アートと文藝のCafe

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『イノセンス』の映像は資本主義のメタファーである  


押井守 作 アニメ『イノセンス』を読み解く  

 

 

 中学生のときに同じクラスで知り合い、今でも年に2~3度ほど会う友人グループがいる。
 みな70代に差し掛かった老人たちだ。

 

 しかし、中学時代に小説や評論を持ち寄って同人雑誌をつくった仲だけに、会うと、あいかわらず映画、文学、音楽などについて語り合う。

 この前そのメンバーが集まったとき、
 「日本のアニメ監督のなかで、誰の作品をいちばん評価するか?」
 といったテーマがあがった。
 1人が、宮崎駿をあげた。

 

宮崎駿風立ちぬ

  

 「宮崎作品は線画がきれいだ」という。
 「構図も整っていて、色の配分も美しい。だから上映時間が長くなっても、視覚的に疲れることがない」
 さらに、「メッセージ性が深い」とも。

 

 聞いていて、私もそのとおりだと思った。
 私が映画館に足を運んだのは、『もののけ姫』と『風立ちぬ』の2本だけだが、確かに、重厚なテーマをものすごく優しい画風で仕上げた出来映えに脱帽する思いだった。

 

 ただ、個人的な嗜好でいえば、私は押井守の『攻殻機動隊』とか『イノセンス』などの方が好きなのである。

 

押井守イノセンス

 
 私がそういう感想を述べると、先の宮崎駿を評価した友が、
 「押井守の画像はごちゃごちゃし過ぎて好きになれない」
 と言い始めた。
 「一つのシーンに、あまりにも多元的な情報を詰め込み過ぎるので、目も疲れるし、頭も混乱する」
 という。

 

 

 う~ん …… そうかもしれないと思いつつも、1人になってから、あらためて『イノセンス』の映像を思い浮かべてみると、その友人が語った「目の疲れと頭の混乱」という言葉が、なんだかとても重要な意味をもっていることに気がついた。

 

 

 結論を先にいうと、『イノセンス』の “ごちゃごちゃ感” こそ、まさに(我々を巻き込んで日々暴走していく)「資本主義社会」のメタファーなのではないか。


イノセンス』の映像は
資本主義をデザイン化したもの

 

 資本主義とは、本来なら同じ空間にあり得ないようなものを強引に組み合わせ、それまで誰も思いつかなったデザインの商品に仕立てあげるシステムのことをいう。
 その組み合わせが突拍子もないものであればあるほど、それが「新しい刺激」だと評価される。

 

youtu.be

 『イノセンス』で圧巻なのは、奇怪な山車が次々と街路を行進していくパレードのシーンである。
 山車に載せられているのは、中国の京劇のような仮面をつけた巨大人形たち。
 その山車を動かしているのは、インドの祭りで使われるような象の形をした巨大ロボット。

 

 

 パレードする群像の背後にそびえるのは、ニューヨークの摩天楼のような建築群。
 そういうシーンが連続する画面の背後に鳴り響くBGMは、日本の雅楽とわらべ歌を混在させたような土俗的かつ呪術的な歌。

 

 

 過去と未来
 西洋と東洋
 近代と古代
 
 『イノセンス』のパレードシーンはそれらが混在一体となった、まさに万華鏡のように錯綜したヴィジュアルで埋め尽くされている。


 これこそ、我々が日々体感している「資本主義社会のデザイン」そのものだといっていい。

 我々は、それに魅了されながらも、それに疲れていく。
 高度資本主義のもたらす情報過多社会に、目も疲れ、頭も混乱していく。
 ただ、不思議なことに、その疲労は、実に甘美なのだ。


資本主義には価値の序列がない

 

 なぜ、そのような疲労感が蓄積していくのか。
 資本主義のもたらす情報には、価値の序列がないからだ。

 

 価値の序列がないということは、個人がどんな商品を選んでも満足が得られないことになり、一つのものをゲットしても、すぐさま別の欲望に突き動かされることを意味する。

 

 

 『イノセンス』のパレードで描かれる京劇風仮面も、インド象ロボットも、ニューヨークの摩天楼的景観も、日本の土俗的歌謡も、そこには何一つ関連性がない。
 それらは、どぎついエキゾチシズムによって、視聴者の目を奪うことはあっても、どれひとつ価値の序列を持たず、意味もなく陳列されているにすぎない。
 この見事な “無秩序感” こそ、資本主義的ヴィジュアルの真骨頂だ。

 

主人公の “意味不明” 
のモノローグの正体

 

 『イノセンス』という作品において、そのことを別の側面から暗示しているのが、登場人物の会話に登場する “哲学的言辞” である。

 


 

 主人公のバトー(↑)は、古典哲学の文言をしょっちゅう口走る。

 

 「シーザーを理解するためには、シーザーになる必要はない」(マックス・ヴェーバー)。
  「ロバが旅に出たところで、馬になって帰ってくるわけじゃねぇ」(西洋のことわざ)。
  「自分のツラが曲がっているのに、鏡を責めて何になる?」(ゴーゴリ)。

 

 こういうつぶやきの出典は、ロマン・ロランゴーゴリの小説、ミルトンの詩、マックス・ウエーバーの論文、旧約聖書の詩文、世阿弥能楽書、孔子論語仏陀の経典など多岐にわたる。

 

 だが、バトーはけっきょく何も語っていない。
 彼の “省察” は、ストーリーの展開にほとんど関与しないからだ。
 つまり、テレビからひたすらシャワーのように放水されるCMのようなものなのだ。

 

 ある商品の有益性を訴えたCMは、15秒後には、別の商品のCMによってかき消される。
 それは、ある意味、ニヒリズムの連鎖といってもかまわない。

 つまり、CMなどを通じて、その都度その都度、市場に “新しい商品価値” が出回るということは、結果的に、資本主義社会とは一種のニヒリズム社会であることを証明しているにすぎない。

 なのに、その渦中にいると、資本主義が紡ぎ出す夢のすべてが美しく、魅力的に輝いて見える。
 『イノセンス』のパレードに描かれるヴィジュアルは、まさにそういう状態を形象化させたものだといっていい。

 

 実は、水野和夫氏という経済学者の資本主義解説をよく読む。

 彼は自著のなかで、次のようなことを示唆する。

 

 「経済学において、数学的合理性だけでは人間の経済活動を説明するのは困難だということが昨今は知られ始めている。芸術作品のように、“有用性” のないものが投資的価値をどんどん上げていくということを従来の経済学の言葉では説明できない。…… 資本主義のほんとうの姿を解明するには、どうしても文学、演劇、哲学、美術の知識を総動員していく必要がある」

 

 『イノセンス』のパレードシーンを「資本主義社会のデザイン」のように感じたというのは、もしかしたら、水野和夫氏が語る資本主義論に触発されたものかもしれない。