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マルクスの『資本論』が再びブーム?

若者たちの『資本論』研究の背景にあるもの

 

 今年になってから、若い学者たちの間で、マルクスの『資本論』を再評価する活動が盛んになっている。

 

 今年の4月には、白井聡氏(43歳 京都精華大学教員)の『武器としての「資本論」』が出版され、かなりの話題を呼んだ。

 

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 同書は、出版された直後に佐藤優いとうせいこう内田樹といった著名な評論家たちがこぞって好意的な書評を載せたこともあり、コロナ禍で自粛を要請された社会状況とも重なり、書店での売り上げがかなり伸びたようだ。

 

 また、この9月には、斎藤幸平氏(33歳 大阪市立大学大学院准教授)の『人新生(ひとしんせい)の「資本論」』が出版され、こちらも経済学者の水野和夫、音楽家坂本龍一、書評家の松岡正剛などという人々に注目され、メディアの新刊紹介ページをにぎわした。

 

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 どちらも買って読んだが、若い研究者たちの熱意がしっかり伝わってきて、刺激的な読書体験をもたらせてくれた。

 

 しかし、今なぜマルクスの『資本論』なのか?

 

 世界の状況が、19世紀にマルクスが『資本論』を書かざるを得なかった時代に再び酷似してきたからだ。

 

 
現代はマルクスの生きた時代に似てきた

 

 19世紀半ば。
 イギリスの産業革命によって成長を始めた “資本主義” は、莫大な富を得て贅沢を享受する富裕層(資本家)と、その日暮らしの生活を維持するだけの貧困層(労働者)を同時に出現させた。

 

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 こういう事態を重く見たマルクスは、一方では『共産党宣言』のような、階級闘争を呼びかける書物も刊行したが、それにとどまらず、他方では “資本主義” の構造そのものを分析する『資本論』の執筆も始めた。

 

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 その時代から、すでに150年が経過している。
 世界経済は、マルクスの分析をはるかに超えて、人々に巨大な富をもたらした。

 

 しかし、“富める者” と “貧しき者” の格差は縮まったのか?

 逆に開いてしまった。

 

 高級なワインや牛肉、ハイセンスで安価なファッション、衛生的な住環境、刺激的なゲームや面白いエンターティメントに囲まれた生活を享受しているのは、実は、きわめて限られた先進国の人々にすぎない。(当然日本もそっちの組に入る)

 

 その先進国の人々の “豊かな生活” を保証しているのが、劣悪な条件で過酷な労働を強いられる発展途上国の人々である。

 

 たとえば、先進国の人々がワンシーズン着ただけで気軽に捨てるようなファスト・ファッションの洋服を作っているのは、その日暮らしの生活水準をかろうじて維持しているバングラディッシュの労働者たちであり、その原料である綿花を栽培しているのは、40℃の酷暑のなかで作業を行うインドの貧しい農民たちだ。

 

 “富める者” と “貧しき者” という階層分化が進んでいるのは150年前のマルクスの時代と変わらないが、今はその所得格差がさらに広がり、しかもそれがどんどん固定化してきている。

 

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 人口比でいえば、10%のセレブたちを、90%の労働者が支えているという計算になる。
 詳しくいえば、一生遊んで暮らせるほどの富を確保した1%の特権層を、生活の不安を抱えた99%の一般人が養っているという、すごくいびつな富の偏在が常態化してきている。

 

 それをもたらしたのは、冷戦崩壊(1989年)後に始まった経済のグローバル化と、それを背景に生まれてきた新自由主義思想である。

 このような巨大な格差が地球を覆っている現状を、もし150年前のマルクスが知ったら、
 「まだ俺が生きていた時代の方がましだ」
 と必ずいうだろう。

 

 
新しい視点で解釈された『資本論

 

 現在、若い学者たちが、マルクスの『資本論』に再び光を当てているのは、実はこういう時代背景があるからだ。

 最初に挙げた白井聡氏(写真下)の『武器としての「資本論」』は、このマルクスの「資本論」を読み解くための入門書として役割を帯びている。

 

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 つまり、この書では、マルクスの「資本論」がけっして歴史を知るための古典ではなく、今の “新自由主義” 的な抑圧機構から人が解放されるための現代的な実践書であることを強調する。

 

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 一方の斎藤幸平氏(写真下)が書いた『人新生(ひとしんせい)の「資本論」』では、これまでの『資本論』像を大きく塗り替えるような新しい視点が強調されている。

 

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 すなわち、マルクスの『資本論』では十分に展開されていなかった環境問題が全面的に取り上げられているのだ。

 

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 著者の斎藤氏によると、マルクスは、このまま資本主義の暴走が止まらなければ、地球環境が壊滅的な打撃を受けることを預言していたという。

 

 これは、従来の『資本論』研究ではなかなかとり上げられなかったテーマである。

 

 もし、『資本論』を完結した一つの書として扱うならば、確かに、「資本主義の環境破壊」を正面的に取り上げた記述はない。

 

 しかし、斎藤氏は、
 「『資本論』は、そこに掲載された文字だけで完結するような書物ではない」
 とも。

 

 『資本論』の周辺には、まだマルクスが論考としてまとめきれなかった膨大なメモやアイデア集が散らばっており、それらを丹念に総合すると、
 「マルクスの晩年の関心は、資本主義と自然環境の関係性を探ることにあった」
 と斎藤氏はいう。

 

 つまり、
 「資本主義は、労働者から “富みを簒奪(さんだつ)する” だけでなく、地球から豊かな自然をも簒奪する」
 ということが、マルクスの残した膨大な “研究ノート” に記述されているというのだ。

 

 
マルクスはすでに現代の環境問題を見据えていた

 

 マルクスが生きた時代には、人間の経済活動によって生じる「温室効果ガス」が、地球の温暖化を進めるなどという議論は生まれていなかった。
  
 しかし、マルクスは、その膨大な研究ノートのなかで、資本主義の暴走が止まらなければ、自然環境の崩壊は必至だということを見抜いていた。
 事実、今の地球は、彼の予言通りの危機に見舞われている。

 

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 たとえば、南米のアマゾン川流域では、熱帯雨林を伐採して農園に代えるという開拓工事が止まらない。

 

 そのため土壌浸食が起き、肥料・農薬が河川に流出して、川魚がどんどん減少している。
 それによって、その領域に住む人々は魚からとっていたタンパク質が欠乏し、十分な食生活が得られなくなると同時に、森林に頼っていた野生動物の生活環境も劣悪化した。

 

 そういうことは世界各地で起こっており、その結果、今までの生活を維持できなくなった人々は、金銭目当てに、絶滅危惧種に指定された野生動物を殺して密猟者を助けるという違法取引に手を染めていく。

 

 そこで密猟された象、サイ、トラなどの野生動物の象牙、ツノ、毛皮などはお金持ちの嗜好品や高価な漢方薬となっていく。

 

 資本主義は何でも金儲けの対象にしてしまう。

 気候変動などの環境危機が深刻化すれば、それさえも資本主義にとっては利潤獲得のチャンスとなる。
 山火事が増えれば火災保険が売れる。
 バッタが増えれば、農薬が売れる。
 すべての環境危機は、資本にとっての商機となる。

 

 これをわれわれは「ビジネスチャンス」という言葉に置き換え、利潤獲得のために貪欲な行動に走る。

 

 だが、そういう「経済優先的な思考」を、いつまでも地球環境が許してくれるだろうか。

 

 
化石燃料の浪費はつい最近の問題なのだ

 

 考えてみれば、「地球環境の危機」というのは、きわめて最近クローズアップされてきたものばかりだ。


 
 たとえば石炭・石油などの化石燃料の消費。
 それは20世紀から一貫して問題にされてきた大きなテーマだが、人類が使用した化石燃料のなんと半分は、実は冷戦が終結した1989年以降に消費されたものだという。

 

 わずか30年の間に、人類は莫大な量のエネルギーを浪費してしまったのだ。

 

 つまり、冷戦終結によって、「社会主義」と「資本主義」の政治的・思想的対立が解消し、世界経済がグローバル化を遂げたことで、大企業のエネルギ政策が野放しになったことが遠因としてある。

 

 この間、新自由主義的なグローバル企業を展開して大儲けをした世界のセレブたちは、みなプライベート・ジェットや大型クルーザー、そして高価なスポーツカーを乗り回し、大豪邸を何軒も所有して、この世の春を謳歌した。

 

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 人口的にいえば、その人たちの比率はわずか0.1%。
 象徴的にいってしまえば、その0.1%の人々が、21世紀の地球環境に深刻な負荷をかけてきたともいえる。

 

 現在、世界でも最も裕福な資本家は20数名だといわれている。
 そのわずかな人たちが、世界の38億人の貧困層(世界人口の約半分)の総資産と同額の富を独占しているという。

 

 それでも、マルクスが夢見ていたような “革命” は、現在では起こらない。
 なぜなら、経済格差がここまで広がってしまうと、“貧困層” といわれる人々でさえ、もう自分たちの悲惨さを自覚する想像力を失ってしまうからだ。
 
  
社会主義者はテロリストの同意語なのか?

 

 現在、「社会主義革命」、もしくは「共産主義革命」という言葉を、世界のセレブたちは嫌う。

 

 特に、アメリカの保守系の人々は、“社会主義者” という言葉を “テロリスト” の代名詞として使う。

 

 しかし、富の “いびつな偏在” に気づき始めたアメリカの(リベラルな)若者たちは、“社会主義革命” に積極的な意味を見い出し始めている。
  
 その証拠に、大統領選の時期が来ると、アメリカの若者たちは、自ら「社会主義者」を名乗るサンダース氏(写真下)を熱烈に支持するからだ。 

 

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 そういう若者たちが理論武装しようとするときには、マルクスの『資本論』は、格好の手引書となる。


 “富の偏在” を無慈悲に実現していく「強欲資本主義」の構造を見破るためには、今のところ、これ以上の研究書はない。

 

 
日本の『資本論』研究の古典的名著

 

 そういった意味で、白井聡氏の『武器としての「資本論」』、および斎藤幸平氏の『人新生(ひとしんせい)の「資本論」』の2冊は、マルクスを論じた2020年の好著だといっていい。

 

 ただ、ささやかな感想を付け加えるならば、この2冊から私は、プロパガンダとしての “味気なさ” を若干感じた。
 つまり、読者を「社会主義革命」へと誘導していくための政治的立ち位置が匂いすぎるように思った。

 

 そういうときに思い出すのは、柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』(1978年)である。

 

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 私は、この本で、『資本論』が文芸評論のように論じられることを知って驚愕した。
 そこでは、文章の隅々に、文芸的香華がただよっていた。

 

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 文学として『資本論』を語りうる書物を一度ではあっても経験してしまうと、それ以外の “資本論・論” はどこか味気ない。
 それは、私が若い頃に柄谷氏の著作に接したからかもしれない。
  
  
 最後に、『資本論』を考えるときに参考となる著作を、自分の読んだもののなかから列記する。
 
 
 水野和夫・著 『資本主義がわかる本棚』
 資本主義は「煩悩」を全面開花させる
 

 

 岩井克人・著 『欲望の貨幣論
 貨幣のいたずらに人間は悩みかつ魅せられる

 

 

 柄谷行人・著 『マルクスその可能性の中心』
 『資本論』は優れたエンターテイメントである