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キリコ作『街の神秘と憂鬱』の謎

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アート批評
ジョルジョ・デ・キリコの形而上絵画

  
 われわれは「イタリア」という言葉から、人間性謳歌する享楽的で、現世的な文化風土を想像しがちである。
 しかし、そのような「明るく陽気な」風土が広がるイタリアというのは、ローマ以南、ナポリシチリアのような地中海世界に限られたものだ。
 
 トリノのような北イタリアには、それとは違ったイタリアが存在する。
 春や夏のイタリアではなく、秋と冬のイタリアがある。
 シュールレアリズムの祖といわれるジョルジョ・デ・キリコは、そのようなイタリアを描いた画家だ。
  

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 かーんと晴れ渡った、限りなく透明な空の下に横たわる、人のいない街。
 午後の一瞬を、「永劫の時」に凝固させたまま動かない空。
 地面に伸びる影もまた、秋の日差しを凍結させたまま、流れの止まった「時」の中に眠っている。

 

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 地上に立たされた人影は、人なのか彫刻なのか区別もつかず、永劫の時間に閉じこめられた風景に「不安」の彩(いろどり)を添える役割しか持たされていない。
 そこには、人間の住むことを拒むような、どこか超越的な気配に染められた世界が描かれている。

 

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 キリコは、自らの絵画を「形而上絵画」と呼んだ。
 この世を超越した思念や感性に満たされた「絵」という意味だ。

 

 つまりは「この世ではない世界」を描いた絵であり、現実としては見ることのできない風景を捉えた絵ということである。
 
 かといって、それはダリやルネ・マグリットの描いたシュールレアリズム絵画のように、「この世に存在しないもの」が描き込まれた絵ではない。
 イタリアには普遍的に存在するファサード、広場、噴水、彫刻などが描かれているに過ぎない。
 
 この世にないものなど一つも描かれていないのに、なぜ彼の絵からは「非現実感」が伝わってくるのか。

 

 それを考えることは、われわれの住んでいる「世界」 …… すなわち「近代」という時代区分の中で生きている私たちの「精神風景」が、いったいどのようなものであるかを問い直す作業につながってくる。

 

▼ キリコ自画像

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遠近法的な世界観の誕生 

 
 キリコの絵に漂う「非現実感」というのは、彼が近代絵画の手法を意図的に “無視した” ところから生まれている。

 具体的にいうと、彼は、近代の具象画の常識となった「消失点作図法」をわざと壊したのだ。
 
 「消失点作図法」というのは、一般的に「遠近法」といわれる技術を指し、画面の中心に、すべての物を吸い込んでしまう「消失点」を設け、そこから放射状に逆放射される “架空” の放射線に沿って、建物、人物などを配置していく描き方をいう。

 

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 こうすると、遠景の建物は、放射線に沿って小さく描かれ、手前の建物は大きく描かれることによって、見かけ上の “奥行き” が生まれる。
 
 この手法は、ルネッサンス絵画の時代に少しずつ生まれ、その後、近代絵画の時代に精緻に理論化されていった。
 

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 現在のわれわれは、こういう “遠近法” で描かれた絵を観たときに、それを「リアル」と感じるように訓練されている。
 
 しかし、実は、それは人間の自然な眼の動きではなく、「消失点作図法」という絵画上の技術によって確立された人工的な “視線” でしかない。

 

 そのことは、江戸時代の浮世絵やルネッサンス初期の宗教画のような、近代絵画が誕生する前のフラットな絵画と比較してみると、よく分かる。

 

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 近代以前の人々が描いた「空間」は、近代以降の人々と同じ「空間」を見ていたはずなのに、奥行きを失った、ベタっとした平面で描かれている。

 

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 このことを、「昔の絵描きは幼稚で、現代の絵描きは上手くなった」
 と、捉えてはいけない。
 
 近代以前の絵描きたちは、それでも十分に、「リアルな現実」を描いたつもりでいたのだ。

 
「奥行き」を必要としなかった中世の人々


 なぜ、近代以前の人々は、このような奥行きを失った絵画を「リアル」だと感じていたのだろうか?

 それは、「何に感動するのか?」という感動の原点が、現代人とは異なっていたからだ。
 
 たとえば、ヨーロッパ中世から近世にかけての時代。
 遠くから旅を続け、各地に散らばる町の教会を訪れた巡礼たちは、そこに掲げられる宗教画を眺め、人智を超えた神の世界から届くメッセージを受け止めたはずだ。

 

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 それらを眺めた彼らは、キリストの受難に涙し、背徳にまみれた町が劫火に包まれることに恐怖し、赤子を抱きかかえるマリア像に癒されたことだろう。
 

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 すなわち、そこに描かれた「世界」が、もうストレートなメッセージだったのだ。
 
 中世において、人間にメッセージを与える存在は「神」しかいなかった。
 「神」は、そもそも “奥行き” などを超越した世界にいるから、2次元空間の絵画などには描きようもない。

 

 おそらく、中世の人々は、近代絵画から生まれた「遠近法的空間」などを知ったとしても、何の興味を示さなかっただろう。

  


自然科学的な世界観が生まれて人間の感性が変わった
 
 しかし、近代社会が成立するようになると、宗教的世界観に代わり、自然科学的な世界観が浮上してくる。

 

 自然界は、数学的に、物理的に計測可能なものになり、その数学的な計算に従って、絵画空間を再構築しようという動きが出てくる。
 
 「消失点作図法」という遠近法は、そのような “近代の眼差し” から生まれたものだ。
 

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 そのような、“奥行き” のある絵画を眺めることによって、人は、やがて、世界を眺める揺るぎなき「自己」という存在に気づくようになる。

 

 眺める「自己」
 眺められる「自然」 

 すなわち、「主体」
 そして、「客体」
 
 この二つが明瞭に分離できるという思想こそ、近代合理主義の源になっている。

 

 どのように自然界が混沌としたものに見えようとも、それを眺めている「自分」だけは揺るがない。

 「近代的個人」というのは、そこから生まれた。
  
 
「自己」が不安にさらされる時  
 
 ジョルジョ・デ・キリコは、その近代に確立された「揺るぎなき自己」を、もう一回解体するような絵を描いた。

 

 彼は、「近代的な個人」というものが仮構の存在であり、「個人」を成立させるはずの合理主義的などというものは、実に安定感を欠いたものであることを、自らの絵で示そうとした。
 
 キリコの絵を前にすると、理由のはっきりしない不安、けだるいメランコリー(憂鬱)、得体の知れない恐怖が、足音を忍ばせながら、そぉっと近づいてくる気配を感じるわけだが、それは、「自己」が解体していく過程に立ち会うからだ。 
 


絵の中に無数の消失点が生まれる不可解さ

 

 その例を、彼の絵で具体的に追ってみよう。

 下の絵は、有名な『街の神秘と憂鬱』という絵だが、左側の白い建物と、右側の黒い建物の輪郭をなぞる線が、それぞれ別の消失点に向かっていることが分かるだろう。
 
 さらに、黒い建物の隅にうずくまる馬車は、両側の建物とはまた別の方向に向かう輪郭線を示しており、この絵の中に、「無数の消失点」が存在することを伝えてくる。 

 

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▲ 「街の神秘と憂鬱」

 

 「消失点」が一つしかないということが、近代的遠近法を成立させる “お約束事” であったのだが、ここでは、その近代的遠近法を狂わせる手法がわざと多用されている。

 

 つまり、ここには、「世界」を見る確固たる「自分」は存在しない。
 「自分の眼」は無数に増えて散らばり、「統一された自己」を裏切り続ける。
 
 キリコの絵に漂う「非現実感」というのは、「現実を捉えきれなくなった自己」へのおののきから生まれてくる。
 そこにはまぎれもなく、「自己の絶対性」を主張して止まない「近代」への懐疑が潜んでいる。
 
 だから、ここに描かれているのは、近代の意匠に包まれた人間が、その意匠を剥ぎ取られたときの、生々しい「生の実感」そのものなのだ。
 
 実は、人間は、本来はこのようにして「世界」を観ているといっていい。
 
 今われわれが、絵画、写真、映画、ゲーム類を通してなじんできた「3D画像」は、実は「安定した自己」を前提とした “近代的感受性” に支えられた虚構の視点でしかない。
 
 それは、「見る自己」と「見られる対象」の間には、科学的に計測可能な「距離」があるという盲目的信仰に依拠するもので、その「距離」への信頼を失ってしまえば、「世界」はたちどころに、夢のような世界に近づいていく。
 
 しかし、それは、ダリやマグリットが描く幻想世界とは別のものだ。
 

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▲ ダリ 「内乱の予感」

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▲ マグリット 「ピレネーの城」

 

 
キリコの絵に漂うノスタルジーの秘密
 
 絵画の中には「幻想的な絵」というものが数多くあるが、多くの幻想画が、単なる “不可解” なるものをたくさん集めたコラージュによって荒唐無稽の世界を描いているのに比べ、キリコは近代的な作図法そのものに中に、その破綻を見出した。
 
 そこには、揺るぎないと信じていたものが遠のいていくときの、取り残された者を襲う「根源的な寂しさ」が宿っている。
 
 そして、その寂しさは、人が、様々な近代的意匠を脱がされて、原始の人間に戻っていくときの懐かしさにも通じている。
 
 キリコの絵に漂うメランコリー(憂鬱)が、ノスタルジー(郷愁)ともつながっているのは、そこに理由がある。
  

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