アートと文藝のCafe

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7月のテレビ番組雑感


 パソコンの調子が悪い。
  ということを、ブログの更新が途絶えた “言い訳” にするつもりもないのだが、テキストを入力したり、画像検索をしている途中で、モニターが突然ブラックアウトしてしまう。

 

 原因は分からず。
 ただ、強制終了するか、電源を一時的に抜いたりすると、復旧することがある。
 
 しかし、安定しない。
 作動し始めたと思って安心すると、また画面が暗転してしまう。

 

 そんな状況がここ一週間ほど続いているので、仕事もできないが、ブログを書くのもいやになってしまった。
 
 というわけで、このブログ記事も最後まで書けるかどうか分からない。
  

 
 とりあえず、行けるところまで行く。

 で、テーマは、手っ取り早いネタにすることにした。
 最近のテレビを見て感じたことをランダムに書き散らすつもりである。

 

 
半沢直樹

 

 まずドラマから。
 久しぶりに見た『半沢直樹』は、やはり面白かった。
 テンポがいい。

 

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 あいかわらず、悪役たちの “顔芸” も魅力のひとつだ。

 

 このドラマは、昔の『水戸黄門』のように、画面に登場しただけで、その役者が悪役かどうかがすぐ分かるのが特徴。

 

 そういった意味で、最後まで真犯人が特定できない一般的なサスペンスドラマの対極にある。
 そういう明快さが、この『半沢直樹』というドラマを力強いものにしている。

 

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 ただ、自分が見ているテレビドラマは、それほど多くない。
 楽しみにしているのは『麒麟がくる』と、『雲切仁左衛門』だが、『麒麟 』は8月になるまで再開されないし、『雲切 』は、「4」が終わってしまって、「5」が始まるまでには多少時間がかかるようだ。

 

 そんなわけで、もっぱら見るのはBSの映画かドキュメンタリーである。

  

 
黒澤明 vs 勝新太郎
 
 昨日見たNHK BSの『アナザー・ストーリーズ』がよかった。


 「黒澤明 VS 勝新太郎」というタイトルで、映画『影武者』(1980年公開)で、主役に抜擢されていた勝新太郎が、なぜ監督の黒澤明とケンカして降板したのかという事件に迫る企画だった。

 

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 番組では「2人の天才」という言葉が使われていた。
 黒澤を “天才” と呼ぶことに多くの人はためらわないだろうが、一方の勝新太郎だってまぎれもない天才であった。

 

 勝新が自ら主役を演じ、ときに監督も務めた『座頭市』シリーズなど、黒澤にも負けない素晴らしいドラマであった。

 

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 今回の『アナザー・ストーリーズ』では、ケンカ別れした頃の黒澤と勝新の当時の状況を語る証人たちが何人が登場した。

 

 彼らが口をそろえていうには、黒澤明という人は、とにかく「完璧主義者」で、細部まですべて自分が緻密に構成することにこだわり、他人の意見や判断が加わることを極度に嫌ったとか。

 

 一方の勝新は、すべてを「その場で作り上げていく人」。
 人から提案されたものよりも、自分のひらめきを常に優先する人で、彼の作劇においては、脚本や演出がその場でコロコロ変わっていくことが当たり前だったという。

 

 そういう人間同士がうまくいくわけはない。
 黒澤は、勝新の “ひらめき” が、「無計画な人間の気まぐれ」に見えただろうし、勝新の方は、黒澤の厳格主義が窮屈だっただろう。

 

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 つまり、これはクラシック音楽とジャズの対立のようなものであったのかもしれない。
 
 黒澤は、クラシック音楽を構築するつもりで、スコアもすべて自分で書き、オーケストラの人員配置もすべて自分で決め、そして寸分の狂いもないようなタクトを振るった。

 

 それに対し、勝新は、最初から即興演奏(インプロビゼーション)こそ音楽だと思うジャズ奏者の心境だった。

 

 昔のジャズ奏者は、チャーリー・パーカーにせよビル・エバンスにせよ、“神がかり的な即興演奏” を求めて、ドラッグに手を染めることが多かった。

 

 勝新も、そういうことに目くじらを立てるような性格ではなかった。
 実際に、彼もマリファナとコカインの不法所持で逮捕される経験を持っている。

 

 ところが、黒澤は、そういうものを極端に嫌った。
 最初から、2人のウマが合うわけがなかったのだ。

 

 でも、自分は勝新太郎武田信玄(の影武者を演じる)映画を見たかった。

 

 
ネアンデルタール人の正体 
 
 NHK BS1でやっていた『人類誕生 未来編』というドキュメンタリー番組も面白かった。

 

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 これは、2018年頃にNHKで作られたドキュメンタリー番組をベースに、多少手を加えて再編集したものらしい。


 人類がサルと分かれた経緯から始まり、ネアンデルタール人と現世人類との比較、そして、いかに海を越えて各大陸に広がっていったかということを3回に分けて放映した。

 

 なかでも、第2回目に流されたネアンデルタール人と現生人類(ホモ・サピエンス)との比較という企画が面白かった。

 

 現生人類(ホモ・サピエンス)が今日のような肉体的特徴を獲得するまで、実にさまざまなヒト科の生命が誕生しては絶滅していった。

 その進化の最後に位置したのが、ネアンデルタール人と現生人類であった。
 
 では、この2種類のヒト科生命体のうち、ネアンデルタール人の方はどこに行ってしまったのだろうか?

 

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 番組によると、現生人類よりも、ネアンデルタール人の方が身体が壮健であり、力も強く、脳容量も大きかったという。

 

 昔は、ネアンデルタール人というのは言語をしゃべるような喉の構造を持っておらず、そのため、コミュニケーション力が弱かったという説がまことしやかに喧伝された時代があったが、最近の説では、彼らも現生人類と同じような “しゃべる能力” を十分に持っていたことが確認されるようになった。

 

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 さらに、ネアンデルタール人も埋葬という文化を持っており、「死後の世界」に思いを馳せる想像力も獲得していたことが分かっている。

 

 つまり、能力的に、ネアンデルタール人と現生人類との差はほとんどなかったことが明らかになってきた。

 

 ただ、狩りの仕方に違いがあった。
 ネアンデルタール人の狩りは、マンモスや大型草食動物のような動物たちと真っ向から向き合う肉弾戦のような狩りだった。

 

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 そのため、狩りの途中で傷ついて死んでいく若者も多く、彼らの平均寿命は30歳ぐらいだったそうだ。

 

 それに対して、力の弱かった現生人類は、ヤリを投げるときの補助道具(アトラトル 写真下)などを考案し、エモノから離れたところで戦う技術を磨いていった。

 

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 また、現生人類は、他の生き物より力が弱かったというマイナス面をカバーするため、人間同士が結束し、仲間意識を持つことで “弱い面” をカバーしようとした。

 

 こういうときに、技術(道具)は進歩する。
 誰かが一つの技術を考案したとき、仲間が多ければ、その技術をより優れたものにするためのアイデアが集まりやすい。

 

 この差が、ネアンデルタールと現生人類の生き延びるときの明暗を分けたという。

 

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 ネアンデルタール人のつながりは、基本的に「家族」を中心としたものだったらしい。
 だから、共同生活するときの人数も10人前後。多くても15人規模。

 

 それに対し、現生人類は一つのグループが150人程度のメンバーで構成されていたらしい。


 だから、構成員たちがいろいろ切磋琢磨して、技術(道具)の進歩が劇的に進んでいったことが考古学的にも証明されるという。

 

 一方、構成員の少ないネアンデルタール人の場合は、何万年経っても、ほとんど道具(技術)の進歩は見られなかったとも。

 

 この差は、そのまま人口の差となった。

 

 マンモスのような大型動物を狩ることで食料を確保していたネアンデルタール人は、マンモスのような動物がヨーロッパ大陸から姿を消していく時代を迎えると、食料を確保することが困難となり、それが人口減を招くことにつながった。

 

 そして、彼らは、イベリア半島の海辺の洞窟で暮らしていたという2万年ほど前の生活の痕跡を残したまま、地上から姿を消した。

 

 ただ、昔いわれたような、現生人類が戦いの結果、ネアンデルタール人を滅ぼしたという事実はないという。

 

 彼らは、生活様式も文化も異なるため、互いに無関心であった。
 2万年前のヨーロッパには、今のような人口がいなかったから、お互いが接触することすらほとんどなかったかもしれない。

 

 それでも、男女の個体が、森や草原で偶然出会う機会があり、そこで生殖行為が発生したということは大いに考えられるだろう。

 

ネアンデルタール人の少女といわれるCG画

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 それを実証するように、今の我々のDNAのなかには、2%ほどネアンデルタールの遺伝子が混じっているという。


 ヨーロッパ人だけでなく、アジア人もまたネアンデルタールの遺伝子を持っているのだそうだ。

 

 ただ、ネアンデルタール人の研究はまだ発展途上のままだという。
 今後、彼らに対する知見はさらに塗り替えられていきそうだ。

 


超常現象

 

 同じくNHK BSプレミアムで放映されていた『超常現象』という企画も面白かった。

 

 これは、幽霊、生まれ変わり、透視、テレパシー などという超常現象を、すべて合理的な科学の手法で解決しようという番組であった。

 

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 第一回は、イギリスで評判の “幽霊城” に科学者たちが集まり、電磁波や低周波音測定器などの最新機器を総動員して、様々な心霊現象を解き明かすという企画だった。

 

 結果的に、およその超常現象は、科学的な手法で解明されるということが突き止められた。

 

 また、仮死状態のときに、自分が空中を飛翔し、自分の遺体を見下ろすという臨死体験


 さらには、幼い子供が、ときどき生まれる前の他人の記憶を語り出すという “前世の記憶” の正体も、脳科学的や心理学の手法で解明された。

 

 ただ、そのなかでも、いまだに十分な説明ができないものが、予知能力だという。

 「虫の知らせ」という言葉があるように、人間は、ときにこれから起こりうる事件を事前に察することがある。
 「第六感」とか、「霊感」とか呼ばれるものだ。

 

 もちろん、こういう認知能力にも、やがて “科学のメス” が当てられるだろう。

 

 現段階でいえることは、こういう “能力” は、原始人はみな持っていたかもしれないということだ。

 

 こういう “力” は、自然のなかの空気の流れとか、水の匂いなどで、天候の変化を読み解くように、古代の人間は当たり前のように持っていたものだという気がする。

 

 恐ろしい肉食獣などといった天敵への備えに敏感な原始人たちは、逆にこういう能力がないと、サバイバルできなかった。

 

 しかし、そういう能力は、文明化される過程で、少しずつ退化していった。
 それでも、かすかな力として、現代人にも残っているのが、「第六感」。
 こういうのは、それほど不思議なことでもないような気がする。