「貨幣」とは何か?
誰にとっても自明な存在である “おカネ” というものは、実は人類がなかなか究明しきれない謎のかたまりであるそうな。
人々がおカネを欲しがるのは、どういう理由なのか?
こんなバカげた質問に、まともに答える人は、まずいない。
たいていの人は、こう言うだけだろう。
「おカネさえあれば、何でも買えるから」
では、なぜおカネは、商品と交換できるのか?
ただの紙切れだったり、ニッケルと銅の安っぽい合金だったりするものが、なぜ何千円やら何万円やらの商品と同じ価値を持つのか?
こんな当たり前すぎて、誰も考えようともしない貨幣の謎を、実はどんな経済学者も解いていない。
岩井氏が言うには、そもそも人間は、貨幣の起源すら明らかにできていないという。
昔は、貨幣は美しい貝殻とか、金・銀といった「誰にとってもきらびやかな貴重なもの」が起源だと思われていた(貨幣物品説)。
しかし、今そういう考え方をする人はほとんどいない。
なぜなら、太古の昔から、おカネは(金・銀といった)モノの価値とは明瞭に異なるものだという認識が定着していたからだという。
つまり、金・銀ならばそれ以上の価値を持つことはないが、おカネなら、金・銀はおろか、食料や生活物資とも交換できる。
だとしたら、「金・銀よりもおカネの方が汎用性が高い」と誰でも考えるはずだ。
そこに貨幣の “奇妙さ” がある。
紙幣で、ティッシュペーパーのように鼻をかめるか?
かめない。
コインはねじ回しとして使えるか?
使えない。
つまり、貨幣は「物品」としては、取り引きされる品物よりもほとんど「役に立たない」物なのに、「交換価値」としては、必ず物品以上の価値を帯びる。
そんなことを、いったい誰が決めたのか?
「貨幣を発行する政府や権力者が決めた」
という説(貨幣法制説)もある。
しかし、最初に貨幣を発行した国が滅びた後も、貨幣によっては、後年永いこと他国で流通したりすることがある。
つまり、国家や権力者ですら、貨幣の権威を保証する力があるわけでもないのだ。
では、貨幣の価値は、どこから来るのか?
こういう問題設定を明確にして貨幣の謎に迫る書物が、「岩井克人『欲望の貨幣論』を語る」(2020年3月発行)という本である。
もとは、NHKテレビで断続的に放映されていた「欲望の資本主義」という企画から生み出された本だ。
だから、“著者” としては、その番組のプロデューサーである丸山俊一氏の名前がクレジットされている。
つまり、この本は、その丸山氏が日本でも屈指の経済学者である岩井克人氏へのインタビューをまとめたものなのだ。
岩井克人氏は、1985年に『ヴェニスの商人の資本論』(筑摩書房)でデビューした経済学者である。
この本は、柄谷行人氏の『マルクスその可能性の中心』と並んで、私に、「資本主義」を学術的な対象として認識させてくれた本だ。
私のような “70年安保世代” にとって、「資本主義」というのは、人間の不平等や抑圧を推進する存在であって、「倒すべき対象」という考え方に染まる方が自然だった。
しかし、上記の2冊は、“共産主義運動” の鼻祖としてしか意識しなかったマルクスという人間を、「資本主義の不思議さ」に気づいた情熱的な研究家というイメージに変えた。
マルクスは、「資本主義の謎」とは、「貨幣の謎」であることを見抜き、生涯それをパズルを解くような熱心さで取り組んだ思想家である。
柄谷行人氏も岩井克人氏も、その研究の流れを追っている。
「貨幣の謎」とは、言葉を変えていえば「人間の謎」でもある。
たとえば、「人間はみな平等である」という言葉がある。
それはいったい、いつの時代に、誰が認めたことなのか?
それは古代ギリシャで、民主主義という政治思想が生まれたときに認められたものなのか?
それとも、イギリスのピューリタン革命のときに、「法の下では人間は平等だ」と宣言されたときに認められたものなのか?
あるいは、「自由・平等・博愛」を謳ったフランス革命のときなのか?
政治的なきっかけはいくつも挙げられるかもしれないが、そもそも、そういう考え方の基本になる思想は、どこからやってきたのか。
それは、「貨幣」から生まれてきたのである。
マルクスは『資本論』のなかで、「貨幣はレヴェラーズ(平等派)だ」という言葉を残している。
つまり、どのような身分差別が貫かれた世界であっても、おカネは、身分に関係なく、立場上の平等を実現する。
王侯貴族でも、乞食でも、おカネさえあれば、まったく「同じ物」が買える。
おカネは、売り買いの現場においては、上下関係も差別も消してしまうのだ。
後世、民主主義が発達した世で、「法の下の平等」が生まれたのは、その前に、「おカネの下の平等」が生まれていたからにほかならない。
では、なぜ「貨幣」は、「ヒトはみな平等である」という “普遍的” な思想を人間に植え付けることになったのか?
それは、「貨幣」が、多種多様な性格を持つ「商品」のなかで、唯一、他の何物にも取り換えることのできない、“絶対的な商品” として君臨するようになったからだ。
「絶対的な商品」とは、すなわち、あらゆる商品の価値を超越した「普遍的で抽象的な価値」を持つもののことをいう。
逆にいえば、人間が「普遍的な思考」を身に付けるようになったのは、「貨幣が流通する社会」を知ったときからである。
このような、貨幣と人間精神のからくりを最初に見抜いたのはマルクスである。
マルクスは『資本論』のなかでいう。
「貨幣とは形而上学的な不思議さに満ちた存在である」
と。
マルクスは、貨幣を通じて、資本主義の構造が形而上学(抽象的本質論)的な「謎」に満ちたものであることを認識した最初の思想家の一人だった。
彼は、そこに倒錯があることに気づいた。
すなわち、ヒトは「貨幣の謎」を解き明かすために、「普遍的・抽象的」な思考力を高めないといけないと思いがちだが、実は逆で、そのような思考こそ「貨幣」によってもたらされたものであると。
岩井克人氏は、「『欲望の貨幣論』を語る」という本のなかで、貨幣が人間の精神形成に与えた役割を、古代ギリシャ文明の形成過程から解き明かしている。
彼は、リチャード・シーフォードというイギリスの古典学者との対話にヒントを得て、古代ギリシャ文明が、他の古代文明に先駆けて普遍的・抽象的な思考方法を手に入れた理由を、「古代ギリシャ文明がいちはやく<貨幣化>された社会を実現したからだ」と説く。
氏によると、古代ギリシャのイオニア地方(現トルコ領)では、紀元前6世紀頃から、「宇宙」は合理的な秩序によって制御された統一的な世界であるという認識が広まっていたという。
つまり、その時代に、人間の日常的な感覚では雑多にしか見えない具体的な事物の背後に、すべてを支配する抽象的な普遍性が存在すると唱える哲学者たちがイオニア地方に輩出したのだそうだ。
そういう思想を「イデア論」としてまとめたのがプラトンであるが、そこに至るまで、タレス、アナクシメネス、ヘラクレイトスといったイオニア学派の哲学者たちによって、近代哲学にも通じる抽象的・普遍的な思考様式が育っていったという。
なぜ、そういう事態が生じたのか。
岩井氏は、次のようにいう。
「紀元前6世紀半ばに、古代ギリシャのイオニア地方で初めてコインが作られ、その後、ギリシャのポリス全体の貨幣化が急速に進んだ。
その貨幣によって、多種多様なモノやサービスが、抽象的な価値として統一されるような世界観が誕生した」
古代ギリシャのアテナイで、最初の「民主制」が生まれたのも、貨幣社会が生まれことによって、独立した個人としての自覚を持つ人々が登場してきたからだと、岩井氏は語る。
さらに、古代ギリシャで「悲劇」という演劇形式が生まれたのも、やはり貨幣のせいだという。
つまり、貨幣は、古代ギリシャにおいて「平等な市民」をも誕生させたが、一方では、近代社会と同じように、孤立した個人をも生み出した。
古代ギリシャの「悲劇」というのは、貨幣社会が生み出した “負の一面” 、すなわち、孤独な個人の哀しみや辛さに焦点を当てたものだという。
本書の狙いは、貨幣の謎を解き明かすことにおいて、資本主義の謎に迫るところにある。
つまり、「人間はなぜ貨幣を欲しがり続けるのか」という謎は、そのまま「資本主義はなぜ存続し続けるのか」という謎に直結している。
いってしまえば、資本主義というのは、「貨幣の無限の増殖」そのものを体現している経済活動だといってよい。
逆にいうと、人間が貨幣を欲しがらなくなれば、資本主義も消滅するということなのだ。
それについては、さらに言及したくなるが、文章量が多くなるので、その説明は別の機会に回したい。