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「銃」という武器の悪魔的な力 

 

 アメリカ大統領選が近づいてきて、トランプ支持者のなかに、銃で武装して、反トランプ支持者たちを威嚇する(プラウドボーイズなどの)民兵組織が増えてきたことが話題になっている。

 

▼ 「ミリシア」といわれる民間の武装グループ

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 こういう光景は、日本ではまず見ることがない。
 われわれ日本人は、この物騒な人々に心理的な恐怖すら感じる。
 ヨソの国のことであっても、さっさと取り締まってほしいと思うのだが、アメリカ人にとっては見慣れた情景なのかもしれない。
 

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 アメリカの銃規制が進まないのは、銃の所持が法律で認められているということ以上の理由があるように思える。

 

 何か、人間の本能的なもの。
 銃を持つことによってのみ満たされるデーモニッシュな欲望。
 そういう人間の暗い情念にささやきかける魔力が、おそらく “生身の銃” にはあるのだ。

 

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 アメリカの法律では、銃の携帯は「自分の身を守るため」という名目で保証されている。
 特に、「テロに対する備え」という思考が定着し、アメリカでは、家族一人ひとりが一丁ずつ銃を所持する家庭もあるという。

 

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 こういう感覚が日本人には理解できない。
 「そんなことしたら、ちょっとしたトラブルですぐ撃ち合いになるのではないか?」
 そういう危惧がすぐ頭をよぎる。
 実際に、民間人同士の銃撃事件というのは、アメリカでは後を絶たない。

 

 だが、それでも、アメリカの銃規制は一向に進まない。
 一つには、銃の製造・販売で大儲けをしている「全米ライフル協会」が共和党の大きな支持母体であるため、その政治献金による収入を共和党系の議員も大統領も無視できないからだという。

 

 それでも、民主党オバマ前大統領は、任期中に銃規制に踏み出そうとしたことがあった。

 

 しかし、それが実行されることを懸念したアメリカの民衆は、
 「銃が買えるうちに買っておこう」
 と、それまで銃を持ったこともない人まで銃砲店に殺到し、空前絶後の売上げを記録したという。 

 

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 こういうアメリカ人の銃に対する熱烈な思いを、どう説明したらいいのか?

 

 よく言われるのは、アメリカの人民は、自分たちの独立を銃によって勝ち取ったという歴史を持っている、という説だ。
 イギリスに対する独立戦争のことをいう。
 つまり、アメリカ人にとって、「銃は自由と独立の象徴」なのだという。

 

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 しかし、そういう観念的な説明は方便というものだろう。
 銃と人間の関係は、(先ほどもいったように)もっとドロドロした物騒な衝動がからんでいる。


 つまり、人間が銃を持ちたいというのは、その動機として「撃ちたい」という欲望に支えられているはずだ。

 

 何を撃ちたいのか?

 

 彼らが「撃ちたい」対象は、人工的な標的の場合もあれば、野生動物であることもあるだろう。
 だが、ほんとうのことを言えば、まぎれもなく、彼らは「人」を撃ってみたいのだ。

 

 だからアメリカでは、自分の感情を制御できない人間が、学校などの公共施設で銃を乱射し、人を殺傷するという事件がよく起こる。

 

 脳科学者の中野信子さん(下)によると、多くの男性は銃を手に持つと、唾液のなかに “精神を高揚させる物質” が混じり始めるのだという。

 

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 つまり、武器には、それを手にするだけで、人間の神経を高ぶらせる力があるというのだ。

 

 確かに、昔の男の子たちは、みな銃の玩具(おもちゃ)を欲しがった。
 今でもモデルガンのマニアは多い。
 
 銃の玩具は、子供の心に、自己拡張の幻想を与える。
 自分の攻撃力が、素手のときよりも10倍~100倍も向上するような錯覚を与えることがある。

 

 ましてや、本物の銃ならば、その攻撃力が “幻想” ではなくなる。
 本物の銃が持つ殺傷力は、その所有者に “全知全能の神” にでもなったような高揚感をもたらす。

 つまり、銃は、人間の自己顕示欲が “武器” の形をとったものだ。

 

 そうであるならば、それはもう「法律」では規制できない。
 銃という「武器」を手にした人が、それを使うことをためらわせるような “哲学” が必要となる。

 

 日本刀には、その哲学がある。

 

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 日本刀は、人を殺傷するための武器ではあるが、どこかで、それをそのまま行使することをためらわせるような “力” が付与されている。

 

 「美しさ」である。

 

 歴史学者磯田道史氏(下)は、
 「武器として製造される鉄のかたまりが、そのまま美術品にもなるという不思議な力を発揮するのは、世界でも日本刀だけである」
 という。

 

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 武器としての刀は、たとえ戦場であっても、それを行使して他者を斬るのは、「人命尊重」という倫理を破ることになる。


 つまり、日本刀は、何かを覚悟して、懺悔(ざんげ)の気持ちで振り下ろさないかぎり使えないものなのだ。

 

 そうしたハードルを設定する力が、「美術品としての香華」である。
 すなわち、「美の力」だ。

 

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 「美」であるかぎり、それをドロドロした血で汚すことをためらわせる作用が生まれる。
 その思いを振り払って、他者を斬りつけるのは、それそうとうの覚悟が生じたときに限られる。

 

 これが銃ならばどうか。


 銃は刀剣のように、戦う者同士が至近距離を保つ必要がない。
 その分、ためらわず引き金を引ける。

 

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 至近距離を保つということは、顔と顔が接することで、相手の人間をほんとうに殺す必要があるのか?  ということを問い直す契機が(わずかの時間だが)生まれる。

 

 刀を交わす瞬間のうちに、たとえ戦う相手が「鬼」であろうとも、
 「この鬼も、元は人間としての悲しみを持っていたのではないか?」
  などと推測する時間が与えられる。

 

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 しかし、銃の戦いは、相手をいちいち確認する必要がない。
 つまり、銃における戦いで倒す相手は、「物」なのだ。

 

 日本刀が美術品としての価値を持ち始めるたのは、戦う相手に対しても、「人」を確認する可能があったからだ。

 

 「美」というのは、人間の意識によって見出されるものであることが、そこからも分かる。

 

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