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松本人志の闇のようなニヒリズム

 

 ネットニュースでは、松本人志の「性加害疑惑事件」への言及が止まらない。
 ジャーナリストも芸人たちも、この事件に対しては、こぞってコメントを発したがっている。

 

 たぶん、この件に言及すれば、自分の名前がSNS上で大いに拡散することに気づいたからだろう。

 そういった意味で、バラエティに加担する人々の「自己承認欲求」を満たすには恰好の事件だという気もする。

 

 この松本人志に対するコメントには、2種類がある。
 一つは、告発記事の掲載した『週刊文春』サイドの見方に沿って、批判的トーンで松本を語るもの。

 

 もう一つは、松本擁護だ。

 この松本擁護を匂わせるコメントを掲げる人たちは、その大半が松本の後輩芸人たちだ。

 彼らは、往々にしてこういう。
 「われわれはダウンタウンさんにお世話になってますから、(中略)肩を持つのはまあ普通というか、当然」(チュートリアル 福田充徳氏)

 

 ダウンタウンの同期で知られるトミーズ雅氏も、「(松本の)代わりはいない。あんな天才世の中にいないもん」と語る。

 

 このように、後輩芸人や同年代の芸人たちは、『週刊文春』で暴かれたような事件が本当にあったのかどうか疑問 というスタンスを堅持したまま松本賛歌に終始する。

 

 関西で絶大な人気を誇る上沼恵美子は、情報バラエティ番組で松本について語ったとき、
 「超一流の人間やのに、遊びは三流以下やったね」
 とコメントを残した。

 

 卒のない観察だとは思うが、「超一流の人間」という言葉には若干の違和感を感じる。

 

 このように、「松本人志は笑いの天才である」という共通認識の背景には何があるのか。

 

 

 実は、私個人は、松本人志にはほとんど関心がなかった。
 しかし、あまりにも「松本人志の天才性」を誇示する人たちが多いので、遅まきながら、松本が出演するバラエティ番組などを意識して何本か観ることにした。

 

 『水曜日のダウンタウン
 『酒のツマミになる話』
 『ガキの使いやあらへんで!』

 

 どこが面白いのだろう?

 

 こんなことを言ったら、松本人志のファンや擁護者からそうとう怒られそうだが、人々が評価する笑いの衝撃度も希薄だったし、“トークの冴え” も感じられなかった。

 

 人々がいう彼の カリスマ性 というのは、少なくとも私が観たいくつかの番組からは漂ってこなかった。

 まぁ、私の感性が「錆びついている」といえばそれまでだが
 
 ただ、こういう気持ちを抱いたことは、今回に限ったことではない。
 実はそうとう前に、松本人志が監督した映画というのを観たことがある。
 タイトルは、確か『R100』(2013年)。

 

 地上波で観たか、BSで観たか忘れたが、この映画はひどかった。
 あまりにも退屈で、途中から観るのをやめた。

 

 以降、松本人志の「才能」というものに思いめぐらせるとき、必ずこの映画のことが私の脳裏をよぎってしまう。


 結局彼は、お笑い芸人としてだけでなく、映画人としても北野武と肩を並べようとしたが、その足元に及ぶこともなく、ものの見事に地上に落下してしまった。(たけしは映画においてもお笑いにおいても、間違いなく天才である)

 それに比べ、松本人志は二流である。

 

 思うに、松本人志という人は、ほとんど本を読まない人なのだろう。
  というか、本当に勉強が嫌いなまま、芸人として60歳を迎えてしまった人なのだ。

 

 つまり、彼は「女性」というものに対しても、「映画」に対しても、感性がしぼんだまま時をやりすごした。


 私たちは、この彼の 無知さを、芸の奥行き と勘違いしたのだ。

 

 松本人志という芸人は、「天才」というより、闇のようなニヒリズムを抱えた人だと思う。