容認する声もあるという。

 

 ある日本のテレビ番組で、ロシアの国営放送の様子が伝えられていた。
 男女を含んだ数人のロシア人キャスターが討論している様子が紹介されていた。

 

 

 女性キャスター 「このままでは核戦争が起こるかしら?」
 男性キャスター 「西側諸国が挑発を止めないかぎり、そういう可能性はあるね」
 女性キャスター 「困ったことね」
 男性キャスター 「あいつらはバカだから、核の怖さを分からないみたいだ」
 女性キャスター 「でも、人間はいつか死ぬのだから、私は気にしないわ」
 男性キャスター 「核戦争で死んでも、ロシア人はみな天国にいける。しかし、西側の住民は、ただ “死ぬ” だけだ」

 

 こういうやりとりが本当にあったのかどうか。
 もしかしたら、これは西側諸国がたくらんだフェイクニュースかもしれない。
 しかし、もし上記のようなやりとりが本当だとしたら、ロシアの国営放送の恐ろしさが如実に分かるエピソードだ。

 

 実際、プーチン氏は「核戦争」の結末をリアルにイメージしていない可能性がある。
 なぜなら、
 「この世にロシアがいない世界など、生き残っても意味がない」
 と、何かのついでに発言したという話もあるからだ。

 

 この発言の真偽も、裏がとれていない。
 しかし、いかにも彼が言いそうな話だ。
 

 
 この究極の自暴自棄ともとれる発言は何を意味するのか?

 プーチン氏が、「国家」というものを、合理的な存在として見ていないことを意味している。
 彼が考えているのは、経済や政治の総合的なシステムとしての近代国家ではなく、中世人たちが考えていたような「神聖国家」である。

 

 そのイメージには、ロシア正教的な「ルースキーミール(ロシアの世界)」という宗教的・神秘的な国家観が反映されていることは確かだが、それを支えるものとして、「朕は国家なり」という彼自身の自己肥大妄想も影を落としている。

 

 

 プーチン氏は「歴史」というものに極度な関心を示し、特に、ロシア史のエピソードに関しては、歴史学者顔負けの知識を蓄積しているという。

 

 なかでも、ピョートル大帝やエカテリーナ2世(写真下 ロシアドラマより)といったロシアの偉大さを誇示した皇帝たちの話が大好きで、自分もそれに負けない大英雄になることを夢見ているという話もある。 

 

 

 このように、歴史を深掘りするということは、「垂直軸の思考方法」を身に着けることを意味している。


 そのとき、現実の世界地図を広げて情勢分析するような「水平軸の思考」は意識のかなたにフェイドアウトしていく。

 

 つまり、プーチン氏にとって、現在侵攻しているウクライナという隣国は、地図を広げたときに目に入ってくる「他国」ではなく、「(これから編入される)ロシアの領土」でしかないということなのだ。
 
 このように、ロシアという「領土」と自分が一体となったプーチン氏の思考では、「自分が理解できない世界は抹殺してもかまわない」という発想しか生まれてこない。

 

 

 現在、ロシアからの「頭脳流出」が話題になっている。
 海外に逃れているのは、IT 企業の経営者やその技術者だ。


 グローバルな電脳世界で活躍する彼らにとって、IT にもAI にも関心のないプーチン氏が仕切るロシア世界というのは、息苦しいだけでしかない。

 

 こういう頭脳流出がどれだけロシアの未来を貧しいものにしてしまうか、プーチン氏には分かっていないようだ。

 

 自己肥大化願望を、軍事のみで満たそうとするプーチン氏の凋落はすぐそこまで来ている。

 

 

思ってもいない言葉が口をつく

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 人間、追いつめられて、疲労も蓄積してくると、頭脳と肉体がそれぞれ別の方向に向かって歩き出してしまうことがよくある。
 思ってもいない言葉が、ふと口をつくというヤツ。
 
 いくつかの例があるが、私の場合、そのひとつが、「意味のない独り言」。
 
 先だって、ある人と話していたら、
 「身体も心もトコトン疲弊してくると、いつのまにか独り言をつぶやいているんだよね」
 という話になった。
 
 道を歩いていても、電車に乗っていても、気づくと、仕事や生活とはまったく無縁の、ほとんど意味のないことをつぶやいている。
 
 「あ、それ、俺もある!」
 「やっぱ?」
 と、2人で見つめ合い、お互い哀れむようにうなづきあった。
  

 
 もうひとつ怖いのは、言い間違いが多くなってきたこと。

 年のせいかもしれないが、自分がおかしなことを言い始めても、なかなか気づかない。 

 
 こういうことって、他の人にもいっぱいあるらしい。
 ある雑誌を読んでいたら、疲れてタクシーを拾った人が行き先を告げるときの失敗談を載せていた。
 
 本 人  「家までお願い」
 運転手 「どこのです?」
 本 人  「だから、家までだよ」
 
 似たような話が、自分にもある。
 
 ある私鉄の駅で、自動販売機を使わずに、駅員のいる窓口でキップを買おうとしたときのことだ。
 
 行き先の駅名を何度言っても、窓口の向こうにいる駅員はまったく応じてくれない。
 そればかりか、私の真意をさぐるような目つきでこちらを見つめてくる。
 
 駅名を連呼しているうちに、私は、ふと気がついた。
 駅員に向かって、
 「マイルドセブンライト(煙草の名)」
 と、言い続けていたのだ。
 
 切符を買ったあと、駅構内に入ったら、売店で煙草を買う。
 頭の中でそういう段取りを付けていたのだが、その順序が逆になったのだ。
 
 この手の話を、
 「アハハハ俺その時ボケちゃってよ」
 ってな笑い話で済ませられるうちはいい。
 
 だけど、笑い話で済ませられないようになったら、どうしよう。

 たとえば、ある日カミさんと、こんな受け答えをしたら?
 
 「お、ヨシ子、パーマにいったのか? 似合うじゃないか」
 
 「私、パーマなどに行っていませんけど。それにヨシ子じゃありません。ヨシ子って、誰?」

 

 

 

庄野潤三の小説に流れる不思議な空気感

   
 庄野潤三の短編集『プールサイド小景静物』(新潮文庫)を買った。
 収録されていた七つの短編にはそれぞれ独特の空気があって、どれも不思議な気分にさせられた。

 

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 どの作品も、昭和25年(1950年)から昭和35年(1960年)までの間に書かれたものである。
 芥川賞をとった『プールサイド小景』からすでに68年経つことになる。
  
 しかし、読んでみると古びていない。
 特に、『舞踏』と『プールサイド小景』などは、今のテレビ局が単発ドラマの原作として使っても、十分に通用するような話だ。

 

 この本には、ほかに『相客』、『五人の男』、『蟹』、『静物』といった同時代の作品群が収録されているが、基本的には、どの話も、一般庶民のさりげない交流を描いた作品といっていい。

 

 なのに、みな、どこか “落ち着かない” 。
 そこはかとない “不穏な” 空気が漂ってくるのだ。

 

 その中でも一番奇妙な味わいを持つのは、本の表題の一つとして掲げられている『静物』である。

 

 この作品は、村上春樹が『若い読者のための短編小説案内』でも採り上げたことがあるので、それに触発されて、にわかに最近の若者にも読まれるようになったと聞く。

 

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 『静物』を読んでみると、確かに、ある意味で村上春樹好みの作品という感じもする。

 

 主な登場人物は、父親、母親、そして女の子と2人の男の子である。
 その家族の中で繰り広げられる日常生活の一コマ一コマが、何の脈絡もないまま並列につながっているだけの作品なのだ。

 

 しかし、その一コマ一コマの “切れ目” に、何かが潜んでいる。
 
 たとえば最初の章は、子供たちが、父親にせがんで釣り堀に連れていってもらい、意気込んで釣糸を垂れるのだが、何も釣れず、最後に父親が小さな金魚を一匹だけ釣って家に帰るところで、プツッと終わる。

 

 事件が起こるわけでもなく、しゃれたオチが用意されているわけでもない。
 
 なのに、この作品全体から、うっすらと不思議な感覚が立ち昇ってくる。
 常に、文字として書き込まれていない何かがここには居座っている。

 

 「何も起こらない」ことは、こんなにも不気味なものなのか?
 そう思わせる何かが、この小説にはある。
 

  
 その正体のひとつは、簡単に探し出せる。
 家族のなかの、夫と妻との間にときおり忍び込んで来る「すきま風」だ。
 
 ある晩、父親はそばで寝ている妻のことを、ふとこう考える。
 「おれの横にこちらを向いて眠っている女 …… これが自分と結婚した女だ。15年間、いつもこの女と寝ているのだな。同じ寝床で、毎晩」
  
 結婚したどの夫にも必ず訪れる、ごくありきたりの感慨かもしれない。
 しかし、この覚めた夫の観察は、どこか異様である。
 15年一緒に寝ているはずの妻に対し、ベッドのなかで見知らぬ女を見つけたときのような冷たさが文章から漂ってくる。

 

 
 またある日、夫は家の中で昼寝しているときに、「女のすすり泣き」を耳にする。

 妙だなと思って、台所を覗いてみると、妻はほうれん草を洗っていた。
 「何か音がしなかったか?」
 と妻に尋ねる。
 「いいえ、何か聞こえました?」
 と妻は晴れやかな顔をこちらに向けた、というのである。
  
 結局、夫には「すすり泣き」の犯人がいまだに分からない。
 場面はそこで変わり、話は子供たちのドーナツ作りに移っていく。
  
 しかし、読者には分かってしまう。
 たぶん、この夫は、かつて妻をすすり泣かせるようなことをしてしまったのだ。

 

 読者にそう思わせる何かが、ここでは暗示されている。
 でもそれが何であるか、作者は語らない。
  

 
 多くの人が、この『静物』にときおり顔を出す「不安の徴候」に注目した。
 そして、その「不安の徴候」こそが、この牧歌的で微温的な小説をピリッと引き締めるタガになっていると指摘した。
 
 しかし、この『静物』という小説は、夫と妻の関係が明らかになれば、作品全体を貫く奇妙な味わいの秘密が解けるのかというと、そうではない。

 

 夫の心理状態がどうであれ、妻の対応が何であれ、それとは関係ないところで、不思議なものが迫り出してくる。
 その不思議なものを探る前に、以下の場面を見てみたい。
   
   
 ある日父親は、男の子に、イカダ流しをしていた “川の先生” の話をする。

 

 「川の先生は、川のことにかけては人とは比べものにならない名人で、川に魚が何匹いて、どっちの方向を向いて、何をしているということまできっちり言い当てる。
 その “川の先生” が、『あとひとつ』というと、もうその川にはあと一匹しか魚がいないということなんだ」


 それを聞いて、男の子は、話してくれた自分の父親に、「すごい!」と言う。
  
 
 その話のついでに、父親は釣りをしていると必ず現れてくるキツネの話をする。
 キツネはカゴに入った釣った魚を狙っていて、石を投げても、ヒョコヒョコと避けるだけで立ち去らない。
 そして、油断をしていると、カゴをくわえて、すーっと走り去る。
 聞いている男の子は「あーあ」とがっかりした声を出す。
  
  
 「学校の花壇を掘っていたら、土の中からおけらが一匹出てきたの」
 と、女の子が父親に話す。

 

 「そのおけらはね、誰それさんの脳みそ、どーのくらい? って聞くと、びっくりして前足を広げるの」
 そういって、女の子は両方の手でその幅を示す。
 「そのおけらの前足の幅でね、みんなの脳みその大きさが分かるの」
 
  
 男の子がボール箱の中に入れておいた蓑虫(みのむし)がある日いなくなる。
 子供は、蓑虫を庭の木からつまみあげ、裸にして、木の葉っぱや紙切れと一緒に箱の中に入れ、巣をこしらえる様子を観察するつもりでいたのだ。
 

 
 その蓑虫がどこかに姿を消す。
 しばらくすると、蓑虫はいつのまにか子供の勉強部屋に巣を作って収まっている。

 
 
 父親は、戸外に巣を作るはずの蓑虫が家の中に巣を作っている様子を見て、不思議な気持ちになる。
  
 これらの話に、不気味な兆候というものは何一つない。
 なのに、読んでいると、文字に書かれたもの以外の気配がそおっと降りてくる。

 

 それはいったい何なのだろう。
 
 一言でいうと、「自然」である。

 

 この小説では、冒頭の金魚釣りから始まり、必ず同じ道をたどろうとするイノシシの話、あくまでも前へ前へと進むアユの話など、父と子供たちの会話に必ず「自然」が登場する。
 
 テレビゲームも携帯電話もない昭和35年
 子供たちの遊びのフィールドがアウトドアだったことは分かる。
 
 しかし、父親と子供たちの対話の中で、これほど自然をテーマにした話が繰り返されるとなると、庄野潤三が、「自然」という言葉に、なにがしかの意図を込めたことを感じないわけにはいかなくなる。

  
 たぶん、庄野潤三は “自然” の持つ「超越性」を、この作品の中に導入したかったのだ。

 

 人間が、可能な限りの人智を奮っても制御できないもの。
 人間のつくり出す秩序を軽々と超えて、人間などには関わることのできない大きな秩序を形成しているもの。
 
 父親は、それを「自然」という言葉に仮託して子どもたち( つまりは読者)に伝えようとしたのだ。

 それが、この作品の底に流れる “不気味なもの” の正体だ。
 
  
 この『静物』という作品は、舌を巻くほど見事な描写力を誇っている小説である。
 特に、子供たちが見せる無邪気な会話や仕草。
 それを、これほどまで克明に写し取った作者の技量は、並大抵のものではない。

 
 
 しかし、そのようにして獲得されたリアリティは、逆に「リアリズムでは獲得できない世界」があることも、地面に落ちた影のように映し出してしまう。

 

 その一つが、「消えた蓑虫が、ある日こっそりと勉強部屋に移動して作ってしまった巣」である。

 

 これは、実はとんでもない “謎” を秘めた話なのだが、この小説では、それがまったく「謎」として描かれていないところが怖い。  
 
 つまり、「消えた蓑虫」というのは、日常生活の中にせり出してきた異形のパワーとしての「自然」の比喩である。
 それは、子どもたちには分かるが、大人には分からないものだ。

 

 村上春樹は『若い読者のための短編小説案内』の中で、ここに登場する子供たちを、作者の「イノセンス(無垢)」への憧憬が表現されたものとして捉える視点を披露した。

 

 そのイノセンスこそ、子供たちが無意識に備えている「自然」への親和性と解釈することもできる。

 

  
 庄野潤三がこれを書いた昭和35年(1960年)という時代は、まだ都会生活を送る人々の間ですらも、自然をテーマに語るときの素材が豊富に溢れていたのだ。
  
 しかし、今ここで描かれたような自然と接することができるのは、人里離れた山奥にでも行かなければ無理になった。

 

 だからこそ、『静物』という作品が、不思議な光芒を放つように感じられるのは、逆に今の時代かもしれない。

 

 

ロシア人が「プーチン幻想」から覚める日

 

 ここ一ヶ月ほど、全世界のテレビ、新聞、雑誌、SNSなどを通じて一番連呼された人の名前は、
 「プーチン
 ではなかろうか。

 

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 なにしろ、この名前の露出度は、ここ3ヶ月ほど群を抜いている。


 政治家としてはバイデン、トランプ、習近平金正恩などというビッグネームを抜き去り、アスリートとしては、大谷翔平リオネル・メッシタイガー・ウッズ大坂なおみなどを置き去りにしてしまう。

 

 イーロン・マスク、ジェフ・ベソス、ビル・ゲイツなどという大富豪たちも「プーチン」の前にはかすんでしまう。

 

 そのイメージは「極悪非道のラスボス」。
 なにしろ、侵略しているウクライナで、どれだけの民間人が虐殺されようが意に介さない。若いロシア兵たちが駆り出されて戦死しようが、それも「当然のこと」と黙殺。
 
 こういう冷酷非情さを堂々と世界にさらして開き直っている国家元首というのも最近では珍しいのではないか。

 

 このままでは、
 「20世紀のヒットラー
 「21世紀のプーチン
 という呪われた評価のまま終わるだろう。

  

 
 しかし、そういうプーチンの支持率がロシア国内では “うなぎ上り” になっている。 
 3月31日に集計されたロシアの世論調査では、ついに83%を超えたという。

 

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 世界中の「悪」が、ロシア国内では「ヒーロー」。

 

 この評価の落差に、現在のロシアという国の秘密が隠されていそうだ。

 

 多くの “西側メディア” は、ロシア政府の言論統制により、
 「今回の紛争ではウクライナが一方的に悪い」
 というロシア当局のプロパガンダに、ロシア国民が洗脳されていると告発する。

 

 なにしろ、ウクライナの市街地が爆撃で破壊している画像には、
 「ウクライナのネオナチ勢力が、自分の国の町を破壊している」
 「ウクライナの極右部隊が、親ロシア住民を虐殺している」
 というように、すべてウクライナ側が一方的に暴力を奮っているという説明がなされている。

 

 国営テレビしか見ないロシアの中高年はみなそれを鵜呑みにし、より一層プーチン支持の気持ちを固める。

 

 もちろん、ネットを通じて海外から伝わる「戦争の真実」を知る若者も多いという。
 しかし、それほど意識の高くない若者たちは、けっきょくロシアの中高年同様、プーチンを英雄視する傾向を強めているという話も聞く。

 

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 ロシア人たちが、プーチンの催眠術から解かれ、世界の真実を眺める日がくるのだろうか。

 

 いずれは、そういう日が訪れるとは思うが、「プーチン魔術」は、そう簡単には色あせない。
 
 なぜなら、プーチンが語る「ロシアの夢」や「ロシアの希望」は、この国が200~300年かけて積み重ねてきた「ロシア帝国」の栄光を引き継ぐものだからである。

 

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 『独裁者プーチン』(2012年)という本を書いた拓殖大学の名越健郎教授によると、プーチンが評価するロシア史上の人物は、ピョートル大帝とエカテリーナ2世だという。
 二人とも、帝政ロシアの発展に尽くしたロマノフ王朝の “ツァーリ(皇帝)” だ。

 

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 プーチンは、ソビエト連邦KGB(秘密警察)出身だから、ソ連をつくりあげた革命家を評価してもおかしくないはずなのに、彼が尊敬する人物名には革命家レーニン(写真下)などの名は出てこない。

 

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 それよりも、プーチンは、革命によって倒されたロマノフ王朝の方がお気に入りらしい。

 

 実は、プーチンは、「革命」という概念に恐れを抱いている人だという話もある。

 

 1989年、ベルリンの壁が崩壊したとき、東ドイツKGBの勤務をこなしていたプーチンは、壁を打ち砕いて侵入してきた西ドイツの民衆たちに恐怖を抱いたと述懐している。


 彼は、そのことを西側民衆の「革命」ととらえ、以降、自分自身は「ソ連」という革命政権に仕えながらも、「革命」をもっとも恐れる政治家になっていく。

 

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 彼の好みは、たぶんレーニンのような暗くて陰気な革命家よりも、きらびやかな帝政ロシアの絢爛たる皇帝たちの方にあるのだろう。

 

 昔、『ニコライとアレクサンドラ』(1971年)というハリウッド映画(写真下)があった。
 ロシア革命が起こり、最後は革命政権に銃殺されてしまうニコライ2世とその家族を描いた映画だったが、おそらくプーチンは、(もしその映画を観たら)処刑されるロマノフ王家の人々に感情移入したのではなかろうか。

 

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 壮大なロシア帝国の滅亡。
 彼は、それを本気で嘆いた人なのかもしれない。

 だから、彼は、今回のウクライナ侵攻においても、ロシア帝国の再興をリアルに夢見た可能性がある。
 
 彼の尊敬するピョートル大帝(17~18世紀)は、ロシアの後進性を打破して、ヨーロッパ諸国と並ぶ大国に押し上げた。
 そのために、スウェーデンと戦い、バルト海に進出した。

 

ロシア帝国の発展に寄与したピョートル大帝

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 また、プーチンの愛したエカテリーナ2世は、ポーランドウクライナを併合し、クリミア半島を制圧してロシアの領土を広げた。

 

▼ ロシアの人気ドラマ『エカテリーナ2世』の1シーン

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 プーチンの意識には、常に、膨張・拡大を続けた「ロシア帝国」のイメージがある。
 それを、彼は「大ロシア主義」、あるいは「ユーラシア主義」と呼び、ヨーロッパともアジアとも異なる独特の文化共同体であると訴える。

 

 この共同体は、別名「ルースキー・ミール(ロシアの世界)」とも呼ばれ、そもそもロシア、ウクライナベラルーシなどは同じロシア文化圏に属する盟友同志であるという理論で補完されている。

 

 その共同体を支えるのは、軍事力だ。

 帝政ロシアツァーリも、プーチンも、ともに軍事力を国力の根幹にすえる発想は変わらなかった。 

 

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 ここで注意しなければならないのは、「大ロシア主義(ルースキー・ミール)」というのは、そのまま、
 「他国には嘘をついてもかまわない」

 という精神状況を作り出すということだ。

 

 なにしろ、「ロシアはどこまでも膨張していく」のだから、その過程で 《外》 というものはやがてなくなる。


 つまり、今まで外だったものが、やがて 《内》 になるのだから、「嘘と真実」を分ける必要もなくなる。(内に入れば、みな真実だ) 

 

 それがプーチンの論理である。
 彼が “国際法” を守らないのも、同じように、すべてがやがて「ロシア」になるのだから、国と国の関係を法律化する「国際法」も意味がないという議論に進んでいく。
 

 それは、プーチンの願望がそのまま反映された思想でもあるが、同時に、ロシア人が伝統的に夢見ていたものでもあるのだ。


 
 ロシア人の夢とは何か?

 

 「ロシアは、いつでも膨張の過程にある」という信じ込みだ。

 

 そして、その膨張を訴えるリーダーに忠誠を誓い、祖国愛が鼓舞されることに陶酔することである。

 

 仮に、その祖国愛が、経済や政治のレベルで高コストになろうとも、情念の力でそれを補っていくというのが、ロシア人のメンタリティーである。

 戦前の日本の思想に置き換えると、「大和魂」というものに近いのかもしれない。

 

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 ロシア帝国の時代は、そういう精神を統合する人物はツァーリ(皇帝)だった。
 帝政時代の農民は、「農奴」といわれるまでに人権を奪われたみじめな存在になりさがっていたが、農奴を含め、純朴な国民はみなツァーリを愛した。

 

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 彼らは、自分たちを貧しい環境に追い込んだものこそツァーリ体制だったにもかかわらず、ツァーリの家族の慶事を素直に喜び、ツァーリの家族を襲う悲しみには涙をこぼした。

 

 ツァーリとは、あの広大なロシアの “大地” そのものだった。
 
 帝政ロシアの時代に、版図はユーラシア全土に及んだ。


 東は極寒のベーリング海峡を望み、西はポーランドウクライナを併合してドイツ、オーストリアというヨーロッパ列強と国境を接した。
 南ではオスマン帝国(トルコ)を破り、黒海アゾフ海を自国の海に定めた。
  
  
 このように、ロシア人は帝政ロシアの時代に(軍事力によって)国土が無限に膨張していく感覚を身につけた。
 そのときの高揚感がロシア人の身体感覚に焼き付き、それが代々受け継がれていった。

 

 だから、1991年の「ソ連崩壊」というのは、帝政ロシアの夢を打ち砕いたという意味で、ロシア人にとっては負の記憶でしかない。

 

 それは当然「ソ連」という国家そのものを否定するような歴史観を醸成する。
 ロシア人にとって、「ソ連」の解体は、領土の損失そのものだったからだ。

 

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 その歴史の節目に登場したのがプーチンである。 
 彼こそは、ソ連崩壊の悪夢を乗り越え、帝政ロシアの栄光を復興させるヒーローだと、オールドロシア人は歓迎する。
  

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 このような一途なロシア人たちの精神をつちかってきたのが、ロシア正教である。

 

 ロシア正教というのは、東ローマ帝国ビザンチン帝国)の国教ともなった東方正教会のロシア地区を束ねる壮大な宗教体系だが、西側のカトリックプロテスタントとは異なり、より内面性の強いところに特徴がある。

 

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 インフラ的には絢爛豪華()。

 宗教的には、神秘主義的な傾向がロシア正教には備わっている。 

 

 あらゆる宗教を排除しようとしたソ連時代には、ロシア正教もずいぶん弾圧された。
 しかし、プーチンの時代になるとロシア正教は見事に復活し、徐々にプーチン政権と蜜月関係を結ぶようになる。

 

 帝政ロシアの時代に、ロシア人民の精神的支柱となり、純朴なロシア人をたくさん生み出したロシア正教の力を、プーチンが利用しないわけはなかった。

 

 現に、現在のロシア正教を統率するキリル総主教は、

 「プーチン大統領の軍事侵攻は西側諸国に責任がある。西側諸国がプーチン大統領との約束を守らず、NATOをロシアとの国境に近づけてきたからだ」

 と発言。プーチンを支持する声明をはっきりと打ち出している。

 

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 この神秘主義的なロシア正教の宗教観で “ロシアの大地” を眺めてみると、また不思議な光景がせり上がってくる。

 

 「地平線の彼方に、また別の大地が広がっている」
 という感覚だ。

 

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 2018年に開かれた『ロシア絵画の至宝展』(東京富士美術館)で、18世紀以降のロシア美術の風景画を観に行ったとき、その展示スペースに、同時代のヨーロッパ絵画とはまったく異なる空間造形が広がっているのを見て、その圧倒的な光景に驚嘆したことがある。

 

 この大地の壮大な “奥行き感” こそ、「大ロシア」の感覚、すなわち「ユーラシア主義」といわれる世界観の反映であると思わざるをえない。

 

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 ロシア人の意識の底には、合理性の及ばない領域が潜んでいる。
 ロシア絵画やロシア文学には、それを示す作品が多々ある。

 

 しかし、そういうロシア人の感性を、プーチンがいつまでも利用できるはずはない。

 

 ロシアの思想やアートには、基本的に「愛」が備わっている。
 しかし、プーチンが今人々に示しているのは、残虐性を嘘で塗り固めた虚偽の「栄光」に過ぎない。
 ロシア芸術が示してきた「愛」は一かけらもない。

 

 そもそも、21世紀のハイブリッド戦の時代になっても、プーチンの戦いは相変わらず大砲を打ちながら陸軍が行進するという18世紀・19世紀型の戦闘だ。
 そういう戦争しかイメージできなかったところに、プーチンの限界があった。 

 

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 やがて、プーチンが失脚する日が訪れるだろう。

 

 日本のYOU TUBERのなかには、「プーチンは失脚しない」と言い切って、西側諸国の底の浅さをあざ笑う人たちもいる。

 

 しかし、そういう人は(仮にその観測が正しくても)、大切なことを見逃している。
 プーチン個人が胸のなかに抱えている人間に対する残虐性を批判する目を失っている。

 

 だから、プーチンの失脚は必ず来る。
 今すぐではないかもしれないが。

 

 


  

 

 

 

 

 

高田純次になりたい

 

 あなたには憧れのシニアタレントって、いる?  
 たとえばさぁ、「年取ったら、こんな人間になってみたい」というような人とかさぁ。
 そういう人、いる?

 

 俺の場合は、高田純次。 
 いま75歳だよね、この人は

 

 で、俺も75歳になったときには、高田純次みたいに、「いつも人をおちょくっている老人になりたい」と思っているわけ。   

 

 相手をおちょくって、嫌味いって、からかって。
 それなのに、からかわれた人間からまったく恨まれず、むしろ喜んでもらえるというのが、この高田純次の才能というか人柄だよな。

 

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 もう5年ほど前のこと。
 「肺高血圧症」の手術のために病院に入院したときがあったの。
 その間、2ヶ月。
 ヒマだから、ベッドの上にあぐらかいて、ずっとテレビを観ていたわけ。

 

 お気に入りは、朝の10時からテレビ朝日で放映される高田純次の『じゅん散歩』。

 

 今じゃこの時間帯の看板番組みたいになっているけど、俺が入院していたときはさ、ちょうどそれが始まった頃だったのよ。

 

 もともとこの散歩番組は、地井武男氏が出演していたのかな。
 タイトルは『ちい散歩』だった。

 

 次が加山雄三
 『若大将のゆうゆう散歩』とかいうタイトルがついていたと思う。

 

 いずれも関東ローカルの番組で、地井氏も若大将も、東京、神奈川、埼玉のような首都圏の商店街を歩き、ぶらっと立ち寄った店の主人と短い交流をするという、まぁ、どちらかという地味な番組だったんだよな。

 

 それが、高田純次に代わってから、にわかに “お笑い番組” の様相を呈するようになったわけ。
 立ち寄った店ごとに、奥から出てきた主人にかます高田純次の一言がきつい !

 

 たとえば、ぶらっと入る店のドアを叩くときの挨拶。
 「こんにちわぁ、ちょっと入っていい? 怪しい者ですが」

 

 ま、これは定番の言葉なんだけど、出た来た主人が年配女性の場合は、


 「まぁ、可愛い女の子。お母さんいる?」

 

 で、店の主人が中年男性の場合。 
 「この店、いかにも古そうですけど、ご主人は何代目?」
 「私は2代目です」
 「あ、そう。2代目って、たいてい先代の店をつぶしちゃうんだよね」

  
 街中で、向こうから4~5人のオバサンが歩いてきたときは、 
 「おぉ、久しぶりに女子大生の群れに会ったな。あなたたち、どこから来たの?」 

 

 オバサンたちが笑いながら、
 「あそこの保育園から来たんです」と答える。
 すると、じゅんちゃん、
 「じゃ児童の方々?」

 

 商店街の裏道に、手押しポンプの井戸があると、すかさずそのポンプを押してみて、
 「井戸ってのはね、水が出ても出なくても、こうするもんなんですよ」
 と、いたずらしながら通り過ぎる。

 

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 たまに東京近県を離れて、地方に行くこともある。 
 三重県伊勢神宮がロケ先だったときだ。

 

 高田氏、茶店で旅行中の女子二人組に話しかける。
 「あなたたち、どこから来たの?」
 「三重です」 
 「目は二重だけどね」

 

 テレ朝のアナウンサー室を訪ねたとき。
 社員たちのデスクが並ぶ室内にズカズカと入り、いきなり一人の女子社員に声をかける。
 「あなたは独身?」 
 「はい。そうです」
 「じゃ、この部屋にいる男性社員のなかで、あなたがいま旦那さん候補として狙っている男はどれ?」


 散歩中、たまに、高田純次を知っているオバサンとすれ違うこともある。
 「あ~ら高田さん。いやぁ、本物だわ」 
 「どうです? ナマ高田は?」 
 「やっぱり本物の方がいいですね(笑)」
 「え、なんて言ったの? 最近耳が遠くなっちゃって」
 「本物の方がいい(笑)」
 「そう ! 抱かれたいくらい?」

 

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 その口ぶりの軽さ、いい加減さ、無責任さ。 
 5~6歳ぐらいの悪童のいたずらを、枯れた老人の表情でやってのける。  

 なんという自由人! 

 

 観ていると、ほんとうにこういう老人になりたいと思うのだ。

 

 

 だから入院していたときに『じゅん散歩』を観ると、病棟にいる看護師さんたちに話しかける言葉が少し変わってしまった。


 「町田さん、採血の時間です。今日は全部で4本取ります」 
 「あなたなら、さらにもう1本余分に取ってもいいよ。後で飲んでみて。おいしいから」

 (ワシの本名は町田である)

 「町田さん、これから心電図の検査です。検査室までは車椅子で行きますね」
 「ついでに家まで送ってくれる?」

 

 まぁ、こんなヨタを言っても、相手に好かれるようになるには、俺の場合はまだ修業が足りなかったけどな。

 

 でも、今後の目標はいちおう高田純次 ということで。

    

 

言葉にならないもの(柄谷行人について)

  

 柄谷行人(からたに・こうじん)という批評家の本について、以前にも書いたことがあったが、そのなかの『意味という病』(1975年)という本をもう一度取り上げてみたい。

 

 

 この著作は、シェークスピアの『マクベス』を論じた「意味に憑かれた人間」を中心に構成された評論集だが、ほぼ同時期に書かれた文学論を包括的に収録しており、哲学的・思想的な傾向を強めた後の著作群と比較すると、かなり文芸的な香りを強く放っている。

 

 それゆえに “文学好き” には分かりやすい部分も多く、かつ文体も爽やかでみずみずしい。
 そのため、発行から50年近く経っているにもかかわらず、いまだに私が気に入った評論集の一つになっている。

 

 そのなかに、次のようなくだりがある。


  
  「 …… 自分をうまく説明できない人に代わって、その説明できない部分を説明してやっているような文章が横行していますが、書く方にも読む方にも、言葉では掬い(すくい)きれないものへの自覚がなければ、言葉は力を持たないでしょう」


  
  これは、柄谷自身の言葉ではなく、柄谷が小説家の古山高麗雄のエッセイの一文を引用したものだ。

 

  この引用文を紹介した評論「人間的なもの」の中で、柄谷自身はこういう。


  
  「(言葉では)表現できない不透明な部分が人間の行為にはつきまとっている。
 ジャーナリズムは(世間を騒がす奇々怪々な事件を論評するとき)奇怪なものを “奇怪なもの” として受けとめずに、何か別のもの …… たとえば心理学とか社会学の言葉を借りて安心しているようにみえる。
 (しかし)そういう態度は傲慢だ。それは、自分の理解しうるものの領域の外に一歩も出ないということであり、結局、新しい現実を古い経験の枠に押し込んで安心しているだけだ」 
  


  この文が書かれたのは昭和48年(1973年)である。
  だから、ここで言われる「奇々怪々な事件」というのは、連合赤軍浅間山荘事件とか、その前の年の大久保清による連続女性殺人事件、さらにその前年の三島由紀夫の割腹自殺事件などが想定されているように思える。


  
  しかし、柄谷行人が指摘する「奇怪なものを自分たちの理解できる形に翻訳して安心してしまう」という私たちの態度は、令和4年(2022年)の現在においても、一向に変わっていない。


  むしろ、当時よりも、この傾向は強まっているようにも感じる。

 

 たとえば、自己啓発本
 本屋の店頭に並んでいる自己啓発本のたぐいを一冊でも取り上げてみると、ほとんどの本が「奇怪なもの」から目を背けて書かれていることが分かる。


  
 それらの本で解明される “人間心理” は、ほとんど社会学か心理学、ないしは脳科学の概念を導入にしたものばかりだ。

 

  つまり、それらの本の著者たちが、結局「世界」というものを、社会学や心理学、あるいは脳科学のフィルターを通してしか見ていないということを意味する。
  
  そのような世界観で「世界」をまとめてしまえば、「世界」はすべて「了解可能」なものにとどまるだけである。
  そこで失われるのは「人間存在」の手触りである。

   

 
 私は、簡単に「答を出そうとする」すべてのものに、不信感を持っている。
 答を導きだすよりも、むしろ、出された答の前に立ちはだかっていた「謎」の方が美しいということは、この世によくあることだ。

 

 

 柄谷行人の著作は、すべて「謎」を「謎」として向き合うことの魅力を説いている。   

 彼はどんな文芸評論をこなすときも、自分の気に行った本を語るときには、かならずその本のなかに、「謎」を発見する。
 それが、文章の深みを引き寄せる。

 

 そもそも、文章の深みというのは、いったいどこからくるのか?

 

 それは、言葉で説明できない何かを、社会学や心理学などの助けを借りて説明することを避けつつ、不断にそれを追い求めていくという緊張感から生まれてくる。

 

 

 柄谷行人は、古井由吉の『先導獣の話』という作品から引用した文章で、このように書いている。(『意味という病』 「小説の方法的懐疑」)
  
  「あまりにも合理的なものは、ある時、そっくりそのまま非合理的なものである」
  
  彼は、その後に、こう書く。
  「古井氏は、人間の人格・心理・思想といったあいまいなものを少しも信じていない」 。
  
  そして、このような認識の根底にあるものは、「意味の体系」の否認である、と続ける。

 

 「意味の体系の否認」とは、我々が常に自分の心の拠りどころとして引き寄せようとする「常識」とか、「社会通念」などと呼ばれるものの総称だ。
 それに頼っているかぎり、何かあったとき、自分を安心させることはできても、物事の真実を突き詰めようとする意欲も熱意も浮かんでこない。

 

 

 それにしても、  
 「あまりにも合理的なものは、ある時、そっくりそのまま非合理的である」
 とは、またなんと素敵なフレーズであろうか!

 

 この言葉を逆から眺めれば、
 「非合理的なものでも、みんなが承認してしまえば、合理的なものになる」
 ということだ。
 

 
  実は、近代の歴史は、常にそのようにつくられてきた。
 

 
 現在、我々が直面している社会のさまざまな問題も、本当のことをいえば、どうしようもない不条理に満ちているはずなのだ。

 

 しかし、テレビや新聞、あるいはYOUTUBESNSで拡散していくニュースは、みなその不条理の根底まで掘り起こすことなく、現在流布している「常識」の範囲で説明しようとする。

 

 そこで明るみに出るのは「真実」ではなく、ただの「更新された情報」にすぎない。

 

 近代社会というものが、そういう構造の上に成り立ってきたということは、「近代文学」もまた、結局は、世間的に流布している「社会学」、「心理学」、「脳科学」でしか説明できない範囲で結着をつけようとしてきたということなのだ。
  


 私たちに「真実」に迫る方法があるとしたら、答はひとつ。
 「言葉にならないもの」を探し求めていくしかない。

 

 言葉にできないものの “手触り” 。そして、それを言葉にしたいと思っても、それができない時のもどかしさ。

 

  たぶん、それを手放してしまったら、小説家も、評論家も、Jポップの作詞家も、マニュアルライターも、物書きとしての生命は終わる。

 

 柄谷の著作は、いつもそのことを教えてくれる。
  

  


オウム真理教とは何だったのか? (2)

  
※ 前回のブログ (2022年3月24日)の続き


   
オウムの教義は資本主義のメカニズムをなぞった

 

 オウムの元信者たちのインタビューで構成された『約束された場所で』(1998年刊)という本で、著者の村上春樹は、オウム信者たちの奇妙な平板さに貫かれた精神に違和感を抱いたと語っている。

 

 

 そのくだりを読んで、私は、オウム真理教の教えというのは、現代の資本主義社会の精神を巧妙になぞっているような気がした。
  
  つまり、資本主義は、あらゆる広告展開やメディア戦略を通じて、消費者の価値観の単一化を進めてきた。
 その結果、20世紀の世界においては、商品の大量販売がようやく実現することになった。

 

 もちろん、そのような社会に否定的な感情を抱く人も出てくる。

 

 「資本主義社会では、モノの価値ばかりが優先されて、人間の魂の問題が貧弱になっているのではないか?」
 そう考える人が出てくるのも当然である。


 
 オウムの教義はそのところを巧みに突いた。

 つまり、オウムの説法は、表面的には、資本主義の負の部分 すなわち格差社会の増大、利己主義の蔓延などに異を唱え、倫理的な正義感を煽るような形でスタートした。

 

 一部の若者たちは、そういう資本主義の “悪” からの解脱を求めてオウムに吸い寄せられ、煩悩の元となる個人の私有物をまったく持たない出家生活に飛び込んでいった。

 

 しかし、実は、そういうオウム信者たちの心理こそ、資本主義マーケットの展開によって “刷り込まれた” 「単一の価値観に染まった人たちの思考」だったと言わざるを得ない。

 

 どういうことか?

 

 資本主義世界におけるマーケットを形成するには、まず消費者の心を巧妙にくすぐる商品開発と、その感性をわしづかみにする美辞麗句に満ちたキャッチが必要になる。

 

 それは、消費者の判断力が働かないうちに商品にシンパシーを抱かせる一種のマインドコントロールともいえるものだ。

 

 オウムの教義は、このような資本主義マーケットを成立させたマインドコントロールの手法を、宗教的な装いでくるんで徹底させたといってもいい。

 

 だから、こうも言える。


 オウムの教義は、「大量生産・大量消費」を達成した1970~80年代の日本の資本主義のメカニズムを踏襲する形で登場したのだ。
 
 オウム入信者がたくさん生まれた1980年代というのは、日本の消費社会が爛熟期を迎えた時代だった。
 その時代に青春を過ごした若者たちは、洗練された商品広告に浸りきることで、時代の先端をゆく快感も知った。

 

 しかし、その快感は、90年代に入ってヒタヒタと忍び寄ってきたバブル崩壊の予感によって崩されていった。

 

 バブル崩壊期に、若者たちの心に影を落としたのは、「豊かな社会が終わろうとしている」という終末的な気分だった。

 

 その不安感は、今の時代と比べ物にならないくらい強かったに違いない。
 事実、「世界の終わり」を予言した『ノストラダムスの大予言』という本は、1998年の発行部数において、空前絶後の209万部を誇った。
  

   
「世界の終わり」とは、ゲームでいうリセット

 

 『ノストラダムスの大予言』では、1999年の7月に空から「恐怖の大魔王」が降ってきて、世界は滅亡すると説かれており、マジに信じ込んでいた小学生が多かったとも伝えられている。
 
  高校生ぐらいの女子の間でも、
 「処女のまま死ぬのは嫌だから、世界が滅亡する前に、セックスだけは経験しておこうね」
 などという会話が真面目に交わされていたという話も聞く。

 

 ノストラダムスという440年も前の預言者の言葉を、現代社会に当てはめること自体に飛躍があるが、メディアがシャワーのように垂れ流す「単一思考」に慣れた人たちにとっては、それは「飛躍」ではなく、きわめて自然な現状認識であったかもしれない。

 

 実際に、オウム入信者は、このノストラダムスの予言と照合する形で、麻原彰晃の唱える「ハルマゲドン(最終戦争)」説に素直に感応している。
 それは、ゲームでいう “リセット” の感覚だったのだろう。

 

 もし、オウム信者の精神を「異常」だというのなら、それはその時代の社会の価値観そのものが異常だったのかもしれない。

 

「異常」は資本主義世界では大きな “価値” である
 
 
 考えるべきことは、資本主義社会にとって、「異常」はけっしてマイナスではないということだ。


  「異常」であることは、「正常な価値観」からの異質性を強調し、消費者の注目を集めるために必要不可欠の要素となる。

 

 「異常」は、「ヤバイ」の同義語なのだ。
 その言葉には恐怖、嫌悪、共感、憧れ、讃嘆が同居している。

 

 つまり、「異常」こそが、商品がバズるときの必要不可欠な要素といっていい。

 

 資本主義マーケットにおいては、すべての新商品は、“異常なもの” として注目されることによって、人々にはじめて認知される。

 

  我々が、その思考に慣れている限り、いつでもすぐそばに “オウムの誘惑” が待っている。
   

    

 

オウム真理教とは何だったのか? (1)


村上春樹オウム信者の対談

  
 27年前、オウム真理教という宗教が当時の若者たちを惹きつけた理由は何だったのか。

 

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 小説家の村上春樹は、オウムの元信者たちにインタビューした『約束された場所で』(1998年刊 写真上)という書物で、オウムに関わった人々の精神風景を浮かび上がらせようとした。

 

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  その本の中で、印象的なエピソードがあった。

 

 「狩野浩之(かの・ひろゆき)」という名前で登場する元オウム信者の話である。
 1965年生まれの男性で、村上春樹が彼を取材したときは30代半ばだったという。

 

 この狩野氏は、とにかく幼い頃から頭脳が鋭敏に回り、大人たちと議論しても負けたことがなかったそうだ。

 

  しかし、読書は苦手だったという。
  「本を読んでいると、著者のいろんなアラがすぐに見えてくるんです。特に哲学書などは、偉い先生が『自分はこれだけ知性が高い』ということを示すために書かれているような気がして、すぐに嫌気がさしてくるんです」

 

 しかし、彼は、スウェデンボルグという心霊学者の本だけは高く評価した。

 

 「スウェデンボルグは50歳を境に急に霊能者になり、死後の世界に対してものすごい量の記述を残した人ですが、その論理の鋭さには感心しました」

 

 つまり、心霊研究のような実証的な科学とは相いれないものであっても、それを叙述する “理屈” に整合性があれば信頼するに足る、と狩野氏はいうのだ。

   
 その狩野氏が最後にたどりついたのが、オウム真理教を創設した麻原彰晃の言葉だった。

 

 このとき、狩野氏は次のようなことを考えていたという。

 

 「形あるものはいつか壊れる。人間も同じ。必ず最後に死が来る。すべてのものが真っ直ぐに破滅に向かっている。
 言い換えれば、“破滅” こそが宇宙の法則。
 オウム真理教で説かれる仏教の根本的な無常観というのは、私が考えていた宇宙の破滅の法則と同じものだった。
  しかし、他の仏教の本は、内容が直接的ではなかった。自分が知りたい部分までたどり着けないという感じだった」

 

 その点、オウムの説く “仏教” は、クリアな言葉で、ストレートに破滅に向かう宇宙の法則を説き明かしていた、と狩野氏はいうのだ。

 

 それを聞いた村上春樹は、さすがにたまりかねて、次のような発言をしている。


  「(他の仏教書や哲学書があいまいな部分を持っているとしても)、世の中の人々が送っている人生の大部分は、測定できない雑多なもので成り立っているんですよ。それを根こそぎ測定可能なものに変えていくというのは、おかしいのではないですか?」

 

 しかし、村上春樹にそう突っ込まれた狩野氏は、村上の言葉をさえぎって、こう言う。

 

 「オウムには、どんな疑問に対してもすべて答が用意されていた。(人間が生きていくうえで抱えるあいまいなものに対して)、すべて明瞭な答が返ってくる。
  だから私は、(今は)仏教を数値で説明する方法を考えている」

 

 チベット密教ヒンズー教、さらにはキリスト教的な要素が錯綜しているオウムの教義が、はたして「仏教」と言い切れるかどうかは疑問だが、少なくともその信者たちには、その異端性がゆえに、まったく新しい境涯に自分を誘導してくれるものとして映ったのだろう。

 

 村上春樹のインタビューに答えて、狩野氏が「仏教を数値で説明する」と言ったのも、「既成の仏教はそれをしてこなかったから」という思い込みがあってのことである。

 

 オウムの教えを外から眺める私たちは、ともすれば、信者たちが怪しげな神秘体験に感応したと考えがちだが、この狩野氏がいうように、彼らは、自らが経験した神秘体験には合理的な根拠があると信じていたようだ。

 

 実はそれらの神秘体験こそ、薬物を使ったり、巧妙な洗脳技術による生理的な脳内変化に過ぎないのだが、オウムの教義にはそれを論理化する罠が仕掛けられていたといえるだろう。
  
  
人間の心は「数値」で解明できるのか?

 

 とにかく、狩野氏が言い切った「仏教を数値で説明する」という発言に、オウムに何かを求めた若者たちの一つの具体像を読み取ることができる。

 

 「仏教を数値で説明する」
 というのは、すなわち理詰めでものを考えるということだ。

 

  それは、科学的合理性を追求する手法として広く認められているものだが、そこに落とし穴がある。
  人間の心の問題は数値化できないからだ。

 

 喜怒哀楽の感情が起こったときに、人間の脳のどの部位が刺激されているかということは解ったとしても、喜怒哀楽というのは複合的なものだから、哀しみのなかに解放感があったり、歓喜の頂点で虚脱感が訪れたりする不思議さを説き明かせない。



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 なぜなら、コンピューターと違って、人間の脳は一つの行動をしながらも、それとは関係ないさまざまな情報処理を同時並行的にこなす能力を持っており、単一な思考として取り出すことは不可能だからだ。

 

  「心」とは、この複合的な脳の情報処理を総体的に表現したもので、そのほとんどは無意識の領域に属する。(人間は、このような高度な情報処理能力を手に入れるのに、340万年かけている)。

 

 しかし、狩野氏は、そのような人間の “心” の成立過程を無視して、「心」は数値化できるし、「宗教」もまた数値に置き換えることが可能だと言い切る。

 

 このようなオウム側にいた人々を何人か観察した後に、村上春樹は、巻末に収録された精神科医河合隼雄(写真下)との対談で、こう語っている。

 

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 「(オウムの信者たちと話していると)、宗教的な話になったときに、彼らの言葉に広がりというものがないことに気づいた。それはなぜなのだろうと、ずっと考えてきた。


  つまり、オウムの人たちは、口では『別の世界』を希求しているにもかかわらず、彼らの考える世界というのは、奇妙に単一で平板である。あるところから広がりが止まってしまっているように思えた」

 

 その例として、村上は、教祖の麻原彰晃に代わってマスコミとの質疑応答をこなした上祐史浩(じょうゆう・ふみひろ 写真下)に対する印象を、こう述べる。

 

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 「(上祐という人は)非常に巧妙なレトリックを駆使して論陣を張る。しかし、彼が言っているのは、ひとつの限定された言語空間の中だけで通用する理屈でしかない。その先までに、まったく広がらない。
  だから、当然ながら人の心には届かない。 でも、(彼の議論の)相手は彼を言い負かすことができない。(彼の議論には)深みがなく、なんか変だと思っても、有効に反論できない。
  そのことをオウムの人たちに聞くと、『上祐さんみたいに頭の良い人はいないからだ』と、みんな言う」

 

 このエピソードにおいても、オウムにいた人々は、世の声には耳を閉ざしながら、教団内で信頼できると思った人のレトリックだけはしっかり信じていた様子が伝わってくる。

 

 村上春樹のこの観察を受けて、河合隼雄は答える。

 

 「(オウムに関わった人々も)、やはり最初は『世の中がなんか変だ』と疑問を持ってオウムに入ったわけですが、その『何か変だ』という疑問も、教団の中に入ると、『それはカルマ(業)のせいだ』という一言で、きれいに説明されてしまうんです。
 しかし、一言で説明がつく論理などというものは、絶対にダメなんです」

 

 河合隼雄は、そこで文学やアートの力というものに言及する。
 要は、文学やアートというものは、「この世が一言で説明できないもので成り立っている」ことと教えてくれるものだという。

 

 特に小説ともなれば、その人の教育レベル、生活環境、交友関係などといった後天的な体験の積み重ねによって、哲学のようにも読めるし、社会学のようにも読めるし、恋愛論のようにも読める。

 

  そのように、読者が求めるものによって内容が変化することを、もし「あいまいだ」というのならば、人間そのものが、本来あいまいな存在なのだ、と河合はいう。

 

 

“あいまいなもの” の価値

 

 そもそも、文学やアートに「あいまいなもの」を感じるということは、それに接している読者や鑑賞者の頭脳が “思考中” だからである。

 

 どんな人間も、思考中であるときは、あいまいな気分にならざるを得ない。

 

 しかし、その「あいまいさ」との格闘に費やしたエネルギーが、その人の思考力を鍛え、自分にとっての「真実」を見つけ出す力をつちかう。

 

 だから、そのようなプロセスを経ずして、いきなり回答が与えられたならば、その段階で、思考する人間の脳活動は停止する。

 

  オウムの人たちが、教祖の言葉を聞いて即座に「解った!」と思わず膝を打つようなクリーンな回答を得たと思えたのは、実は、彼らの脳活動が停止してしまったからである。

 

 そういった意味で、オウム側にいた人々のインタビュー集が、「本を読むのが苦手だった」と告白する人(狩野氏の例)から始まるのは象徴的だ。

 

 理解力は備わっていても、読書によって鍛えられたことのない脳は、シンプルで力強い論理に簡単に染色されてしまう。

 

 元オウム信者の狩野氏の例は、まさにそのことを語っている。
 おそらく村上春樹も、そのことを意識してこの人の話を冒頭に持ってきたに違いない。

  

※ この稿続く

 

 


 

オウムのチープな教義を笑えるか?

 
 「地下鉄サリン事件」が起こって、27年経った。

 

 といっても、若い世代では事件そのものを知らない人も多いかもしれない。

 

 1995年(平成7年)3月20日
 東京メトロの地下鉄車両内で発生した同時多発テロで、宗教団体のオウム真理教が地下鉄車両に神経ガスサリンを散布。
 乗客及び乗務員、係員、被害者の救助にあたった約6300人の人が被害を受け、14人が亡くなった。

 

 その後警視庁は、この事件がオウム真理教麻原彰晃 教祖)によってなされたと断定。
 教団施設に強制捜査が実施され、事件への関与が判明した教団の幹部クラスの信者が逮捕された。
 

 
 この事件が衝撃的だったのは、信者の幹部クラスがのきなみ高学歴で、それぞれの職場で成績優秀。医師や技術者として日本の将来を嘱望された人間ばかりだったことだ。

 

 そういうエリートたちが、なぜ教祖の指示に従い、テロリストとして殺人を犯すようになったのか?

 

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 事件後、作家の宮部みゆき氏は、ある雑誌のインタビューでこんなことを述懐している。
 
 「オウム事件は、私にとってすごくショックでした。というのは、ああいうカルトに若い人が吸収されてしまったことが
 フタを開けてみれば、教義の内容は悲しいほどチープな物語でした。
 そんなものに私たちプロの物語作家が束になっても勝てなかったということが、ものすごく悔しい。
 (中略)どうして、あんな教団の中身に説得力があったのだろうか。二度とああいうことを繰り返さないために、(ずーっとそのテーマを追うような形で小説を書いている)」
 

 
 この発言には、確かにうなづける部分があると思った。
 しかし、私は、なにか肝心のことが見落とされているような気もした。
 
 まず「悲しいほどチープな物語」という言葉。 
 
 作家という知的な職業にいる彼女にとっては、オウムの教義は “悲しいほどチープな物語” に見えたのだろう。
 事実、私にもそう感じる部分がある。
 
 しかし、もし彼らの「物語(= 教義)」が、大学の講堂で教えられる宗教哲学のような深遠な言葉で占められていたら、あの教団があれほどの信者を獲得することができただろうか。
 
 たぶん、哲学書じみたアカデミックな論法で説かれた教義であったなら、当時の若者の心をあれほど捉えることもなかっただろう、と私は思う。
 宮部みゆき氏のいう「チープな物語」だからこそ、逆に、それを可能にしたのだ。
 
 では、そのチープ感の正体とは何か?
 
 実は、私の手元に一冊の小冊子がある。
 『VAJRAYANA SACCA』というタイトルが付いている。
 「ヴァジラヤーナ・サッチャ」と読むらしい。
 地下鉄サリン事件の首謀者がオウムであると言われた出したことに対し、警察やマスコミに対する彼らの “抗弁” をまとめた冊子である。
 

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 これを私は、通勤に使う駅前の歩道で手に入れた。
 オウムの修行服と思える白い着物を着た若い女性が配っていたと思う。
 他の通行人は、それを汚らわしいとばかりに無視して通り過ぎていたが、私は好奇心に駆られて、手を伸ばした。
 
 いつ頃発行されたものか。
 冊子に日付がないのでよく分からないが、表紙を一枚めくったところ(表2)に、
 「1995年3月22日、戦後最大の宗教弾圧が幕を開けた」
 というキャッチが謳われていることからして、彼らの宗教施設に強制捜査が入るというウワサが流れ始めた頃にまとめられたものだろう。
 
 安い紙を使ってモノクロだけで仕上げたチープなつくりだが、コンセプトはなかなかはっきりしている。

 
 サブカルチャー路線なのである。


 いわゆる宗教啓蒙誌にありがちな、明らかに「向こう側に行った人が作っています」的な “あの世感覚” がない。

  
 かつての『ポパイ』、『ホットドッグプレス』のような青年向け情報誌に、『噂の真相』が持っていた過激なスキャンダラス性を混ぜたようなつくりになっている。

 表2には、防毒マスクをした機動隊たちがみなオウムの雑誌を手にしている合成写真が使われ、1人の機動隊が「みんな読んだか?」と命令しているジョークが盛られている。

 

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▲  誌面の作り方が若者の娯楽情報誌風 

 

 この “サブカルチャー的なチープ感” にこそ、オウム真理教が、当時の一部の若者の好奇心を集めた秘密が隠されているのではないかという気がするのだ。
 
 プロパガンダとしては、とてつもなくご都合主義的でお手軽。
 しかし、そのチープさこそが、既成の宗教的権威や、既成のアカデミズムや、既成のメディアへのカウンターパンチとして機能しているようにも思えた。

 

 そこには、金儲け主義と現世的快楽に満ちたこの世をぬくぬくと生きている大人たちの醜さには耐えられないと感じる(当時の)青年たちと “同じ高さの目線” が存在していた。
 
 実際には、このオウム真理教という教団は麻原彰晃という独裁的な教祖が意のままに教団を操る閉塞的な組織ではあったが、少なくとも、好奇心に駆られて、入口から奥を覗いてみようと思う人間から見ると、
 「このチープさなら、自分が劣等感を感じなくてすむかもしれない」
  という “お気楽さ” の罠が仕掛けられていることが分かる。
 


 だが、「チープな罠」はそれだけではない。
 実は、チープであることそのものが「人の心を動かす」ことだってある。
 
 小説家の宮部みゆき氏は、
 「プロの作家が束になっても、オウムのチープな教義にかなわなかった」
 と述べるが、すべての人間が、宮部氏らの書く小説に想像力を刺激されるような訓練を受けているとは限らない。
 人間は、自分の想像力の及ぶ範囲を超えたものには、心を動かされない。

  
 人間の心が刺激を受けるのは、高踏的な趣味の小説よりも、案外、友だちから下校時にそっと耳打ちされた都市伝説のようなものだったりする。
 
 マスクを取ったら口が耳まで裂けていた女の話。
 誰もいないはずのトイレで、そっと自分の名を呼ぶ声。
 
 それらは、すべて “身体的感覚” である。
 脳を介して整理される刺激ではなく、皮膚から直接心臓を貫いてくる刺激である。
 
 チープなものとは、実は、この身体的感覚を呼びさますもののことをいう。
 
 そして、チープなものが、ある個人にとっては経験したこともないような身体感覚と結びついたとき、その個人には、高級な哲学など及びもつかないほどの「世界観」が降臨する。

 

 オウムは、まさにこの身体的感覚を教宣の根幹に据えた。

 ヨガや薬物による心身の変容。
 それを「修行」という反復行動と結びつけて強固なものにしていくメンタル操作。

  
 教団は、徹底的に「チープさ」を戦略的に使いこなした。
 
 「ヘッドギア」(写真下)と呼ばれる単なる電流が流れるようにした布製の被り物が、「教祖の脳波を再現する」ものとして信者の必需品となったのも、実用性を確かめようとする気力さえ萎えてしまうようなそのチープ感が、逆に、そこに飛び込んでいく信者の決意を固める力になったからではないかと思う。

 

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 既存の聖書や仏典など、ある程度練り上げられた経典は、その情報内容の豊かさにおいて、解釈の多様性をはらむし、受け取る人間に選択の幅を与える。


 
 しかし、チープなものには選択の余地がない。
 丸ごと拒否するか、その全部を受け入れるかのどちらかしかない。
 丸ごと受け入れた場合は、もう全面的に信じこむしか進むべき道はないのだ。

 

 オウムの経典が巧妙なのは、その教義にうさん臭さを感じる人間に対しては、意外とロジカルな分析も用意していたことだ。

 
 たとえば、その小冊子を読むと、

 

 「日本経済が貧しくなってきたのは、国際石油資本(その大半が大財閥ロスチャイルドやロックフェラーの系列)を通してエネルギーを買わなければならないからで、そのような多国籍企業の戦略に従属している限り、日本が政治的・経済的に自立することはあり得ない」 
 などと説教したあと、話を転じて、
 「したがって、農業でも工業でも、これからは自給自足の精神が尊ばれなければならず、自分たちで作ったものを備蓄して、将来戦争などが起こり、食料封鎖や資源封鎖が行われたときにも耐えぬく力を養っていかねばならない」
 などと説く。
  
 それらの主張は「エコ」にも通じ、災害への「備え」を語っているようにも思える。

 

 つまり、これらの言説は、現在もどこかで流通していそうなことばかりなのだ。
 
 どの時代にも通用するような凡庸な、  ということは庶民の日常感覚に深く根ざした政治・経済感覚に基づいた教義は、いとも簡単に一般的な共感を誘う。
 
 だから、「オウム事件」は終わったとしても、「オウムを呼び戻す環境」は20年以上経った今も、何ひとつ変わっていないともいえる。
 
 繰り返しになるが、オウムの教義を構成した「チープ」さは、形を変えて、今の日本にも蔓延しているかもしれないのだ。

 

 

ディープフェイクの時代

  

 ウクライナ危機がどういう解決を見せるのか。
 ロシア軍の侵攻が始まって1ヵ月ほど経った今も、いまだにその出口が見えない。
 
 停戦の話が進んでいるとも聞くが、ロシア軍の “時間稼ぎ” という見方もあり、悲惨な状況はまだまだ続きそうだ。

 

 いずれにせよ、このウクライナ問題に注視している人たちの多くは、
 「新しい戦争の時代」
 が始まったことを理解したのではなかろうか。


 戦車砲とミサイルが飛び交う実戦の場だけでなく、それと同じ勢いで、「ニセ情報」がぶつかり合うサイバー戦争が起こったことを知ったはずである。

 

 4~5日ほど前だったか、ウクライナのゼレンスキ―大統領がウクライナ市民に「ロシアへの投降」を呼びかけるニセ動画が出回った。
 AI が制作した “ディープフェイク” と呼ばれるもので、注意深く見ても、本物と分からないほどの精巧な作りだった。

 

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 この動画は、「しゃべっている内容がおかしい」ということで動画配信元が調査し、画像的にも不自然だということが分かって、即座に削除された。
 しかし、本物と比べて見ないと “ニセ画像” と判断することがきわめて難しい仕上がりだったという。

 

 最近、こういう報道が多い。

 

 BSで海外ニュースを見ていたとき、
 「ウクライナ軍が、殺傷能力の高いミサイルで親ロシア派のいる町を攻撃し、親ロシア派市民が20人ほど殺害された」
 というテロップの入った画像を見た。

 

 私は、ロシア軍だけでなく、ウクライナ軍もひどいことをしているのだ … と思い、憂鬱な気分になった。

 

 しかし、すぐにそれは、「ロシア側が仕組んだプロパガンダ戦略」だと知らされた。
 日本のニュースでも同じ情報が流されていて、「親ロシア派住民殺害」に使用されたロケットの破片が「ロシア製」であることが確認されたという。

 

 この手のフェイクニュースは日増しに増えている。
 たいていの出どころはロシアだと言われているが、おそらくウクライナや西側諸国が流したフェイクニュースもかなりあるだろう。


 何を信じていいのか分からない時代になった。

 

 ウクライナから遠く離れた日本でも、YOU TUBEを中心に、プーチンを擁護する情報が多く出回っている。

 その大半は、
 「アメリカには “ディープステート” という悪の組織が存在し、実は、プーチンはそれと戦っているのだ」
 と主張している。

  
 どこの誰が言い出したのかは知らないが、これは「陰謀論」である。
 
 問題は、こういう陰謀論に刺激されて、日本のネットでも、
 「本当に悪いのは、プーチンよりも西側諸国だ」
 と訴える論調が勢いを見せていることだ。

 

 そのことの当否をここでは問わない。

 

 それよりも、こうしたフェイクニュースの洪水のなかで、いかにしたら自分の “目” を確立することが出来るかどうか。

 

 これについては、すでにたくさんの論評がネットでも出回っているが、「決定打」といえる対処法はない。
 
 私なりにひとついえることは、自分なりの “哲学” を持つことだと思う。
 
 「哲学」というのは、人間の情感を超えたところに “真理” があると洞察することである。
 つまり、感情をたやすく刺激してくるものには、むしろ疑問の目を向けることが大事だ。

 

 先ほどいった「陰謀論」の大半は、
 「アメリカの民主党政権は、実は、幼児性愛者の巣窟である」
 などという、人の感情をいやらしく煽るようなことをまことしやかに訴えてくる。
 
 一回だけ聞き流してしまえば、「なんかおかしい」と誰にでも分かりそうな内容だが、同じことが、公共電波やSNSを通じて繰り返し発信されると、どんなガセネタでも “真実” に思えてくる。

 

 今ロシアの国営放送がロシア国民に流している情報がまさにそれだ。

 ① ウクライナの政府は “ネオナチ” の極右政権である。
 ② 彼らは、東部に住んでいる親ロシア派住民を虐殺している。
 ③ ロシアは、彼らの命を守るために、軍事行動に踏み切った。

 

 プーチン大統領がロシア国民に訴えているのは、すべて捏造された “正義の戦い” である。


 そういうプロバガンダばかり毎日聞かされているロシア国民がどれだけ真相をつかめるのか。
 これは、案外難しい問題かもしれない。

 

 

掌編小説 『手を拾う』

  
 夜の歩道に、人の手が落ちていた。
 ひからびた枯葉のように縮こまりながら、それでも最後の力を振り絞って、その手が助けを呼んでいるように見えた。
 

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 近づくと、ただの手袋だった。
 風が舞って、手袋が揺れたのだ。
 
 ニットで編まれた、ありふれた手袋。
 近くに寄って真上から見下ろすと、もう息が絶えたのか、手は動かない。
 捨てられたことが悲しいのか、それとも運命を静かに受け入れたのか。
 動かない手は、何も語らない。

 
 
 この季節、こういう落とし物が多い。
 外気が暖かくなったことを感じたのか、それとも家路が近くなって仕舞おうとしたのか、持ち主が手袋を手からはぎ取り、コートのポケットにでも入れようとしたのだろう。
 
 が、入れたつもりの手袋は、こっそりとポケットからこぼれ出た。
 
 運よく落ちなかった相棒の手袋は、こぼれ落ちていく仲間の姿を、どんな気持ちで見つめていたのか。
 私は手袋になったことがないので、その心を想像することもできない。
 

 
 つまみあげると、手袋は馴れ馴れしい仕草で、新しい持ち主の手のひらにピタっと寄り添ってきた。
 
 前の持ち主は男だったのか、女だったのか。

 大きさから、それを推測することはできない。
 たぶん、女だったのだろう。
 根拠なく、私はそう思うことにした。
 

 
 自分のコートのポケットにそれを仕舞う。

 
 手のひらに握りしめた手袋が新しい主人を見つけたつもりになったのか、早くもヌクヌクとした温かみを伝えてくる。
 
 私は、手袋の意外な変わり身の早さに、多少とまどいを覚える。
 
∮ 
 
 家に着いて、私は机の上に手袋を放り出し、お湯を沸かしてコーヒーを入れた。
 CDプレイヤーのスイッチを入れ、Pharoah Sandersの 「Astral Travelling」 をかける。
 

 
 窓のカーテンを開ける。
 高層マンションの階段を照らす常夜灯が、人のいない通路を規則正しく浮かび上がらせている。
 

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 振り向くと、手袋は、まるでそこが自分の棲み家であったかのように、机の上にうずくまっている。

 私は、昔去っていった女が帰ってきたかのような気持ちになっている。


 
 「もう日本にいても、何も面白いことないから」
 女はそう言って、フラッと家を出て行った。
 
 女に帰る気持ちがなかったことを、私はプラハから届いた手紙を見てはじめて気づいた。


 ありふれた東欧の街角を写した絵葉書の裏には、ただ一言「ありがとう」と書かれていた。
  
 何が「ありがとう」なのか、いまだにその意味が分からない。
 

  
 「分からないの ?」
 手袋がくすっと笑ったような気がした。
  
 私は、コーヒーのカップにそっとブランデーを注ぐ。
 そして、その手袋を手にはめ、コーヒーカップを持ち上げてみる。
 
 「飲ませて」
 手袋がいう。
  
 私は、手袋をしたままの指を、そっとコーヒーカップの底に沈ませる。
   

 

プーチンのウクライナ侵攻は「気候変動」説で説明できる?

 

 
 ロシアのプーチン大統領は、なぜウクライナへの侵攻を始めたのか。

 

 それに関しては、
 ① プーチンNATOの東方拡大を恐れたから。
 ② 彼がロシア帝国の復活という野望をいだいたから。
 ③ ウクライナにいた親ロシア系住民を、ウクライナのネオナチ勢力が大量虐殺し始めたから。(それを食い止めるため)。

 

 世界のメディアでは、(フェイクニュースやプロバガンダを含め)いろいろな解析が飛び交っている。
 しかし、本当のことは、プーチン氏の心の中を読み解かないかぎり解らない、というのが今のところの共通した結論のようだ。

 

 しかし、この戦争は、「地球の気候変動」がもたらしたものである、ということを唱えた学者が出てきた。『人新世の「資本論」』を書いた斎藤幸平氏大阪市立大学大学院経済学研究科准教授)である。

 

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 斎藤氏が書いた同著は、マルクス資本論を現代的に解説した人気書籍であるが、その骨子は、マルクスの残した膨大なメモから、マルクスが地球の気候変動に関する危機的状況を伝えようとしていたところにある。

 

 そんな視点で「資本論」を読み直した斎藤氏によると、ロシアのウクライナ侵略も、また違った側面から見直す必要があるという。

 

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 AERAオンラインに、3月9日付で寄稿された記事によると、
 「プーチンウクライナに侵攻したいちばんの理由は、気候変動によってロシアの農業や工業が壊滅的な打撃を受ける前に、豊かなウクライナを手に入れて、ロシア経済の安定化を目指すところにあった」
 という。

 

 斎藤氏によると、
 「(地球の)気温上昇によって、干ばつや豪雨、山火事などが多発し、食糧や水といった、人間が必要とする最低限の生存条件が危うくなってきた。
 ロシアも例外ではなく、広大な領土の至るところに、気温上昇による非常事態が発生しつつある」

 

 具体的にいうと、
 「シベリアでは永久凍土が解け始め、山火事、洪水などの自然災害が多発する危機が高まり、トナカイの死骸から炭疽(たんそ)菌が広がったり、マンモスの死骸から未知のウイルスも発見されたりするようになった」

 

 ロシアにおける永久凍土の占める割合は、国土の65%にのぼる。
 永久凍土の融解が進むと、ロシア領内のかなりの土地で地盤沈下が発生する。

 

 当然、それはロシアの農業にも深刻なダメージを与える。
 農業面積が狭まるだけでなく、気温上昇による干ばつや水不足も発生する。

 

 現に、2010年にはロシア南部が干ばつに見舞われ、ロシアの小麦生産が大打撃を受けた。

 プーチンをはじめとする政権幹部は、ロシア領内の食糧危機をはじめとする気候変動の脅威を真剣に考えざるを得なくなってきた。

 

 しかし、自国の気候変動に対し、真剣に対応するほどの経済力と技術力がロシアにはない。
 欧米に比べ、この分野では、ロシアは圧倒的に後進国なのだ。
 
 そのため、ロシアは自国の経済力を維持するために、膨大な資源として管理していた石油と天然ガスをまず売りさばいて外貨を稼ごうとした。

 

 しかし、そこにロシアの悩みが生まれた。

 

 というのは、ロシアから化石燃料を輸入しているEU諸国では、地球の温暖化対策として、「脱炭素化」を目指す動きが活発になってきたことだ。

 

 そこでロシアは、EUの脱炭素化政策がしっかり固まる前に、石油と天然ガスを売り尽さなければならないという焦りを抱えることになった。

 

 そういう焦りが、一方では、自国の農業政策を見直す計画に拍車をかけた。

 

 自国の小麦生産が不安を抱えるようになったとき、ロシアは世界でも有数な小麦生産国が隣にあることに目を付けた。

 

 ウクライナである。

 

 ウクライナは、ロシアと並ぶ小麦輸出大国で、ロシアとウクライナの小麦生産量を合せると、全世界の3分の1(29%)に達する。
 さらにウクライナはトウモロコシの生産量も多い国で、ここを抑えれば、ロシア人の胃袋を保証するだけでなく、中国、中東、アフリカなどへの食糧輸出の目途もたつ。

 

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 ロシアのウクライナ侵攻ではやたら都市の攻撃が目立つが、ロシアにとって欲しいのは都市ではなく農業地帯なのだから、ウクライナ全土が小麦・トウモロコシ畑になってもかまわないのだ。

 

 以上は、斎藤幸平氏の分析に、若干私の解釈を混ぜたものだが、このように、ロシアのウクライナ侵攻を気候変動問題と、農業政策の観点から見直すという斎藤氏の作業はとても新鮮であった。

 

 日本のマスコミは、ともすれば、「プーチンロシア帝国再建の野望」とか、「NATOへの警戒心」、「ソ連を崩壊させた西側諸国への復讐」という政治的物語でこの問題を眺めようとするが、世の中はそんなに単純なものではないな ということを悟ったようにも思う。  

 

 

 

柄谷行人の初期文芸評論三部作

 

 自分の生き方にふと迷いが生じたり、思考が行き詰まったり、周りの状況が霧に包まれてきたように感じられたときは、必ず読み返す本がある。


 『畏怖する人間』(1972年)
 『意味という病』(1975年)
 『マルクスその可能性の中心』(1978年)
 の3冊だ。

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 著者はいずれも柄谷行人(からたに・こうじん)氏。
 初版が発表された年を付記したのは、すでに40年前に書かれたものが、いまだに私の頭脳と感性を鍛錬する指針になっていることに、自分自身が驚きを禁じ得ないからである。

 

 もちろん、これらの初版が世に出た1970年代、私は著者の名前を知りもしなかった。
 その時代、私が読んでいたのは、吉行淳之介の恋愛小説だったり、塩野七生の歴史物語だったり、つげ義春の漫画だったりした。

 

 柄谷行人を読みだしたのは、いずれも1980年以降。
 浅田彰の『構造と力』(1983年)が世に出て、現代思想ニューアカデミズム)ブームが沸き起こってからだ。

 

 柄谷行人はその時代に、浅田彰蓮実重彦中沢新一岸田秀栗本慎一郎山口昌男などと並んで脚光を浴びたいわゆる “ニューアカ系知識人” の一人だった。

 

 ただ、いきなり柄谷氏の著作に向かったわけではない。
 実際に読み始めたのは、上記の人々の著作を読んだ後だった。

 

 ニューアカブームの牽引者となった浅田彰の『構造と力』は、自分のお粗末な読解力では十分に咀嚼できなかったが、彼が流行らせた「リゾーム」、「ツリー」などといったフランス哲学経由のターミノロジーの新しさには幻惑された。 今は恥ずかしくて、そのような言葉をまったく使う気にならない。

 

 その時代、彼らのなかでも、分かりやすくて面白いと思えたのは栗本慎一郎岸田秀山口昌男の3氏だった。

 

 最初のうちは、この3人の書いたものに大いに啓発され、仕事として、栗本慎一郎氏には原稿を書いてもらったこともあるし、岸田秀氏と山口昌男氏には直接会ってインタビュー記事をまとめたこともある。
  
 だが、今それらの方々の著作を読み返すことはない。
 よくいえば、その方々の著作はすでに自分の体内に血肉化されており、思考回路の一部に組み込まれているからだ。


 あえて失礼な言い方をすれば、もうそこには何の発見もないからだ。

 

 ただ、柄谷行人の初期の作品だけは、読むたびに新しい刺激を汲み取ることができる。

 

 なぜかというと、氏のそれらの初期作品群には、人間を “人間” たらしめているものへの省察が無数に散りばめられているからだ。

 

 つまり、人間を「人間」にしているものは、実は、人間には知覚できないもの、人間に認識できないもの、人間が思考を働かせても近寄れないものなのだ、ということを示唆し続けている。

 

 言葉をかえていえば、柄谷氏は常に人間の意識、知覚、思考の磁力を離れた “外部の世界” を凝視しようとしてきたともいえる。

 

 氏は『畏怖する人間』において、主に夏目漱石の著作を通じて、漱石が日常的に感じていた実存的な不安の正体を見据えようとした。

 

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 『意味という病』では、シェークスピアの『マクベス』を採り上げ、主人公のマクベスが「運命」として受け入れようとしたものの正体を凝視した。

 

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 そして、『マルクスその可能性の中心』においては、マルクスの『資本論』を、従来の経済的分析から大胆に切り離し、文芸批評の視点を導入して、マルクスの価値形態論にメスを入れていく。

 

 その過程で、氏は、不可解な運動を繰り広げる「貨幣」という存在に魅せられていくマルクスに自分を重ね合わせ、貨幣がはらむ謎の “美しさ” に目を凝らす。

 

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 このように、本来なら哲学や経済学のテーマとして扱う分野のものを、文芸評論のスタイルで取り組んだ柄谷氏の初期3部作は、それ自体がすでに人を酔わせる “文芸” そのものであった。

 

 その文体は、乾いた抽象性をはらみ、ときとして鋭利な切れ味と優雅な反りを持つ日本刀の造形をイメージさせた。
 


 彼は、後に原理論的考察を深め、『隠喩としての建築』(1979年)、『原語・数・貨幣』(1983年)、『内省と遡行』(1985年)、『探求』(1986年)などといった一連の哲学的著作に力を入れていくようになる。

 

 しかし、それらにおいても、柄谷氏の目指すものは一貫していた。
 いわゆる “知識人” たちがものを考えるときに、その前提とする「合理的客観世界」というものの無根拠性が繰り返し説き続けた。

 

 人間の「情緒」とか「直感」というものは、あいまいであるがゆえに、理詰めでたどりつく結論を、最後には必ず裏切っていく。


 そういう「情緒」とか「直感」はどこから来るのか。

 

 誰もそれを見通すことはできない。
 今でいう、脳科学でもAI でも解明できない。

 

 しかし、そういう不透明な “靄(もや)” のようなものの奥に、実は「人間の真実」が隠れている。
 そして、その “靄” を合理の世界で吹き払おうとすると、逆に何も見えなくなってしまう。

 柄谷氏の著作には、常にそのことをめぐる眩暈(めまい)のような驚きがある。

 

 これは私流の解釈なのだが、彼はこのとき、カントのいう「サブライム(崇高)」という概念に近いものをイメージしていたのではないかと思う。

 
 柄谷行人の80年以降の著作が初期作品と異なるのは、理詰めの世界が常に現実を裏切っていく過程を、“文学論” の手法で説くのではなく、言語や数といった “物事の構造を支える原理的基盤” の深部に遡行し、それが根本のところで瓦解していることを証明するという「脱・構築」(ディコンストラクション)の手法がとられたことだった。

 

 「普遍性」というものの無根拠性を示すためには、その手法に普遍性がなければならないというのが、この時期の柄谷的問題意識の核心であった。

 

 もちろん、この時代の大半の書籍にも私は目を通している。 
 しかし、何度も読み返す本ということになれば、やはり冒頭の3冊に戻っていく。
 それが自分の感受性を広げてくれる原点だと思うからだ。

 

 象徴的な表現をすれば、私は彼の初期3部作から、
 「論理のなかに、“論理化できないもの” の手応えが隠れている」
 ことを学んだ。

 

 「言語のなかに “言語化できない美しさ”」
 が潜むことを知った。

 

 「謎を解明するよりも、“謎そのもの” が価値を持つ」
 ことを覚えた。

 

 それは、柄谷行人が常に、人間の「心理」とか「意識」ではとらえることのできない実存的な感覚、すなわち「人間の思考」の外に広がっている世界への眼差しを持っていたことに由来する。

 

 人間の思考の外に広がる世界というのは、神秘的な超自然現象でも、人間の意識化に眠る深層心理でもない。

 

 ましてや、単純な意味での「宗教」でもない。


 「超自然」や「深層心理」というのは、人間の思考ではキャッチできない神秘の世界を開示していると思われがちだが、実はそういうものこそ「人間の思考」によって発見されたものにすぎない。

 

 そうではなく、人間の思考や心理をいかに掘り下げようが、けっして言語化されることのない世界。いわば言葉そのものではなく、言葉が山の斜面に乱反射し、「残響(エコー)」としてしか確認できないようなもの。


 柄谷氏が、漱石や、シェークスピアや、マルクスを論じる初期作品で一貫して凝視しようとしているのは、そのような世界だ。

 

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 “漱石論” を中心に構成された『畏怖する人間』のなかには、漱石の『道草』からとった次のような引用文が出てくる。

 

 「或る日、彼( ← 主人公の健三)は、誰も宅(うち)にゐない時を日計らって、不細工な布袋竹の先へ一枚糸を着けて、餌と共に池の中に投げ込んだら、すぐ糸を引く気味の悪いものに脅かされた。彼を水の底に引っ張り込まなければ已(や)まない其(そ)の強い力が二の腕迄(まで)伝はった時、彼は恐ろしくなって、すぐ竿を放り出した。さうして翌日静かになった水面に浮いてゐる一尺余りの緋鯉を見出した。彼は独り怖がった」(『芥川における死のイメージ』)

 

 漱石が『道草』で書いたこの文章は、『畏怖する人間』のなかでは、章を変えて繰り返し引用される。
 それだけこの個所は、漱石を語ろうとする柄谷氏にとって大事な意味を持っている。

 

 氏はこの文を引用したあと、次のようなことをいう。


 「健三がこのとき感じた気味の悪いものこそ、漱石がずっと追求していた “自然” であった」

 

 ここで出てくる「自然」という言葉は、われわれが日頃使っているような「人工(アーティフィシャル)」に対する「自然(ネイチャー)」といったようなものではなく、“人間の意識の外に広がる非存在の闇” と説明される。

 

 つまり、上記の引用において、健三(つまり幼い漱石)が怖がったのは、すでに “緋鯉” ではない。


 緋鯉を超えるもの。
 すなわち「人間の意識の外に広がる非存在の闇」だったのだ。

 

 そして、柄谷は、この緋鯉のエピソードについて、
 「ここには、超越性とはまったく無縁のフィジカル(物質的)なことしか書かれていないのに、健三の自己完結的な意識をうち破って、フィジカルな世界がそのままメタフィジカルなものに変容する瞬間がとらえられている」
 という。

 

 そして、こうもいう。
 「漱石は “自然” という言葉によって、超越性をもった何かを語ろうとしたが、それは “神” でもなければ “天” でもなかった。漱石は超越性を物の感触、いいかえれば生の感触を通してしか見い出そうとしなかった」

 

 そして、そういう認識は、(実存主義文学者の)「サルトルが小説の『嘔吐』で “吐き気” と呼んだものと同じである」とも。

 

 このように、初期の柄谷行人の眼差しは、常に “人間の意識の外に広がる非存在の闇” に向けられていた。


 そして、そういう柄谷作品を再読することによって、私もまた「自分の意識の外に広がる非存在の闇」を見つめることになった。

 

 「非存在の闇」とは何か?
 それは私にとっては、ルーティン作業を繰り返していた自分の脳が、ある瞬間に覗き込んでしまう「意識の亀裂」のことである。

 

 そして、それを覗き込むことは、ルーティン化された自分の思考回路の外に飛び出すことになる。

 

 人類学者のレヴィ・ストロースは、自分が抱えている問題に取り組む前に、必ずマルクスの『ブリュメールの18日』か『経済学批判』の何ページかを読んで、自分の思考に活気を与えてから作業に取り掛かった、といわれている。

 

 レヴィ・ストロースにとって、“マルクスの何ページか” というのは、常に思考に刺激を与え、新しい何かを発見をもたらすものだったのだ。
 私にとっては、それが柄谷行人の初期3部作である。

 

 自分の脳がブラックホールのような闇を抱えていたという発見は、恐ろしくも魅力的な体験だ。

 

 宗教家は、それを「啓示」というかもしれない。
 アーティストや文学者は、「ひらめき」というかもしれない。


 いずれにせよ、生まれたばかりの「言葉」が、まだ言葉の形をとらずに宙に浮いている状態をいう。

 

 それをうまくつかめるのか、つかめないのか。
 その危うい “試み” のなかに、文章を書くことの愉楽が潜んでいる。

  

 

プーチンを評価する日本のユーチューバーたち

 
 “ウクライナ危機” に対して、日本のYOUTUBERたちがどのような意見を持っているのか。
 それを知るために、いくつかの動画サイトを覗いてみた。

 

 すると、いま意外なことが広がりつつあることが分かった。

 

 というのは、「プーチンの正義」を謳うYOUTUBERたちがけっこういて、それぞれ活発なサイト運営を行っているのだ。

 

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 たとえば、「SHIMAKURA BIZch」というチャンネル名で情報発信を継続している動画。


 これを発信している島倉大輔という人は、現在経営コンサルティングの会社を経営しているビジネスマンだという。
 
 この動画で訴えられているのは、次のようなことだ。

 

 「ほとんどの日本のメディアは、ロシアのプーチンを “悪” だと決めかかっている。しかし、そのように理解していると、世界の常識から取り残されてしまう」

 

 このYOUTUBERは、「プーチンの戦いには、日本人の知らないしっかりした理由がある」という。

 

 こういう論法で語られ始めると、確かに好奇心が湧く。
 いったい彼は何を言おうとしているのか?
 ついつい引き込まれてしまう。

 

 しかし、動画が始まって2~3分した段階で、私はもう違和感を覚えた。
 ものすごい上から目線なのだ。

 

 「ほとんどの日本人は、メディアの一方的な情報に踊らされているだけで、本当のことを知らない。だから自分がこれからウクライナ問題の本質を教えてやる」
  
 そういう感じの、聞き手を小馬鹿にしたような口調が延々と続く。
 
 彼はいう。

 「自分は、“ロシアが良いとか悪い” などという話にはまったく興味がない。そんなことを言ったところで意味がない。
 それよりも、今起こっていることの真実を述べたい。
 日本のメディアの報道を信じているほとんどの人は、ウクライナは可哀想な被害者だと思い込んでいるが、それは戦時中の “大本営発表” というニセ報道をそのまま鵜呑みにしている哀れな人たちと同じだ」

 

 これを聞いて、腹が立った。
 今ウクライナの民間人がロシアの攻撃にさらされて、たくさんの命を失っている。
 一方、ロシア兵たちも、戦闘の経験のない若い兵たちを中心に多くの人間が戦死している。

 

 そういう状況に心を痛めることもなく、この人は、
 「ロシアが良いとか悪いなどという話にはまったく興味がない」
 と、無慈悲に言い捨てている。

 

 さらに、この人は、
 「自分がそういうことを言うと、お前はロシアの工作員なのか?」などと頭の悪い批判を浴びせてくるリスナーが多いが、「日本人の国際政治リテラシーは驚くほど低い」と嘆く。

 

 しかし、このような冷徹な認識から得られる “真実の話” などに、どれほどの価値があるというのか?
 こういう(一見冷静な)合理性を装った説話ほど、罪の深いものはない。

 

 ま、そこは目をつぶるとして、この人が言いたい “真実” 、すなわちウクライナ問題で本当に “悪い” のは誰なのか?

 

 まず、そこに踏み込んでいきたい。
 で、その “悪者” というのは、この動画のタイトルにもある「DS(ディープステート)」だという。

 

 聞きなれない言葉だと思う方もいるだろうが、これは2020年のアメリカ大統領選挙(トランプ対バイデン)のときに、トランプ支持者たちが口に出し始めた言葉だ。

 「影の政権」
 あるいは、
 「闇の政府」
 とでも訳せばいいのだろうか。

 

 その正体は、悪魔を崇拝する小児性愛者の秘密結社であり、その構成員は、児童人身売買や、児童を相手に淫らな性欲を満足させている。

 

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 そういう人間として、ジョー・バイデンバラク・オバマヒラリー・クリントン、ナンシー・ぺロスなどという民主党政治家が名を連ねている。
 その背後にはユダヤ資本があり、ネオコン新保守主義者)と呼ばれる保守層が脇を固めている。

 

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 その総本山はバチカンにあり、ローマ教皇自身が大悪魔として君臨している。
 さらに彼らは、中国共産党とも手を組み、民主主義諸国の正義をくつがえそうとしている。

 

 2020年のアメリカ大統領選において、こういう「ディープステート」勢力と戦ったのが、トランプ氏であり、彼こそがアメリカを救う正義のヒーローなのだ。

 

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 ざっとこのように説明すると、ディープステートというものがいかなる存在か、漠然としたイメージが湧くだろうか。

 

 はっきりいうと、これは「陰謀論」である。
 主張は支離滅裂だし、論理に一貫性がない。
 子どもでもすぐに「何か変だぞ?」と感じる荒唐無稽な話だ。

 

 しかし、概して陰謀論というものはそういう性格を持っている。
 事実関係が混乱している方が、かえっていろいろな人の嗜好にフィットしやすいからだ。

 

 2020年のアメリカ大統領選では、そういう陰謀論を吹聴する集団として「Qアノン」というグループが注目を集めた。

 

 この「Qアノン」は、アメリカだけにとどまらず、日本でも信者を増やし、それに感化された人々が、わざわざアメリカに渡って、(選挙権もないくせに)「トランプ支持」を地元のアメリカ人に訴えた。

 

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 では、この陰謀論と今回の「ウクライナ問題」は、どう結びついてくるのか。

 

 それに関して、「SHIMAKURA BIZch」という動画を管理している島倉大輔氏は、自作動画の解説を次のように進めていく。

 
 ロシアのプーチンは、アメリカのディープステートとつながっていた東欧の地盤を壊滅させようとして今回ついに動き出した。
 
 ウクライナ国内では “反ロシアキャンペーン” を張るディープステート勢力が台頭し、ナチスと同じような犯罪的政権を打ち立てて、ウクライナ領内の親ロシア住民を虐殺するという暴挙に出た。

 

 その実行部隊となったのが、ディープステートがつくった “ヤクザ集団” たち。
 (プーチンはこれをネオナチと呼ぶ)

 ネオナチは、テロを行う技術に長け、人民に麻薬に流行らせ、敵対する者を容赦なく殺戮する。

 

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 その背後には、アメリカのネオコン新保守主義)がいる。
 ネオコンアメリカの軍事産業と結託しているから、いくらでもネオナチ集団に最新の武器を提供する。


 そうすれば、そのこと自体がアメリカの武器商人たちを潤すことになる。

 

 ウクライナでは、このネオナチが「反ロシア」の旗印に結集し、あらゆる犯罪に手を染めている。
 プーチンは、この運動がこれ以上広がらないよう、ついに立ち上がった。

 

 つまり、プーチンの敵は「ウクライナ」という国ではない。
 彼が相手にしているのは、ウクライナ国内の「ネオナチ」グループであり、これをウクライナから一掃するまで、プーチンは手を引かない。


 だからこの戦いには終わりがない。

 

 以上が「SHIMAKURA BIZch」島倉大輔氏の解説である。

 

 この解説、どこか怪しくはないか?

 まず、プーチンが戦っているというネオナチの母体である「ディープステート」なるものが、はたして存在するのかどうか。

 

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 島倉氏は、詳しい説明もないまま、いきなり「ディープステート」なる概念を持ち出してくるが、「陰謀論」を分析するどんな学者や識者からも、この「ディープステート」という組織が実体をもったものであるという証明はなされていない。

 

 次に、ウクライナのネオナチが、親ロシア派住民を虐殺したという事実はあったのか?

 

 これについては、ある文献によると、ネオナチ的組織がウクライナにあったというのは事実であるらしい。
 だから、ウクライナ東部では、彼らが親ロシア派住民と小競り合いをした可能性はあったかもしれない。

 

 しかし、ロシア側が「ウクライナ侵攻」の理由にしたような「大量虐殺」が行われたという事実はない。


 この件に関しては、OSCE(欧州安全保障協力機構)が立ち会って調査し、何もなかったことを確認している。

 もし、ロシア側の主張が本当ならば、国連の常任理事国であるロシアは安全保障理事会で提訴すればよかったはずだ。
 しかし、ロシアはそれをしていない。
 提訴するに足る確固たる証明ができないと踏んだからだろう。
  

  

 このように、ウクライナ危機の本質を、「プーチンとネオナチ」との戦いだと主張するYOUTUBEは、まだほかにもある。

 及川幸久氏の「THE WISDOM CHANNEL」である。

 

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 この動画を主宰している及川氏(幸福実現党の外務局長)もまた、「日本のマスコミは偏向報道である」という視点でプーチンの戦いを解説している。

 

 彼は、ロシア軍によるウクライナ人民への無差別攻撃というのは、実はフェイクニュースだと言い切る。

 

 たとえば、「プーチンが侵略した」ということを訴えるイギリスの新聞の写真そのものが、2018年のどこかのガス爆発を伝えるときの画像がそのまま使われているという。

 

 さらに、「ウクライナの都市に落とされたロシア側のミサイル」という映像を取り上げ、これもロシア侵攻よりもそうとう以前に撮られた別の爆発画像だと指摘する。

 

 つまり、ウクライナ側が受けている “無差別攻撃” というニュースそのものが何者かによって捏造されているのではないかという視点を彼は提出するのだ。

 

 では、何者がこのようなフェイクニュースを流しているのか?

 

 及川氏もまた、
 「それを行っているのがウクライナ政権の中枢に居座るネオナチだ」
 という。
 ゼレンスキ―政権の周りには、ネオナチ集団がびっしりと群がっており、それが反ロシア的行動をとるように、ゼレンスキ―大統領に迫っている。

 

 そこに目を付けたのが、アメリカのネオコンで、東欧圏における「反ロシア」政策を強化するために、政権内のネオナチ集団をサポートするようになった。
 ウクライナ東部における親ロシア派住民の虐殺なども、彼らネオナチの仕業である、と及川氏は語る。

 

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 ここまでは、最初に紹介した島倉大輔のYOUTUBEとほとんど同じである。

 

 及川氏も、ネオナチが行った親ロシア派への大量虐殺行動を規定事実のように語る。


 しかし、それがどこから出たデータなのか、何を根拠にした説なのか、はっきりとした言葉で証明しようとしない。

 

 この事件に関しては、(繰り返しになるが)国際連合人権高等弁務官事務所(OHCHR)や、OSCE特別監視欧州評議会を含むいくつかの国際機関が調査したが、ロシアの主張を裏付ける証拠を発見することはできなかったという。

 

 それを例にとり、国連のグテーレス事務総長は、東ウクライナでネオナチによるロシア系住民への「ジェノサイド(大量虐殺)」が行われたとするプーチン大統領の主張を一蹴。
 この地域に侵攻したロシア軍は「平和維持部隊」などではないとの認識をはっきり示している。
 
 
 それにしても、日本で “ブーチン擁護” を繰り返すYOUTUBERたちの主張には驚くほど似たところがある。

 

 彼らがともに問題視しているのは、「ディープステート」という闇組織。
 そして、その影響下で暗躍するアメリカのネオコン
 ネオコンのサポートを受けて、犯罪の実行部隊として活動するネオナチ。

 

 ウクライナ問題でプーチンの姿勢に理解を示すYOUTUBERたちの主張は、まさにその点で共通している。

 

 さらにいえば、ロシア軍がウクライナに侵攻しているのは、みな「ディープステート」という闇組織との戦いだと断じているところが同じだ。
 すなわち、彼らは自説の展開をまったく「陰謀論」に依拠している。

 

 そのことの是非をここでは問わない。
 「プーチン擁護」の根拠を陰謀論から援用しようが、それはそのサイトの運営者の自由だから、他人が非難したところで始まらない。

 

 ただ腹立たしいのは、彼らが、「これぞウクライナ問題の真相だ!」などと提示する “のんきさ” 、あるいは “無神経さ” だ。

 

 あんたたちが、インテリぶったしたり顔で、YOUTUBEのカメラの前でしゃべっている間に、ウクライナの民間人は殺戮され、歴史的な文化施設は破壊され、ロシアの若い兵たちは戦死している。

 

 「プーチンが戦争を始めた意味は何か?」
 などと分析する時間があるんだったら、少しでも早くこの戦争を終結させるための知恵を絞れよ。

 

 今は、一人でも多くの日本人が、ウクライナ・ロシア戦争を終結させるために、声を出しているときなのに、こういう “のんきな” YOUTUBEを発信し続けている人たちに対し、「この動画を見て、プーチンに同情するようになった」などと無邪気な反応を示す読者も増えている。

 

 いいのか? それで
 
 なお、島倉氏が管理する「SHIMAKURA BIZch」というYOUTUBEは下記で閲覧できる。

 

 

 及川幸久氏の「THE WISDOM CHANNEL」は下記で。
 

youtu.be