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「民主主義」とは脆弱なものである

  

 世界各国で、「民主主義」が侵害されることの危機が叫ばれている。
 

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 香港の若者たちのデモ(上)から始まり、タイにおける反政府デモ。
 そして、ベラルーシの反大統領デモ。

 

 さらに、ナイジェリアにおいても、独裁的な軍政権に反対する抗議デモが勃発した。

 

 それらを伝える日本メディアの報道では、決まって、
 「民主主義の危機に対する抗議」
 という言葉で説明される。

 

 アメリカの大統領選挙においても、強圧的なトランプ政権に異議を唱える民主党の発言には、「民主主義を守る」という言葉が折り込まれることが多い。
 
 日本では、菅首相が学術会議のメンバー105人のうち6人を任命拒否したことについても、野党がそれに抗議し、そういう一連の事件を「民主主義の危機」という言葉で説明する報道もあった。

 

 言葉の使い方が間違っている、とはいわない。
 確かに、いま世界各国で広がっている抗議活動は、みな「民主主義の危機」を訴えるものばかりだから。

 

 しかし、これらの問題を、その一言で説明してしまう考え方には違和感がある。

 というのは、「民主主義の危機を訴える」という言葉は、「民主主義は存続するのが当たり前」という思想が前提になっているからだ。

 

 甘い、と思う。

 

 「民主主義」というのは、政府も国民も、そしてメディアも、日々それを守ろうとして必死に努力していかなければ存続できない “脆弱なもの” なものでしかない。
 言葉を変えていえば、「常に危機にさらされている」ものなのだ。

 

 それを守ろうとするならば、私たち自身が日々「民主主義とは何か」、「それはなぜ必要なのか」という不断の問いかけを行っていかなければならない。

 

 ただ、そういう問題意識を持たなくても、日本に偶然「民主主義」が根付いた時期がある。

 

 日本においては、1960年代から70年代の高度成長期にかぎってだけ、世界でもまれに見るような民主主義国家が成立した。
 私たちは、それを “奇跡” とは思わず、当たり前のように享受した。

 

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 しかし、そういう日本型民主主義が可能になったのは、高度成長における経済的安定と、それによって誕生した膨大な中流家庭が生まれたからである。

 

 そのとき日本では、世界中の人々がうらやむような、収入の安定した中間層が誕生した。
 その中間層の経済的繁栄を基に、教育環境が整い、一定程度の知的レベルを持った国民が形成された。

 

 それが、日本の民主主義を築いた。

 
 つまり、「民主主義」というのは、教育の普及による “均一化された知的レベル” を持つ人たちが多数派を占めることによって、ようやく可能になるものなのだ。

 

 言い直せば、同じような知的価値を共有できる人々がたくさんいることが、民主主義の基礎となる。


 そういう条件が整わないと、民主主義に不可欠な “議論” というものが成立しない。

 

 民主主義は、一つのテーマに賛同したり、反対したりするという複数の意見が交差するなかでしか生まれない。
 つまり、「知性」が参加者に要求される。

 

 だから、「民主主義」は、経済格差・教育格差・文化格差がある国には根づかない。
  
 いま各国で「民主主義」を求める運動が勃発しているのは、逆にいえば、どの国においても、さまざまな “格差” が急速に進んできた結果といってよい。
 なかでも、世界的に進行速度を早めている「経済格差」が、民主主義の成長を阻む大きな要因になっている。

 

 いってしまえば、それはすべて「資本主義」の問題なのだが、それを説明すると長くなるので、ここでは省く。

 

 日本においても、世界で広がりつつある経済格差が進行している。
 私たちは、もう「膨大な中間層」に支えられた安定した国家体制を維持できなくなっている。
 つまり、日本の民主主義も危機的状況を迎えつつあるといっていい。
 
 
 では、民主主義の機能しなくなった国とは、どういう状態になるのか?

 

 民主主義を阻害するものとして、軍事政権のような、独裁的な権力機構を想像しがちである。


 もちろん、いま世界で起こっている「反政府デモ」の矛先は、独裁的で強圧的な政権に向かっている。

 

 そういう国家は往々にして、国民の意志をコントロールしやすくするために、「全体主義」的な統治形態をとる。
 まさに、今の中国がそうであり、それを極端に進めた国が北朝鮮である。

 

 ただ、そのような独裁国家だけが、「民主主義」を弾圧しているわけではない。

 

 これまで “民主主義的国家” だと思われていた国でも、国民の多くが「反知性主義」に陥ることによって衰退していくこともある。
  
 民主主義というのは、知的レベルが均一な国民によって支えられるものだと先ほど述べたが、その知的レベルが、経済格差・教育格差によって共有されなくなってくると、とたんに、怪しげな “陰謀論” や “都市伝説” が台頭してくる。

 

 いま大統領選を前にアメリカで広まっているのが、この怪しげな陰謀論・都市伝説のたぐいだ。

 

 アメリカでは、「Qアノン」といわれる陰謀論を信じる人々が、いま猛烈なトランプ支持を展開している。

 

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 これは、ネットを通じて、「Q」と名乗る匿名の人物によって流されているとされるSNS情報のことだ。

 

 その主張というのは、
 「アメリカには “ディープステート” と呼ばれる闇の政府が存在し、それが表の政府を牛耳っている」 
 というものだ。

 

 この “闇組織” は、児童売春を行う陰謀団が中心となり、そのメンバーには、著名な民主党政治家やハリウッドの大物スターも加わっている。

 

 彼らは、自分たちの存在を隠すためにマスコミにも手を伸ばし、国民を欺くような大衆操作を行っている。

 

 こういうデマ情報を簡単に信じるアメリカ人が急増。
 それがトランプ大統領の支持者として急速に発言力を増しているというのだ。

 

 彼らは次のように主張する。

 「これらの陰謀集団に対して、いま断固戦っているのがトランプであり、トランプが勝利しないと、アメリカは陰謀集団に乗っ取られる危険な国となる」

 

 冷静な判断力があれば、「バカバカしい」の一言で処理できそうな話だが、トランプを「現代の救世主」として崇める人たちにとっては、今回の大統領選は「悪魔(= 民主党)との戦い」という構図で理解される。

 

 彼らは、議論を望まない。
 「議論」というのは、必ず “反論” も想定されるから、それに応じてしまうと、闇組織の恐怖を理解させるための運動が阻害されると彼らは考える。

 

 つまり、彼らは(議論を前提とする)「民主主義」そのものを否定しようとしている。

 

 こういう考え方に染まった人は、そのうちテレビも見なくなる。
 新聞も読まなくなる。
 マスコミは、「闇組織」に汚染されていると信じるからだ。
 そのため、ネットで「Qアノン」情報だけをフォローし、それをまた自分でも拡散させていく。

 

 まさに、魔女裁判や異端尋問が横行したヨーロッパ中世の考え方が、現代アメリカで復活しているといっていい。

 

 魔女裁判や異端尋問が庶民を苦しめた背景には、ペストのような疫病が蔓延した時期とも重なる。

 

 ペスト菌の正体を知らなかった時代の人々は、ペスト禍を「魔女」や「悪魔」のしわざだと信じることによって、自分たちの心を納得させようとした。

 

 時代は、また過去へループし始めているといえよう。

 

 
 「Qアノン」の “陰謀論” 的な考え方を、さらに銃で武装することによって徹底させようという集団も生まれている。
 極端な “白人至上主義” を打ち出す「プラウド・ボーイズ」と呼ばれる民兵組織だ。

 

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 彼らは、武器携帯が認められたアメリ憲法を堂々と盾にとり、「アンティファ」や「ブラック・ライブズ・マター」といった、現トランプ政権に批判的な左派勢力に、武器をちらつかせて敵対する。

 

 彼らは基本的に、黒人やヒスパニック系住民の増大に危機感を感じており、白人の生存権を確保することを使命として、そのためには暴力を奮うことも辞さない。
 
 彼らも、自分たちの考え方を容認してくれるトランプ氏を崇拝しており、それと敵対する民主党勢力を鎮圧することに生きがいを感じている。

 

 このように、アメリカでは、国民の内部に、民主主義を崩壊させるような潮流が生まれている。


 
 それだけアメリカでは、経済格差・教育格差・文化格差が広がっているということなのだ。

 

 大統領選挙前の政治集会でみるトランプ支持者の熱狂は、その「格差」を自分たちで見ないようにしている必死な衝動から来るものである。