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三島由紀夫 没後50年

 

 作家の三島由紀夫が、自衛隊の市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げた事件(1970年11月)から、今年で50年経つ。

 

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 それにちなんで、テレビも含め、いろいろなメディアで三島の生前の功績やあの事件の意味を問うような企画が続いた。

 

 昨日の夜、その一つであるEテレの『三島由紀夫 没後50年』という番組を見た。
 そこでは、三島が創設した元「盾の会」メンバーへのインタビュー、文芸評論家たちの分析などが行われていた。

 

 また別の番組では、生前の三島を知らない若者たちに、「三島という作家に対する印象」を尋ねたりもしていた。

 

 意外なことに、三島に対して強い関心を持っている若者が多いことを知った。
 作品を愛読している若者も多く、その文章に傾倒していると告白をした人もいた。

 

 今の若者にとって、三島由紀夫とはどういう存在なのだろう。
 私はそこに興味を持った。

 

 たぶん、今の若い人たちは、三島の作品(および行動)から、今の時代に欠けている「精神の強さ」みたいなものを感じたのだろうと思う。

 

 「死」を賭してまでも何かを訴える。
 そういう苛烈な生き方を、今の若者は経験したことがない。
 さらにいえば、彼らの両親や教師からも、そういう人生を歩んできた気配が感じられない。

 

 一見平和で、どんな自由も許されているような現代社会。
 しかし、そこには真の明るさはなく、理由の分からない閉塞感だけが漂っている。

 

 若者たちのそういう “いらだち” が、「死」を賭して決起した三島由紀夫という存在に対する関心を呼び寄せているような気がする。

 

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 1970年。45歳の三島が自ら命を絶ったとき、私はちょうど20歳だった。
 私も “時代の子” であったから、三島由紀夫という作家の著作は多少は読んでいた。

 

 デビュー作ともいえる『仮面の告白』、吉永小百合山口百恵などが出演した映画として評判を取った『潮騒』、金閣寺の放火犯を主人公にした『金閣寺』、2・26事件をテーマにした『憂国』といった話題作もフォローしていた。
 また、小説だけでなく、『私の遍歴時代』や『文化防衛論』のようなエッセイにも目を通していた。

   
 が、はっきり言って、「感動した」といえるほどのものが少ないのだ。
 『花ざかりの森』のような、彼が少年期から青年期に書いた小説にはものすごく愛着を感じたが、彼が大人になってから書いたもの大半は、私にはあまり面白いとは思えなかった。
   
 作家として大成してからの三島作品の印象を一言で語ってしまうと、その文章から「リアリティ」というものが感じられなかったのである。
 
 ところが、彼はこんなことをいったらしい。
 「私は、現実には絶対にありそうもない出来事をリアリスティックに書く」
 (『盗賊ノート』)
  
 この言葉を、どこか別の本で読んだとき、「不思議なことを言う人だな」と思った。
 私の印象はまったく逆で、現実によく起こりそうな出来事を、きわめて観念的に書く作家というイメージがあったからだ。
  
 “リアリスティック” に書かれたものが、リアリティを保証するとは限らない。

 三島由紀夫は、たとえば『金閣寺』において、金閣寺に放火する若い僧の内面を、彫刻を刻むがごとくに、精緻に巧妙に穿(うが)っていくが、そこで描かれる人間の内面世界は、「美への希求」とか「美への嫉妬」などという抽象化された観念に過ぎず、生身の人間の手触りがごっそりと抜け落ちているように思えた。

 

 このように、三島作品そのものからはさほどの感動は得られなかったが、しかし である。
 彼の作品をテーマにした批評家たちの書く “三島論” には、どれも大いに想像力をかき立てられた。

 

 いちばん最初に読んだのは磯田光一の『殉教の美学』(1964年)だった。
 これは、三島自身の書いたどの著作よりも数段面白くて、刺激的に思えた。

 

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 磯田氏の三島由紀夫論は、セルバンテスの書いた有名な『ドン・キホーテ』の紹介から始まる。
 
 『ドン・キホーテ』とは、こんな話だ。
 
 17世紀初頭、中世の騎士の時代が終わったにもかかわらず、騎士を気取るスペイン人ドン・キホーテは、従者のサンチョ・パンサと二人で「騎士道を生きる旅」に出る。
 キホーテは、ただの風車を伝説上のドラゴンと間違えて突進するような人で、いわば妄想に取り付かれた老人である。

 

 その狂人キホーテに、正気のサンチョ・パンサはうんざりしながらも従者として付き従う。

 

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 だから、この物語は、現実を錯誤して空騒ぎを続ける “狂人” と、現実を直視する “理性の人” の物語と読めないことはないという。

 

 そして、後世の評論家たちは、この物語の中に、滅び行く中世的ロマンの世界を生きるドン・キホーテと、勃興する近世の合理主義精神を生きるサンチョ・パンサという、時代が交代するときの「寓話」を読み込んだ。

 

 こういう『ドン・キホーテ』の通解に触れながら、磯田光一氏は、途中から一気にその話を三島由紀夫と結びつけたのだ。

 

 そして、
 「三島由紀夫という作家は、まさにドン・キホーテだ!」
 と言い放った。(まだあの事件が起こる前である)

 

 磯田氏は、『ドン・キホーテ』という作品の歴史的評価とはまったく逆に、
 「キホーテは、風車とドラゴンと間違えたのではなく、冷静に風車を風車として認識したうえで、あえて戦いを挑んだのだ」
 といってのけた。

 

 では、ドン・キホーテのイメージを着せられた三島由紀夫は、いったい何と戦ったのか?

 

 「三島は、戦後民主主義という人々の虚妄と戦った」
 磯田光一氏はいう。

 民主主義は、戦後の日本人が手に入れた最高の政治形態のように思われがちだが、その副産物として、倫理観を失った金儲け主義などを助長させ、日本人の心をむしばんでしまった。

 

 三島は、自分が狂人と思われることを覚悟のうえで、戦後の国民意識を頽廃させた「戦後体制」そのものに戦いを挑んだ。
 …… と、磯田氏はいう。

 

 当時、高度成長の経済発展を謳歌した日本人たちは、戦後社会がかろうじて保っていた「精神の緊張感」を失い、経済大国への道を歩み始めた日本の繁栄に酔いしれ始めた。

 

 それに危機感を持った三島が、
 「あえてドン・キホーテを演じることによって、堕落しそうな日本人たちに警鐘を鳴らした」
 と磯田光一は喝破した。

 

 そのとき三島が持ち出した「天皇」という概念は、戦後民主主義の虚妄を暴くための方便だった。


 すなわち、三島は、戦後民主主義が毛嫌いする「神としての天皇」をあえて持ち出すことによって、虚偽の「平和」に酔いしれる日本人たちに意識の覚醒を迫った。

 

 この磯田氏の指摘は、私にとってまさに青天の霹靂ともいうべき衝撃を与えた。
 そしてようやく私は、当時の三島の意志がおぼろげながら解かるようになった。

 それまで、私には、三島の実生活がとても奇怪なものに思えていた。

 

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 いきなりボディビルを始めて、筋骨隆々たる肉体を作ってみたり、鉢巻を巻いて日本刀を振りかざしてみたり、映画にチンピラやくざの役で出演してみたり、自衛隊体験入隊してみたり、今のディズニーランドにも似た大袈裟なフランス風邸宅を築いてみたり、天皇制護持者として左翼の東大全共闘と討論してみたり、疑似軍隊のような「楯の会」を結成してみたり、 やることなすこと奇怪なことばかりだった。

 

 しかし、この謎の行動が、磯田光一氏の “三島 = ドン・キホーテ論” である程度氷塊したのである。

  
 そこで、三島に関する論評をさらに読みたくなり、磯田氏の著作に続いて、野口武彦氏の『三島由紀夫の世界』(1968年)という評論を読んだ。
 これも磯田氏の『殉教の美学』に負けず劣らず面白い作品だった。

 

 野口氏は、三島をドイツ・ローマン派の文脈の中に位置づけ、三島のことを「典型的なロマン主義的人間」と定義して、その文学を分析した。

 

 氏にいわせると、「ロマン主義文学」というのは、アイロニー(逆説・矛盾)の力によって成立するという。

 

 つまり、「墜落」を前提とした「飛翔」を求めるのがロマン主義であり、「飛翔」による栄光の獲得は、結果として待ち受ける「墜落(挫折)」によって保証されるというのだ。

 

 野口氏は、そういう「挫折を迎える」ための高揚感や情熱こそが、ロマン主義の精神を支えるとしたうえで、三島の心情にそれを読みとった。

 

▼ 常に「ここではないどこか」をイメージさせるロマン派の絵画や文学
 (ドイツ絵画の巨匠 フリードリッヒの絵)

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 当時私は、磯田光一野口武彦の「三島論」が双璧だという思いを抱いていたが、その後も岸田秀野坂昭如橋本治という人々が、ことあるごとに三島論を書いていて、それも全部読破した。
 

 だが、三島由紀夫に関する論評をどれだけ読破しても、必ず最大の謎が残ってしまう。

 

 それは、1970年に、三島が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で決起(クーデター)をうながし、その後自らの腹を開いて自死してしまったことだ。

 

 けっきょく、50年後の今も、そのことは、三島を語る人々の最大の「謎」として語り継がれている。

 彼のこのときの行動は、何を目的としたものだったのか。
 それを完璧に言い当てた人は、いまだに一人もいない。

 

 いったい、三島は、何をしたかったのだろう?
 
 40年ほど経ってから、私なりに考えたことが一つある。
 それは、映画監督のヒッチコック(1899年~1980年)が、「謎」の本質を突き止めた、ある体験談がヒントになっている。

 

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 ヒッチコックがある日、列車に乗ると、外国人ふうの男たちが「マクガフィン」なるものについて話しているのを目にした。

 

 ヒッチコックは、男たちの会話に興味を抱き、ずっと耳を傾けるが、話を聞いているだけでは、「マクガフィン」が何のことだかさっぱり分からない。
 分からないので、よけい知りたくなり、聞き耳を立てながら、あれこれと推測するのだが、やはり分からない。
 
 そこで、ヒッチコックはふと思った。
 「そうか! 観客を映画に引き付けるためには、映画のなかに “マクガフィン” を一つ設ければいいのだ」
  
 つまり、登場人物たちにあれこれと「謎」の周辺を語らせるけれど、「謎」の正体そのものは語らせない。

 

 すると、映画の観客は、そのもどかしさに耐えられず、どんどんその「謎」の真相を知りたくて、作品を過剰に読み込んでいく。
 
 結局、「マクガフィン」そのものには何の「意味」がないのだが、その「中身」を欠いた空虚さが、ブラックホールのように観客の意識を吸い込んでいく。
 
 このエピソードは、大塚英志という評論家が書いた『物語論で読む村上春樹宮崎駿 - 構造しかない日本』(2009年)という本で紹介されたものである。
 
 この本に登場した “マクガフィン” の話は、それまで私のなかでくすぶっていた “三島由紀夫事件” の「謎」をあっさりと解いたように思えた。

 

 三島由紀夫も、ヒッチコックと同じように、「自分の人生」にマクガフィンを潜ませたのだ。

 

 三島は、優れた洞察力を持つ人であったから、自分が書いた小説が「永遠の古典」として残ることに疑問を抱いた可能性がある。

 

 若い頃から東西の古典文学になじんだ三島は、自分の作品がそれらの古典のように、後世に評価されることに懐疑的であったかもしれない。

 

 ならば、どのようにして、自分の存在を “永遠” にすることができるか?

 

 それには、自分自身が「謎」になることだ。
 人間の生命は、命が尽きたときにすべて終わるが、「解けない謎」は永遠に死なない。

 

 そこで三島は、普通の人が「謎」に思えるような自死を遂げることによって、
 「彼の書いた作品には、きっと読者が理解できないような深い意味が潜んでいるに違いない」
 と読者に思わせる仕掛けを施した。

 

 そうだとしたら、素直に頭が下がる思いもする。
 これ以上の「マクガフィン」を設定することは、もう誰にもできないだろう。

 

 三島由紀夫は最初から “マクガフィンの人” であり、磯田光一氏も野口武彦氏も、みなそのマクガフィンの魅力に引っかかったのだ。
 それはそれで、三島の凄さだなぁ と思う。

 

 最近読んだ本に、佐藤秀明氏の書いた『三島由紀夫 悲劇への欲動』(2020年10月20日刊)という本がある。

 そのなかで、
 「三島由紀夫は死後に成長する作家だ」
 という文芸評論家・秋山駿氏の言葉が紹介されていた。

 

 なるほど、と思った。
 おそらく、没後50年のあと、「没後60年」、「没後70年」という形で、三島は奇跡のように復活を遂げるだろう。
 あの「謎の死」があるかぎり。 
  

  
 最後に、三島の初期短編について触れる。

 冒頭で私は、彼の初期作品に感動したことを書いた。
 それは、『花ざかりの森』であり、『中世』であり、『岬にての物語』である。
 なかでも、彼が16歳のときに書いたという『花ざかりの森』は、いまだに忘れられないほど美しい短編だと思っている。

 

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 この短編には、巻頭にギイ・シャルル・クロスという詩人の作ったエピグラフ(銘句)が添えられている。

 

 こんなフレーズだ。

  かの女は森の花ざかりに死んでいつた。
  かの女は余所(よそ)にもつと青い森があると知つてゐた。
  (堀口大學 訳)
  
 ここでいう「余所(よそ)にある青い森」が何を意味するのか不明だが、想像するに、その場所は、とにかく今いる場所からとてつもないほど遠く離れていて、もしかしたら、人間は到達することもできないかもしれない、という含みを持った場所である。

 

 私は、三島由紀夫という人は、この16歳のときに掲げたエピグラフを、生涯なぞった人のように思える。

 つまり、「死」の彼方にある、「もっと青い森」を生き続けた人なのだと思う。