BSのWOWOWシネマで、『ONE PIECE(ワンピース)』の劇場版アニメを延々と放映していた。
コロナ禍のせいか、最近のWOWOWシネマは、ステイホーム中の “子供&若者” 向けの企画ばかりで、私のような年寄りにはまったく面白くないのだけれど、そういうときに、1日中『ワンピース』を流されてしまうと、やっぱりちょっとやりきれない。
この作品を、どう楽しめばいいのか。
もし、上手に解説してくれる人がいたら、ぜひ楽しみ方を教授してもらいたいと思っている(皮肉とか挑発で言っているわけではない)。
いうまでもなく、『ワンピース』は、日本の若者の大半に愛されている “国民的コミック” である。
Wikipedia によると、この漫画の累計発行部数は(2020年4月3日データによると)4億7000万部を突破しており、「最も多く発行された単一作家によるコミックシリーズ」としてギネスの世界記録に認定されているのだとか。
だから、もしこの漫画(およびアニメ)を批判したりしたら、たちまち大炎上ということになりそうだ。
でも、私は、この作品を好きになれない。
その理由をちょっとぐらい書いてみたいという衝動に駆られている。
これまで私は、この「はてなブログ」においては、多くのファンを持つような作品をなるべく批判しないように心がけてきた。
私にとって、「自分の趣味には合わない」と思える作品であっても、世の中には、それをこよなく愛しているファンたちがいる。
そういう人たちは、好きな作品を他人にけなされたりしたら、悲しくなるだろうし、傷つくだろうし、腹も立つだろう。
それは十分に分かるのだが、それでも私は、このコミック(というか)アニメの絵をまったく好きになれない。
ま、見なければいいだけの話なんだがな … 。
そう突っ込まれることは分かっているのだが、長いことディズニーアニメや、ジブリ系や、押井守の『イノセンス』のような絵を愛してきた私としては、『ワンピース』の絵には得も言われぬ違和感を感じてしまうのだ。
いったい、なぜ作者(尾田栄一郎氏)は、このようなタッチの荒い線画にこだわるのだろうか?
主人公のルフィの目は、ものすごくシンプルな円形。
瞳は “ナカグロ(黒点)” 。
その円形構造が、喜怒哀楽に応じて直径を伸ばしたり、縮めたりするだけ。
口は両頬に達するほど大きく、笑っても、怒っても、上下の歯ががっちり噛み合っていることが多い。
つまり、基本的にルフィという人間は、いつでも歯を食いしばっているのが常態ということを暗示している。
他の登場人物も基本的に同じ。
シンプルな線画で、丁寧さよりは粗さが強調される。
自分の好みを優先してしゃべる機会を与えてもらえるのなら、私はまずこの荒いタッチの人物造形が好きになれないのだ。
そこにキャラクターの内面の貧困さが露呈しているように見えるからだ。
ま、それは個人の好みの問題だから、私がそう言い切っちゃうと『ワンピース』の信奉者は腹立たしい気分になるだろうけれど、嫌われることを覚悟ではっきり繰り返す。
「俺は、この漫画に出てくるキャラクターたちの “顔” が嫌いだ!」
彼らの表情はみな怖い。
ルフィの仲間であるサンジやロロノア・ゾロは、常に相手を威嚇しているようにしか見えない。
才色兼備の美女とされるナミも、絵が荒いだけでなく、男に対する態度が荒いし、言葉もきつい(ツンデレ狙いなんだろうけれど)。
だから、最初に観たとき、そういう人物たちが、ルフィの仲間ではなく、みな敵役だと勘違いしてしまったほどだ。
彼らは、仲間同士が声をかけ合うときも、物腰が荒く、表情も言葉も優しくない。
だからこそ、逆説的に、表面に現れない仲間同士の絆の強さを強調することになるのだが、こういう感情表現って、基本的にヤンキーである。
このアニメを観ていて、すぐに感じたのは、ヤンキー文化だった。
「考えるな、感じろ」の世界。
「自分が幸せかどうかは、夢を持てるかどうかで決まる」
「大事なのは、冷静さではなく、気合」
「法や道徳的規範よりも、仲間の絆が大事」
「ワンピース」の中心にドカッと居座っているのは、このようなヤンキー文化だ。
特に、ヤンキー気質のなかでも「気合」は何よりも尊いものとされ、体も小さく、さほどクレバーとも思えないルフィが主人公でいられるのは、「気合」の激しさで、一個人の限界を超えた力を発揮するからだ。
ヤンキー的なノリは、ルフィに限らない。
仲間全体がそうだ。
基本的に “麦わらの一味” は喜ぶときも、騒ぐときも、さらには戦う前でも、常にアゲアゲ・ノリノリの「テンションMAX」。
恒常的に躁状態でいるのが、彼らの特徴である。
日本に、現在のようなヤンキー文化が定着したのは、1990年代だといわれている。
それ以前の若者には、他者を威嚇して犯罪を犯すような “不良グループ” しかいなかった。
しかし、1990年代になると、その不良グループが形を変え、強面(こわもて)キャラを維持しつつも、お茶目で、和気あいあいと仲間同士のコミュニケーションを楽しむ今のヤンキー気質を見せるようになってきた。
「ワンピース」の漫画連載が始まったのは、1997年。
まさに、ヤンキー文化の興隆と期を同じくしている。
両者には、どういう関係があるのだろうか。
ネット情報によると、過去に、NHKの『クローズアップ現代』という番組で、「漫画 “ワンピース” メガヒットの秘密」という特集が放映されたという。
それによると、そこに登場した解説者が、
「『ワンピース』の魅力は、登場人物が仲間を大切にするところ、仲間のために敵に立ち向かうところにあり、それこそ『ワンピース』が連載された時代の世相と関係がある」
といったそうな。
どういうことか。
そのネット情報を多少意訳しながら、紹介してみる。
「『ワンピース』の連載が始まった1997年というのは、日本ではバブルが崩壊し、経済が停滞した時期だった。
このときに、「就職氷河期」という言葉が生まれ、やっと就職した若者も、企業の終身雇用制の廃止やリストラの実施で、閉塞感につつまれていた。
これまでの価値観がそうやって崩壊していくなかで、若者が努力しても報われない社会状況が進み、『ワンピース』のように、挫折やトラウマを抱える登場人物たちが、仲間との絆を強めながら過去の欠落感を埋めつつ未来に向かっていくという話が読者の共感を誘った」
NHKはそう言ったらしいが、たぶん、この分析は外れていないだろう。
というのは、(最近ずっとブログで書いてきたことだが)、1990年代は、日本人を取り巻く社会環境がドラスティックに変化し、それに応じて、日本人の価値観や人生観がガラッと変わった時代だったからだ。
慶應大学経済学部の井手英策教授(写真下)は、あるテレビ番組(BSフジの「プライムニュース」)で次のように語っている。
「90年代の後半に、日本社会や日本経済は劇的に変わった。政治・経済・社会・文化のデータを見ると、どの分野でも、驚くほど一斉に変わったことが分かる。
この時期、日本はグローバルな経済戦争に巻き込まれ、その過酷な競争のなかで日本企業はひん死の状態にあえぐことになった。
さらに、バブル崩壊によって、土地の地価が下がり、銀行の融資を受けようとしても土地の担保価値がどんどん減少していった。
(そのため)96年から97年にかけて、日本の各企業は内部留保を増やす方向に舵を取った。(つまり)人件費を削って、非正規雇用を増やしていく方向にはっきりと転換した。
このときの自殺者の数は33,000人に達した。それは雇用の場を奪われた人々の悲鳴だった。
そのすべてが、グローバリズムの中で生き延びるという国際競争のなかで起こった悲劇だった」
この時期、格差社会の下層に甘んじなければならない若者が大量に生まれた。
『ワンピース』は、そういう時代に登場した作品だった。
この物語の主人公たちが “海賊” であることは象徴的である。
つまり、社会のエリートコースに進むことをあきらめざるを得ない若者たちに対して、この漫画は、アウトローである海賊のように、優等生的な規範の “外” に飛び出す勇気と夢を与えることになったのだ。
そういう漫画(&アニメ)だけに、ネットに出てくる『ワンピース』をめぐるファンの言論は、少し宗教がかっている。
つまり、“神マンガ” として熱狂的に崇拝する人たちの熱気がすさまじいのだ。
ごく一部だが、この作品に対して批評的な意見を述べたブログもあった。
そのブログ主は、『ワンピース』という作品に対して、
「“信念と叫び” ばかりが強調される無内容な作品。主人公のルフィの心情を占めているのは、空虚な精神論だ」
という結論でしめくくっていた。
案の定、この記事は真っ赤に炎上した。
あらんかぎりの罵詈雑言が、そのブログ主の記事に書き込まれた。
いわく、
「“人気漫画を否定してる俺カッコイイ” っていう典型的な奴ですね(笑)」
いわく、
「論ずるのであれば、全巻(100巻近い)を読んでからすべきだと思いますよ」
いわく、
「嫌いなら嫌いでいいけれど、ネットで批判するなよ。チラシの裏に書いてろよ」
いわく、
「面白くなかったら売れてねーよボケナス、頭おかしいんじゃね?」
いわく、
「あんたが時間かけてこの小さいアンチ記事を書いて『ONE PIECE』に噛み付いてる同じ時間に、(作者の)尾田は世界規模で評価されてる漫画の原稿を描いて、とっくに一生遊んで暮らせる金を稼いでるんだぜ。
人の書いたものを批評してるヤツが何言っても、説得力ないんだよ」
まだまだ批判コメントは続くが、内容は大同小異であった。
基本トーンとして、「売れたものこそ正義」というジャッジがそこで働いているようだった。
コロナ禍のまっただ中で外出自粛規制が発令されたあと、営業を続けるパチンコ店などにネット上の批判が集中したが、その “正義感” に近いパワーがそこには漂っていた。
『ワンピース』の連載が開始されてから、約25年。
イメージとしての “海賊” に鼓舞された若者たちは、いま35歳から45歳ぐらいになっている。
ネット情報によると、今の『ワンピース』の読者層の9割は大人だという。
そのコアとなる読者層は、20歳代から40代半ばまで。
一般的に、ジブリアニメを愛した世代より10歳ほど若い。
ジブリ作品の場合は、『風の谷のナウシカ』が1984年。『天空の城 ラピュタ』が1986年。『となりのトトロ』が1988年。
現在も語り継がれるジブリの初期の名作といわれるものは、いずれも1980年代に登場しており、その作品に接したファン層も、1990年代後期に登場する『ワンピース』より1世代古い。
10年の違いでしかないが、80年代のジブリと、90年代の『ワンピース』がそれぞれ背負っている “世界観” はあまりにも違う。
『ワンピース』のファンは、物語の背後に貫かれている世界観の深さを強調したがるが、それはジブリ系作品と比較した上でのことだろうか。
▼ 宮崎駿 『もののけ姫』
これは、私の個人的感想だが、ジブリ作品は観客に「宿題」を残す。
たとえば、『もののけ姫』を観た後には、
「文明と自然は共生できるのだろうか?」
「人間という存在は文明なのか? それとも自然なのか?」
などという宿題を渡された。
『風立ちぬ』を観た後は、
「国家が戦争に向かうとき、技術者には何ができるのか?」
「技術者や科学者に戦争を止めることは可能なのか?」
といった宿題を与えられた。
しかし、『ワンピース』には宿題が何もなかった。
「悪人が退治され、仲間がみな帰ってきて、めでたしめでたし」
で終わってしまったのだ。
エンターティメントはそれでいいという意見もある。
“芸術” ならば、作者からのメッセージも必要だろうが、エンターティメントには観客の頭を悩ませるようなメッセージは不要だという人が多い。
事実、『ワンピース』の原作者である尾田栄一郎氏自身が、
「世の中に対してどうこう言うような難しいメッセージは、作品に持ち込まないようにしている」
と言っているのだから、ジブリ系アニメのような思想性を『ワンピース』に求めるのは “お門違い” ということになるだろう。
まぁ、世の中にいろいろな作品があっていい。
芸術的な嗜好が強い人もいれば、エンターティメントにのみ関心を寄せる人もいるからだ。
ただ、自分がアニメを鑑賞するなら、ジブリ系の方が好きだ。
さらに好みをいえば、自分が思っている日本のアニメの最高傑作は、(現在のところ)2004年に押井守が制作した『イノセンス』だ。
たぶん、ここで追求された映像美は、21世紀アニメの金字塔となるはずだ。