アートと文藝のCafe

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巣ごもり期間は『銃・病原菌・鉄』を読め!

 

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 新型コロナウイルスの感染拡大のせいで、カミュの『ペスト』が書店で売れているという。
 『異邦人』などの有名な著書に隠れて比較的地味な扱いを受けていた本だが、緊急事態宣言が発令され、自宅待機を余儀なくされた人たちが読書に関心を向けたという理由もあるだろう。

  

 疫病の蔓延は、ときに、人を文学に向かわせる。

 

 14世紀の詩人ボッカチオが書いた『デカメロン』は、当時イタリアを襲ったペストの大流行を背景に書かれた物語集として知られている。
 ペストの難を逃れるため、フィレンツェ郊外に集まった男女が、退屈を紛らわすために一人ずつ艶っぽい小話を披露するという体裁をとった本だ。

 

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 家に引きこもらざるをえない時間を読書に充てるなら、格好の書籍がもう一冊。1997年に草思社から発行された『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド 著)がお薦めだ。

 

 猿から枝分かれした人類が、いかに現代のような「文明」を持つにいたったか。
 それを、歴史学、遺伝学、分子生物学、生物物理学、行動生態学、疫学、言語学文化人類学、技術史、文学史、政治史などの知見を総動員して解き明かしているのだが、決してむずかしくはない。
 面白い小説を読むように、抵抗なくスラスラと読める。

 

 この20年前の本を、いま読む必要はどこにあるのか。
 ヒントは、そのタイトルにある。

 

 『銃・病原菌・鉄』

 

 これを見て分かるとおり、人間の近代史を変えてきた象徴的なものとして、「銃」や「鉄」という文明と並んで「病原菌」が大きくクローズアップされているところに注目していいだろう。
 それだけでも、今のようなパンデミックが蔓延する時節に読むに値する。
 

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 著者のジャレド・ダイアモンド氏(写真上)は、アメリカの生物学者でありながら、生理学者、生物地理学者、ノンフィクション作家として活躍。
 ニューギニアなどで、生物学を究めるためのフィールドワークを行い、その成果が、この世界的大ベストセラーとなった『銃・病原菌・鉄』に結実している。
 

 もう少し、同書の紹介を続ける。
 本書が、他の類書に比べてユニークなのは、次のような視点で描かれていることだ。
 

 
 すなわち、人類史において、地域の異なる場所に住んでいた人たちの「文明格差」はどうして生まれてしまったのか?
 言葉を変えていえば、人類を月にまで運ぶ宇宙船を開発した国がある一方、近年まで狩猟採集のような原始生活を営む地域があったりするのはなぜか?

 

 単純な疑問だが、この「文明の不均衡」を解析する理論というのは、さんざん言い尽くされているようでいて、実は、そのほとんどは何も答えていないことに気づく。

 

 この問は、次のように置き換えられる。
 すなわち、欧米人はアフリカ諸国を植民地化し、大量の黒人奴隷を使って産業社会のいしずえを築いたが、なぜ、その逆は起こらなかったのか?
 
 つまり、アフリカ黒人国家が人類の文化をけん引し、高度な政治社会を築き上げ、ヨーロッパに攻め込んで、白人たちを奴隷にするような歴史はなぜ生まれなかったのか? 

 あるいは、スペイン人は銃器の威力でインカやアズテカという中南米インディオ文化を滅ぼしたが、なぜ、その逆は起こらなかったのか?

 

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 歴史学の多くは、これをヨーロッパで起こった兵器の改良やら、遠洋航海を可能にした船舶技術など、近世・近代のヨーロッパ社会で起こった技術革命にその解答を求めるのだが、著者はそれだけではないという。

 

 特に、スペイン人の中南米征服事件を解明すれば、この本のもう一つのテーマが浮かび上がってくる。
 

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 定説では、スペイン人のコルテス(写真上)が中南米アステカ文明を滅ぼしたのは、鉄製の銃器を効率的に使ったからだということになっている。

 

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 しかし、いくらなんでも、当時2,500万人もの人口があったアステカ帝国をわずか500名のスペイン兵で打ち破れるはずはない。

 

 アステカ人がダメージを受けたのは、スペイン兵が持ち込んだ天然痘(最近の研究ではサルモネラ菌と判明)だったという。


 このウイルスは、すでにスペイン人の体にとっては免疫になっていたものだが、アステカ人たちはまったく免疫を持たなかった。

 

 そのため、スペイン兵を迎撃するためにアステカ軍の新皇帝として選ばれたクイトラワックは、在位わずか80日で死亡。
 アステカ軍は、あっけなく “抵抗のシンボル” を失い、組織的な抗戦ができなかったと伝えられている。

 

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 しかし、著者のジャレド・ダイアモンドは、その種のエピソードだけでこの本を終わらせるつもりは全くない。
 
 彼は、現在の繁栄を築き上げてきた欧米先進国と、長い間、その先進国からの収奪を受けてきた発展途上国の差を、さらに長い射程で考える。

 

 どのくらい長い射程か?
   
 人類が「文明」を築く前の話だ。 
 すなわち、紀元前1万1000年前くらい。
 地質学的には、最終氷河期が終わり、現在に至る新世紀が始まった時代までさかのぼって、その原因究明に当たる。 

 

 たとえば、こんな感じだ。

  
 世界中にある野生のイネ科植物のうち、人間が栽培できる種類は56種。
 そのうち、西ユーラシア大陸に分布しているのは36種。
 いっぽう、アメリカ大陸のカリフォルニアや南アフリカに自生しているのは1種。オーストラリアの南西部には1種類もない。

 

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 このデータは何を意味しているのか。

 

 人類の「文化」を形成する意味できわめて重要な農業が発生する率において、西ユーラシア大陸と、その他の大陸では最初から環境的格差が存在していたということなのだ。

 

 人類が最初に農業に手を染め始めたのは、ユーラシア大陸の西、“肥沃三日月地帯” といわれるメソポタミアあたりだということは分かっているが、この地は、人類の大切な食料源の一つであるムギの原種となった野生ムギが育ちやすい土地だった。

 

 その地に住む人類は、長い試行錯誤を繰り返した後、その野生のムギを栽培に適した現在のムギの姿にまで品種改良を進める。

 

 ムギの収穫量はどんどん増え、それにつれて人口も増加していく。
 さらに、貯蔵も可能になると、いつも農業ばかりに追われなくてもすむ新しい職域の人間たちを誕生させることなる。

 

 すなわち、生活用具を専門につくる職人。僧侶階級、王侯貴族、軍隊。
 国家を形成する原初の組織が生まれてくるようになったため、そこに「文化」が芽生えてくる。

 

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 いっぽう、野生種の植物のうち、栽培できる品種が少ない地域においては、あいかわらず狩猟採集生活に頼らざるを得ない。そのような生活では、食料を長く貯蔵できる方法を編み出せないから、余剰人口を抱える余裕もなく、「文化」形成も遅れる。
 
 著者は、このような形で、人類の間に生まれた「文化格差」の秘密を解き明かしていく。
  
   
 話は多岐に渡っていて、茫漠たる広がりを見せるが、その中で、個人的にちょっと興味をひかれたところだけ紹介する。
 どっちかというと、本筋から少し離れた枝葉の話になるのかもしれない。

 

 それは、なぜオーストラリア大陸アメリカ大陸には、象とかサイのような大型動物がいないのか。
 また、それらの地には、なぜアフリカにたくさん見られるライオンや豹のような肉食獣がいないのか(中南米にはピューマだけ残っているけれど)。

 
 著者によると、オーストラリアには、かつては巨大なカンガルーや体重が180kgもあるダチョウのような鳥、1トンもある巨大なトカゲ、陸生のワニなどが生息していたという。

 いっぽうアメリカ大陸には、今アフリカにいるような象、馬、ライオン、チーター、ラクダまでいたらしい。
 

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 それらの大型動物がアメリカやオーストラリアから姿を消したのは、その地に人類が入植を開始した時期とぴったり重なるという。
 つまり、人間が捕食して絶滅させてしまったというわけだ。
  
 オーストラリアやアメリカの動物たちは、人間の怖さを知らなかったから、バタバタと簡単に狩られた、と著者は推測する。
  

 
 いっぽう、アフリカには、いまだに象やライオン、カバ、サイなどの大型の野生動物が絶滅せずに残っている。
 
 その理由はなにか?

 
 著者によると、アフリカの野生動物の方が、人間と古くから接していたため、人間の怖さに気づくのが早かったからだという。

 

 オーストラリアに人が住み着いたのは、紀元前4万年頃。
 アメリカ大陸に人類が到達したのが、およそ紀元前1万1,000年。
 しかし、アフリカに人類が誕生したのは、それよりももっと古く、紀元前700万年頃だといわれるから、人類がアフリカにいた時代はとても長い。

 

 その間に、アフリカの動物たちは、人間が100万年単位で狩りに使う武器の精度を上げていくことに、時間をかけて対応することができた。
 つまり、人間が「怖い生き物だ」と学習する時間がたっぷりあったのだ。

 

 それに比べ、オーストラリアやアメリカの動物たちは、無邪気すぎた。
 人間が恐ろしい狩人であることを知らず、それを警戒する知恵を身につけることもなく、好奇心本位で人間に近づき、簡単に捕捉されてしまったとも。

 

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 こうして、アメリカやオーストラリアに住み着いた人類は、簡単に野生動物をしとめられるという恩恵に浴したが、代わりに、動物たちを家畜化するチャンスも失った。
 のちに家畜として使えそうな動物たちをみな食用にしてしまったため、種そのものが絶滅してしまったからである。 

 
  
 動物の家畜化は、人類に多大な文明を残すきっかけを与えた。
 まず、それは食料品を備蓄する知恵を人間に与えた。

 

 肉を直接食べるという意味だけでなく、牛、羊、ヤギなどの乳製品が人間の腹を満たすようになった。
 また、その糞は燃料となり、皮は衣服にも変わった。
 
 特に、馬を家畜化したことは、人類の生活を大きく変え、戦争のやり方まで変えた。
 それまで想像もできなかった遠隔地まで、迅速に行動できる手法を知った人間は、はじめて「征服戦争」という概念を身に付けた。

 

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 先に、メキシコ高原のアステカ帝国を滅ぼしたスペイン人コルテスのことに触れたが、南米ペルーのインカ帝国でも同じようなことが起こった。

 

 1532年、スペインのならず者将軍のピサロ(下)は、わずか168人の暴力団のような兵士を率い、8万人のインカ軍をやぶって、皇帝アタワルパを捕虜にし、金銀を奪った上で彼を死刑にし、インカを滅ぼした。

 

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 スペイン人たちが残した文献から推測すると、これは「戦闘」というより、だまし討ちによる惨殺といった方が適切なようだ。

 

 ピサロが勝利を得た直接的な要因は、鋼鉄製の剣や武具、銃器などの近代兵器の力によるものとされているが、その効果を高めた背景にあったのは、やはりスペイン人がこの地にもたらした疫病だった。

 

 ピサロのインカ征服に先立つ1521年、スペイン人のコルテスがアステカ帝国を滅ぼしたことは前述したが、その後アステカ人の多くはスペイン人からうつされたサルモネラ菌によって人口減少に陥っていた。
 インカの人々も、またこの病気に感染して弱体化していた。 
 
 そのため、ピサロもまた数百という単位のスペイン兵で、数万のインカ兵をなぎ倒してしまうのだが、その戦闘の中核を担ったのは、わずか50人程度の騎兵だったという。

 

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 スペイン騎兵は、木製の棍棒ぐらいしか武器を持たなかったインカ歩兵に突入して、相手をさんざん混乱させ、さらにインカ人が遠方にいる味方に伝令を差し向けようとしても、馬で追いつき、殺戮した。 

 

 要するに、馬の機動力にものを言わせたのだ。
 だから、もしインカ帝国側にも騎兵があったなら、戦闘は違ったものになっていたかもしれない。

 

 ところが、アメリカの馬ははるか昔に絶滅してしまい、その後のインディオたちは、そんな動物がこの世にいることさえ知らずにいた。
 人間が家畜を持つことの優位さを端的に語る話のようにも思える。
 
  
 この家畜の話も、「文明格差」のほんの一例にすぎない。 
 そのような例をたくさん引きながら、著者は、異なる大陸、異なる地域の間に広がってしまった「文明格差」の原因を追求する。

 

 忘れてならないのは、ジャレド・ダイアモンドが指摘する「文明格差」という概念には、これまでの “白人至上主義” 的な思想は見事に排除されていることだ。

 

 彼はいう。 

 19世紀までの白人が持っていたアジア人やアフリカ人に対する優越性というのは、白人種の民族的優位性に基づくものではなく、生物学的なもの、地理学的なもの、そして疫学的なものが複雑に絡まり合った結果に過ぎず、これまでの白人種が持っていた優越感にはまったく根拠がない。

 
 しかし、この刺激的な論考は、もちろんすべて「仮説」だという。
 状況証拠を積み重ねていけば、そういう推論も成り立つけれど という含みがどのような記述の中にも散見される。

 

 しかし、( だからこそというべきか)その壮大な仮説には、人間の想像力を限りなく刺激する「SF小説」のような妙味が備わっている。

 

 「真相はどうであったか?」 と堅苦しく考えるよりも、「一級品のエンターティメント」 と割りきって楽しんだ方が、著者も喜ぶかもしれない。