今年は、コロナ禍の影響もあって、ほとんど旅することはなかったが、例年なら、GWから雨期に入るまでの季節はよく車で旅していた。
北関東から東北にかけて旅するとき、時間があるときは、高速道路を降りる。
特にGWの頃になって、車窓を流れる濃い緑の木々を眺めるのが好きなのだ。
日本の緑というのは、なぜ、かくも色が濃いのだろうか。
目薬など注さなくても、植物の葉陰を眺めるだけで、目が洗われるようだ。
これほど、鬱蒼とした森林資源を持った国というのは、極東では日本だけかもしれない。
東南アジアまで降りれば、また別なのだろうけれど、木々に対して “繁茂する” という形容を付けられるのは日本しかないような気がする。
一般道をずっと走っていくと、この時期、どこにも見事な水田が広がる。
植えられたばかりの苗が、澄んだ水の上に淡い緑の影を垂らす。
水面に映り込む木立や山の峰。
まるで、湖だ。
規則正しく植えられた苗さえ、人の手を介することなく、あたかも自然の摂理に従って自生しているように思えてくる。
英語で「文化」を意味する単語を「カルチャー Cultuer」という。
語源は「耕す」。
そう考えると、日本の “文化” というのは、なんと自然そのものの姿に近いことか。
稲作民族は日本人に限らないだろうが、日本の水田風景は、やはり特殊な美しさがあるように思う。北関東から東北にかけて広がる日本の水田を見ていると、山の緑や木々の葉影と一体となって、自然の景観そのものに溶け込んでいることが分かる。
もともと、日本は森林と水に恵まれた国である。
日本の森林被覆率は70%弱といわれ、“森と湖の国” といわれるフィンランドに匹敵する世界有数の森林国だ。
さらに、山から新鮮な湧き水を汲み出す河川にも恵まれた “水の大国” でもある。
だから、日本の水田は、“緑と水” が当たり前のように周りを囲む豊かな自然環境を背景に広がることになった。
たぶん、そのことが、日本人の自然観や美意識を構成する大きな因子になっているようにも思う。
とにかく、水底が透き通るようにきれいな水。
そういう光景を、日本人は太古の昔から当たり前のように眺めてきたのだ。
その美意識が、水田耕作にも投影されている。
日本人が、自分自身の穢れ(けがれ)を清めるときに、滝に打たれたり、川や海の水で洗い清めるという習慣を持つようになったのは、自然と見事に一体化した水田のイメージとセットになっているはずだ。
そこでは、食物を生産するという経済行為が、自然と融合するという美学の創造にもなっている。
苗を植えた地に水を導き入れるということは、土地に蓄積していく毒素を洗い流すことにもなる。
「清らか」という言葉は、たぶんそこから導きだされた概念ではあるまいか。
人間同士の軋轢(あつれき)を「水に流す」という言葉で処理するような感受性も、そこから生まれてきたように思う。