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パンデミック後の世界はどうなっているのか?

 前回の記事で取り上げた『パンデミックが変える世界 ~歴史から何を学ぶか~』(NHK Eテレ)という番組は、それなりに反響があったようだ。
 私のブログ以外にも、ネットでこの番組を採り上げたサイトがいくつもあり、それぞれ好意的に評価していた。

 

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 テレビで新型コロナウイルスを報道するとき、これまでは、感染がどこまで拡大するのか、医療体制は大丈夫か、経済的ダメージの補填はどうするか、といった実務的な話題に終始することが多かった。

 

 しかし、同番組は今回のコロナウイルスショックを、「感染症と人類」という文明論的視点に立って、思想の問題として採り上げた。

 

 こういう番組に視聴者の注目が集まったということは、現在のコロナショックが新しいフェーズを迎えたことを意味する。

 

 すわなち、コロナ問題は、単なる生活や経済や医療の問題ではなく、すでに人間が考えなければならない哲学的課題になってきているということなのだ。

 

 それはまた、このコロナ禍が、世界の人間に長期戦に備える覚悟を持たせたことを暗示している。

 

 実際、コロナウイルスの脅威がいつまで続くのか、誰も答を出せない。
 研究が進んできても、いまだこのウイルスの特性が特定できず、ワクチンの開発も進んでいない。

 

 そのため、北半球で猛威を奮っているコロナウイルスが、いつなんどき南半球に飛び火するかも分からず、そうなった場合、もし北半球の感染が沈静化しても、今度は南半球から北半球に向かってウイルスが再上陸する可能性も出てくる。

 

 つまり、このコロナ禍は、「夏になったら終息するだろう」などという短期的な予測を超え、「人類が氷河期を迎えた」とか、「白亜紀に隕石が地球に衝突し、恐竜が死に絶えた」というレベルのスケール感を持つものになることもありえるのだ。

 

 人々にそういう危機意識が芽生えてきたからこそ、実存主義文学者として知られるカミュの『ペスト』などという小説が話題になり、小松左京の『復活の日』やJ・Gバラードの『結晶世界』などが再び読まれ始めたのだ。
  

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 今回の『パンデミックが変える世界』においても、カミュのペストがとり上げられていた。

 

 ゲストの一人、磯田道史氏(写真上)はこういう。

 

 「疫病というのは、これまでは、なかなか歴史のテーマにならなかった。その流行が時代を変えてしまっても、歴史家はあまりとり上げてこなかった。なぜなら、疫病は “見えない” から」
 
 戦争や災害は、人々の住んでいる風景を一変させる。
 それは “目に見える” 災難として、人々の記憶に残る。
 しかし、疫病は風景そのものを変えることはない。
 だから、人類の記録として残されないのだ、と磯田氏は指摘する。

 

 カミュの『ペスト』は、そういう “見えない疫病” を真正面からとらえた小説だった。
 だから、ペストという疫病は文学になることによって、ようやく集団としての記憶になったのだ。

 

▼ 17世紀のイタリアでペストに罹った患者を治療する医師。
仮面舞踏会のようなマスクで顔を覆い、目に眼鏡をかけている。
鼻が突き出ているのは、ペストによる死者の死臭を防ぐための
ものだという。(同番組で紹介されたイラスト)

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 磯田氏は、日本のスペイン風邪についても言及する。

 

 1918年から1920年にかけて、世界をスペイン風邪が襲い、日本人でも50万人近い死者が出た。

 

 しかし、なぜかそのことはほとんど日本の記録に残っていない。
 わずかに、文学者の与謝野晶子(下)が、自分の子供たちがスペイン風邪を患ったとき、スペイン風邪に何の対策も施さなかった政府に愚痴をこぼしたくらいである。

 

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 つまり、今までは、国民の記憶として残るような文学でも生まれないかぎり、感染症は歴史や社会、文化を考察する対象とはならなかったのだ。

 

 しかし、今回の新型コロナウイルスの脅威は、ようやく人類に考えるべきことをいろいろ投げかけることになった。

 

 そのなかから、今後の人類が選ぶべき政治体制はいかなるものがいいのか、という重要なテーマも浮上してきた。

 

 それは、新型コロナウイルスのように、爆発的な感染力を持った疫病が流行った場合、それを鎮静させるために、国家が取るべき手段はどういうものが望ましいのか?  というテーマである。

 

 同番組では、『サピエンス全史』などの著作で知られるユヴァル・ノア・ハラリ氏(下)の主張を紹介した。

 

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 「選択肢は二つある」
 とハラリ氏はいう。

 

 一つは、全体主義的な監視社会を強化させ、人民を強権的な管理で統制して、コロナを撲滅するという方法。

 

 もう一つは、市民に情報をすべて公開し、市民自身に判断力をつけさせ、彼らの自己決定力を高めてコロナに打ち勝つという方法。

 

 前者が今回中国の採った方法で、後者が今EUアメリカ、日本が採っている方法である。

 言葉を変えていえば、中国のような「独裁的な解決法」を選ぶか、それとも欧米流の「民主主義的な解決法」を選ぶかという選択にほかならない。

 

 どちらの道が正しいのか?
 それは現段階では答が出ていない。

 

 中国は強権的な人民の囲い込み政策を実施し、(中国政府の言葉を信じれば)とりあえず、ウイルス感染を鎮静させる方向に向かっていることになっている。

 

▼ 中国の市街には人民を監視するカメラが大量に取り付けられている

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 いっぽう、欧米諸国や日本は、いまだに感染が拡大し、死者も急増している。

 今のところ、中国の独裁的な強権発動の方が、ウイルス対策には効果があるように見えてしまう。

 

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 だから、習近平政権はいうかもしれない。
 「民主主義的な解決方法では、ルールやマナーを守らない人民を制御することができない。こういう非常時には、強権をもってすべての人民を従わせるしか方法がない」

 

 ここで問われているのは、「民主主義とは何か?」という問題でもある。

 

 「民主主義」は、国民ひとり一人が自由に物ごとを考え、自由に行動することを保証する。
 しかし、その “自由さ” のなかには、ウイルスに他人を感染させてしまう配慮を必要としない自由さも含まれるのだ。
 
 民主主義は、個人の「身勝手さ」もまた保証する。 

 

 今回のコロナショックは、ほんとうにいろいろなテーマを人間に突き付けているといえる。

  

 なお、同番組(パンデミックが変える世界)は、4月8日(水)の深夜、正確には4月9日(木)の午前0時00分~午前1時00分に再放送されるそうです。

 

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