アートと文藝のCafe

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米谷清和の絵は、観る人の「言葉」を奪う 

絵画批評   
絵を観るということは、何をすることか?

 

 

 絵を観るのは、昔から好きだった。
 特に気に入った絵に接すると、その絵から、目に見えない「扉」のようなものが突然開いて、その奥に見知らぬ空間が顔を覗かせているように思えることがある。
 そのときの未知の空気に触れたような感覚が、絵画を観ることのだいご味だと思っている。

 

 ただ、気に入った絵があったとしても、その魅力を言葉で人に伝えるのは難しい。
 そもそも、絵は言葉で言い尽くせないからこそ、「絵」なのである。
 逆にいえば、簡単に「言葉」に置き換えられるような絵画は、まだ一流の絵とはいえないのかもしれない。

 

 一流の絵画は、観る人間から「言葉」を奪う。

 「今の私には、この絵から受けた感動を言い表す言葉がない!」

 そう感じたとき、実はその人は、いちばんその絵のテーマと向き合っていることになる。
 「絵に感動する」ということは、これまで自分が言葉にしたことのない新しい言葉と出会う瞬間なのだから。

 
 昔、Eテレの『日曜美術館』という番組で、米谷清和(よねたに・きよかず 1947年~)さんという現代画家の絵を集めた絵画展の告知を見たことがあった。
 そこで紹介された何点かの作品に心を奪われた。

 

 さっそく彼の個展が開かれている会場(三鷹市美術ギャラリー)にまで足を運んだ。
 2016年の冬のことだった。

 

 展示スペースに足を踏み入れると、いきなり目に飛び込んできたのが、『老(ふゆ)』(↓)という絵だった。

 

 

 階段らしいところを登っていく老人の横顔。
 その老人が歩む階段の上は2階席になっているのか、3人の人間のシルエットが見える。


 しかし、シルエット以外の情報が大胆に省略されているため、観客は、どこか夢の世界をさまようような不安定な気分にさせられる。

 

 そう思うと、階段を登る老人を待ち構えているのは、すでに “あの世” に上がってしまった死者たちの影のようにも感じられる。「老」と書いて「ふゆ」と読ませるのも、季節の終わりと人生の終わりを重ね合わせているようだ。

 

 そういった意味で、この絵は、「絵画」として見れば、構図といい、テーマといい、観る者をかなり不安定な気分にさせてくれるのだが、「絵画」ではなく、「デザイン」として見るならば、黒地と白地のコントラストを生かした絶妙な安定感が伝わってくる。
 
 デザインとしての安定感と、絵としての不安定感。
 
 その二つの要素が、観る人間の心理状態によってネガとなったり、ポジとなったりして、一種の “だまし絵” 的な妙味が生まれている。

 
 下は『夜』と題された作品。
 1982年のものだという。

 

 

 紫色の夕景に包まれた歩道橋。
 家路に帰る人たちであろうか。黒いシルエットになったいくつもの人影が、紫の闇に溶け込むように、歩道橋を渡っていく。

 

 しかし、うなだれて背を丸めている手前の人間には、歩道橋を渡る人たちの姿すら目に入っていないようだ。
 寂しそうにうつむくこの人物の背中からは、彼が今の場所から動く気持ちを失っていることが伝わってくる。

 

 『夜』というタイトルは、夜景を描いたからではなく、むしろ、このうなだれた背中を見せている人間の心を表しているようにも思える。
  
 
 下は『夕暮れの雨』と名付けられた作品(1992年)。
 道路を上から大胆に覗き込んだインパクトの強い絵である。

 

 

 米谷さんは、「雨の夜」を題材にするのが好きだという。
 濡れたアスファルトは、晴れた日よりも、周りの光を美しく映し出し、路上をより幻想的に見せるとも。

 

 確かに、この絵では、濡れた光を反射させる道路が主役だ。
 黒い傘をぶつけ合うように駅の構内に向かう人々の姿が、アスファルトに反射した光に照らされて、躍動感に満ちたシルエットを浮かび上がらせる。
 
 それにしても、なんと水っぽい空気感をたたえた絵であることか。
 観ている観客の鼻腔には、雨の匂いを含んだ湿った空気がしっかりと忍び込んでくる。
 
 
 下は、『終電車 Ⅰ』(1971年)と名付けられた絵。

 

 

 仕事で帰りが遅くなったのか、遊びで遅くなったのか。この絵では終電車の席で疲れた体を休める人々の様子が描かれている。

 

 東京の新宿駅から出る終電だとするならば、時間はすでに午前1時を回っているはずだ。人々の表情にはけだるさが漂い、投げやりな足の組み方からは、どっぷりした疲労感が伝わってくる。

 

 彼らにとって「終電車」は家にたどり着くまでの “つかの間の安息の場所”。
 しかし、その中にとどまっていられるのは、せいぜい30~40分程度の時間でしかない。家までたどり着くには、自分が降りる駅でその安息の場所を放棄せねばならず、うっかり寝過ごしてしまえば、今度は家にもたどり着けない。 
 
 そう考えると、「終電車」は、帰るべき故郷を喪失してさまよう人々の都会生活そのものの寓意かもしれない。
 

 
 『新宿5番線ホーム』(下)と題された絵(1976年)も、都会人の朝の生活を切り取った1枚。

 


 向こう側のホームで電車を待つ人々の顔は、まるで判で押したように同じ表情になっている。
 おそらく、みな職場に着いたときの仕事の段取りで頭がいっぱいになっているからだろう。

 

 では、ホームのこちら側にいる人々は、どういう人々なのか?
 画面には黒いコートを着た3人の人物が描かれているが、この3人のたたずまいは、ホームの向こう側にいる人たちと、どこか違う。

 

 コートの襟を立てている右側の女性は、その背中の線から察するに、かすかにもの思いにふけっているように見えるし、中央の中年男性は、余裕ありげに手を後ろに組んでいる。


 さらに、左手の人物は疲れたように手を柱に伸ばして体を支え、通勤ラッシュなどには最初から無縁の姿勢を保っている。
 そのため、向こう側のホームとこちら側のホームでは、それぞれ異なる時間が流れているようにも見える。  

 

 米谷さんに言わせると、3人の人物が立っているこちら側の5番線ホームというのは、長距離列車の発車ホームなのだという。
 向こう側の人とこちら側の人では、行く場所が違うのだ。

 

 向こう側の人々が抱えているのは「通勤」。
 こちら側の人々が待っているのは「旅」。
 線路を挟んで、異なる目的を持つ人々の空間が対峙しているときのかすかな違和感と緊張感。


 それが、さりげない日常を切り取ったこの絵に、どこか張りつめたような空気を呼び込んでいる。
   
 
 下の絵は、1982年に描かれた『電話』。
 等間隔に並んだ黄色い電話機と、同じ方向を向いて話している3人の男性を描いたデザイン的なタッチの絵だ。
 こういう光景はスマホ時代には見られなくなったが、80年代には、まだこういう電話機が駅の一角などにたくさん並んでいた。

 

 

 当時は見慣れた光景だったとはいえ、この絵を観ていると、どこか奇妙な気分に襲われる。
 3人の男性が、ほとんど同じポーズを取っているため、リアルな情景を描いた絵というよりは、何かの寓意性が込められた絵であるように思えるのだ。

 

 さらに、電話機以外の背景が何も書き込まれていないので、逆にその “空白” に、なにがしかの意味が隠されているようにも感じられる。
 そういった意味で、ものすごくシュールな味わいが伝わってくる絵だ。

 

 こういう絵を見せられると、必死になってそのテーマを探り出し、それを文章化してみたくなる。


 だが、たいていの場合、失敗に終わる。
 自分の感性の乏しさゆえに、絵のテーマにたどり着けるような感想が書けることは少ない。
 
 それでいいような気もする。
 あえて文章化できないものを手に入れるために、絵を観ているようなところもあるからだ。
  
   
 この個展を観に行った日、会場を出たところに小さなテーブルがあって、その隅に作者の米谷清和さんが座っていらっしゃった。
 1600円のカタログを買い、顔写真の載っているページにサインをもらった。

 

 

 ついでに、一言二言、お話をいただいた。
 「自分の描いているものは、特別なものではなく、うっかりするとほとんどの人が見逃してしまうような日常生活の中の些細なシーンです」
 という。


 「しかし、絵にすることで、観た方が、“そういえば日常生活の中には確かにこういうシーンがあるよな” と気づいてくれたらうれしい」

 

 シンプルな表現だが、含蓄のある言葉だと思った。

 

 絵として描かないかぎり、見逃してしまうような光景とは何か?
 それは、無意識の世界から立ち上ってくる光景である。
 
 人は、日常生活のなかで、いろいろなものを見ているはずだが、自分の理解できるものしか拾っていない。
 理解できないものは(視界の中に入ってきたとしても)、情報として意識の中には取りこんではいないのだ。

 

 だから、理解できないものは、その人の無意識の底に沈んで、永遠に眠ったままになってしまう。


 何かの拍子に、そのうちのどれかの記憶が、無意識の底から引っ張り上げられることがあるかもしれない。


 しかし、大多数の眠れる記憶は、本人が死ぬと同時に闇の底に戻っていく。

 

 絵というものは、その闇に眠った記憶を、生きている間に一瞬だけ取り出す「装置」である。