映画批評
北野武 『アウトレイジ』&『アウトレイジ ビヨンド』
前回のブログで、松本人志がつくった映画を語る際に、北野武監督の映画を引き合いに出した。
今回は、その北野武の映画についてあらためて紹介する。
2010年~2012年に公開された『アウトレイジ』&『アウトレイジ ビヨンド』だ。
※ 初出は2015年10月6日。(ホビダスブログ 町田の独り言)
上記の2作を観るまで、私のもっぱらの関心事は、深作欣二が手掛けた『仁義なき戦い』シリーズ(1970年代)とどう違っているかということだった。
70年代のヤクザ映画を代表する『仁義なき戦いは』シリーズは、邦画史上に残る傑作だといっていい。
はたして、『アウトレイジ』は、それに匹敵する作品かどうか。
目を凝らして注視していたが、これはこれで新しいヤクザ映画のスタイルを創出したように思う。
『仁義なき戦い』との最大の違いは、一言でいえば、そうとう「クール」な空気感を持った映画だということだ。
もちろん、ヤクザ同士の抗争をテーマにしているわけだから、そこには組員同士の死闘があり、熱い血が噴き出す肉弾戦があり、銃口が火を噴く銃撃戦もある。
なのに『アウトレイジ』は、人間が死ぬ前から “死体” になってしまうような冷たさが全編に漂う。
『仁義なき戦い』の闘争シーンでは、被写体がブレることもかまわず、手持ちカメラを振り回し、粒子の荒いフィルムを使って、“人が戦う熱さ” を追求していた。
しかし、『アウトレイジ』では、静的な描写に徹して、肉弾戦の熱さよりも、人があっけなく死ぬことの冷たさだけがクローズアップされる。
だから、『アウトレイジ』のバイオレンスからは、人間のたぎる闘争心も、恨みの激しさも伝わってこない。ただ、「相手のシマを取る」という経済的な利害関係によって事務的に人を殺していくという、無機質性のみが強調される。
▼ 「仁義なき戦い」
▼ 「仁義なき戦い」
人の殺し方にも、『仁義なき戦い』との違いは明瞭である。
『仁義なき戦い』は、基本的に、猛り狂った集団と集団の “戦い” である。
しかし、『アウトレイジ』は “不意打ち” なのだ。
殺されるヤクザたちは、何が起こったのかわからないうちに、あっけなく死んでいく。
その分、不意の死に見舞われた人間には、恐怖も苦痛も免除される。
そこには、いかにも現代的な、「無慈悲だが優しい、静かな死」がある。
譬えていえば、1970年代を代表する『仁義なき戦い』が、製鉄や造船などの溶鉱炉の熱を感じさせる重工業社会を背景に生まれてきた映画だとすれば、『アウトレイジ』には、静寂に包まれた IT テクノロジーが主流を占める2010年代の “ひんやり感” が表現されている。
さらにいえば、『アウトレイジ』のクールさは、現代の最先端コマーシャル映像で追求される “お洒落感” にも近づいていくから、不思議なのだ。
『アウトレイジ』の冒頭シーン。
黒塗りのベンツが2台連なって、人気のない道路を進んでいく。
カメラが、その1台のベンツに覆いかぶさる。
黒光りしたルーフの、禍々しくも厳かな輝きが画面いっぱいに広がる。
そこに、絶妙なロゴデザインの「OUTRAGE」というタイトルが落下する。
「ああ、これは、今まで作られたどんなベンツのCMよりも美しい」
とすら思った。
そういう “息を呑む” ような新鮮な映像が、目を背けたくなるような残忍なシーンの合間に次々と現われてくる。
また、そのような映像をサポートする音楽が絶妙。
ムーンラインダースを率いていた鈴木慶一が、ミニマルミュージックのようなサウンドを担当していて、それが静かな緊張感を伝えてくる。
こうしたトータルな雰囲気づくりを含めて、ここには新しいヤクザ映画が生まれている。
ところで、『アウトレイジ』、そして『アウトレイジ ビヨンド』を観て、どの役者にいちばん惹かれたか。
それは、この両方に出演している加瀬亮である。
特に2作目の『アウトレイジ ビヨンド』での “活躍ぶり(?)” がいい。
彼が演じるのは、頭の回転が速く、英語にも堪能なグローバル時代のインテリヤクザ。
しかし、性格的には凶暴で、上には媚び、下には容赦なく暴力を奮うのが日常茶飯事。
そういう酷薄さが、細いきれいなアゴの線、感情の乏しい目つき、冷笑を浮かべる薄い唇に浮かぶ。
そして、頭がいいから、他人を叱責するときの言葉にも鋭い毒がいっぱい詰まる。
まさに、「人に好かれる」要素など一かけらも持たない幹部の役を、加瀬亮という俳優は、ほんとうに惚れ惚れするくらいの名演技で演じ切る。
あの誠実で優しそうな青年役(写真下)が似合う加瀬亮のなかに、このような凶暴な役回りを演じ切る才能があったというのは、驚きとしかいいようがない。
この加瀬亮の演じたインテリヤクザのような、観客の大半が「早く死んじゃえ、こいつ!」とイラ立つほどの “嫌らしい男” を創造できたという意味でも、この映画は新しいのだ。
こういう人物だけは、ぜったいに『仁義なき戦い』には出てこない。
あと、もう一人印象に残る役柄をあげれば、1作目の『アウトレイジ』で死んでしまう椎名桔平である。
彼は、どちらかというと、あまりヤクザ役が似合わない端正な2枚目。
しかし、イケメンのヤクザが、下卑た笑いを浮かべるときの嫌らしさを、椎名桔平はほんとうに上手に演じる。
もちろん、椎名桔平も、残忍な行動を平気で行える役で登場する。
しかし、彼には、凄むときの凛としたカッコよさも与えられた。
最後まで親分のビートたけしに忠誠を尽くし、そのために無残に殺される最期のシーンは、この映画では珍しい “潔さ” すら漂った。
もう一人、印象に残る演技を披露している役者を追加すれば、ヤクザたちから賄賂をせびりながら、姑息に生き抜く刑事役を引き受けている小日向文世。
“嫌なヤツ” を演じさせたら、彼は当代一の芸達者ではなかろうか。
人間の表情には、その性根がにじみ出るという言葉があるが、小日向の演じる刑事の顔は、まさに醜い人生を歩んでき男の顔そのものである。
もちろん、それは役者としての演技にすぎない。
この人も、それだけの演技力を備えているのだ。
では、肝心の主役のたけしはどうか。
私は、やっぱり俳優としてのたけしの演技が好きになれない。
ヤクザとしての凄味がまったく出ないのである。
「ふざけんなよ、このヤロー」
「いい加減にしろ、バカヤロー」
彼の啖呵(たんか)には、「このヤロー」と「バカヤロー」しか出てこない。
(このあたり、『仁義なき戦い』の芸術品のような啖呵を見習ってほしい)
たけしの啖呵は、小学生のケンカのように聞こえる。
たぶん北野武という芸人は、ほんとうのケンカをしてこなかったのだろう。
彼は、幼い頃から頭が良かっただろうから、ケンカをする前に、相手と自分の調整の方に頭脳が回ってしまうのだ。
だから、彼の「このヤロー」は、親が仲裁に駆けつけて来た姿を横目で眺めながらの、小学生の「このヤロー」になってしまうのだ。
たけしは、自分が主役にならずに、監督だけに徹していれば良かったのではないか。
それだけが、私がまったく恣意的に感じたこの映画の欠点である。