アートと文藝のCafe

アート、文芸、映画、音楽などを気楽に語れるCafe です。ぜひお立ち寄りを。

自己啓発ビジネスを信じていない

 30年ぐらい前だろうか。
 会社勤めをしていた頃に、一度ヘッドハンティングされかかったことがあった。

 
 マーケティングの会社だったか、コンサルティング会社だったか。
 要は、ビジネスのアイデアを出して食べていく会社だった。 

 

 仲介したのは、学生時代につき合っていた友人だった。

 

 「まぁ、うちのボスと世間話でも」
 と軽いノリで誘われ、友人も同席して、その会社の “ボス” といわれる人とステーキを食った。

 

 食事中の話題は、アメリカ牛と和牛の “脂肪のつき方の違い” なんていう話から始まったが、シェフが焼けたステーキを鉄板からプレートに移し換えるというタイミングで、そのボスが、
 「マズローの法則って、知っている?」
 と突然話題を変えた。

 

 肉を焼くための法則かと思った。

 

 しかし、聞いてみると、人間の欲求に関する「教え」のことだという。
 要は、
 「人間の自己実現要求をうまく管理すれば仕事がはかどる」
 という、心理学的な “動機づけ” を説いたものだった。

 

 「人間の欲求は階層化されている」
 と、そのボスはしゃべった。

 

 「最も下位の欲求が食欲や性欲だが、少しずつそれが洗練されていき、最後の5番目の欲求になると、自己の能力を最大限に発揮したいという欲求に昇華する」(詳細は下記参照)

 

 その5番目の境地に至れば、自己解放が達成され、サクセスへの道が拓かれるという理屈だったと記憶している。

 

 そのボスは、なぜそんなことを私に話したのか。
 たぶん、「僕らと一緒に仕事をして5番目の境地を歩もう」というメッセージを送ろうとしたのだと思う。

 

 「はぁ
 と頷きながら聞いていたが、せっかくのステーキがまずくなった。

 

 別に、その理論がつまらなかった というわけではない。
 そのボスの語り口に、生理的な違和感を覚えたからだ。

 

 どこか、マルチ商法などを仕切る人の匂い。
 あるいは、新興宗教か自己開発セミナーなどの講習会で、演壇に立って説明する人の匂い。

 

 心理学とか哲学のテーマを、誰にでも分かりやすい言葉で説いて、
 「ほら、あなたは、もう生まれ変わってますよ」
 とささやく催眠術師の匂いが、そのしゃべり方から立ちのぼってきたのだ。

 

 で、結局そのボスと会うのは、それが最後となった。

 

 結論を先にいうと、「世の中でいちばん貧しいもの」は、自己啓発本もしくは自己啓発セミナーといった、“やる気を出させるビジネス” だと思っている。
 (マズローさんには気の毒なことに、こういうビジネスを推進する人の理論武装として、マズローの法則はよく引用されてしまう。それ自体は別に悪い理屈ではない)。
 
 とくに、自己啓発書のたぐいは、その実効性を具体的に訴えるものが多いから、新聞広告や車内吊り広告のタイトルを読むだけで、いわんとしているテーマはだいたい推測できる。

 

 「◯ ◯日間で、✕ ✕を達成する法」
 「◯ ◯だった人生を好転させる12の法則」
 「デキる人間は、みんな✕ ✕をクリアしていた」
  みたいな。

 

f:id:campingcarboy:20200616074333j:plain

 

 これらの本には、一貫したスタイルがある。
 最後までキチっと読み終えたものがないので、うかつなことは言えないが、要は、


 「おのれを信じなさい」
 「おのれの中には無限のパワーが眠っています」
 「あなたが成功しないのは、そのパワーに気づいていないからです」
 「だから、まず✕ ✕を実行しましょう」
 「そうれば、あなたの周りに、あなたを慕う人がたくさん集まってきます」

 … という感じの言葉が連なる。

 

 中身が替わるのは、「✕ ✕」のところ。
 この「✕ ✕」が、時に「速読法」になったり、「整理整頓術」になったり、「サプリメントの名」になったりする。

 

 つまり、
 「汗水垂らしてトレーニングに励むのが常道なんですが、実は、短期間に成果を上げるための “筋肉増強剤” という秘策があるんですよぉ!」
 みたいな “秘策” の伝授で締めくくられる。

 

 この “秘策” の部分が、なにがしかのビジネスにつながっている。
 
 こういうたぐいの “ビジネス観” が生まれてきたのは、1980年以降、新自由主義的な経済システムが世界の主流になってきてからだと思うが、早い話、こういうのは、「弱肉強食」を煽るような考え方にすぎない。

 

 まぁ、それでも多くのヒトは社会的強者になりたいわけだから、こういう自己啓発本のようなものに一度は興味を持つ。

 

 しかし、問題は、自己啓発本を読んだりしたところで、結局やる気が持続しないことなのだ。


 日々の仕事が忙しいと、その忙しさを乗り切るために読んだ自己啓発本の内容すら、人間は忘れてしまう。

 

 だから、目新しいものが出てくると、また買う。
 そこが自己啓発本の “売れる秘密” であるかもしれない。
 
 
【参考】
アブラハム・マズローアメリカの心理学者1908年生)
が提唱した人間の欲求の階層

第一階層(生理的欲求) 食欲、睡眠欲、性欲などの本能的欲求。
第二階層(安全欲求) 安全・安心な暮らしがしたいという欲求。
第三階層(社会的欲求) 集団に属したり、仲間が欲しくなったりする欲求。
第四階層(承認欲求) 他者から認められたい、尊敬されたいという欲求。
第五階層(自己実現欲求) 自分の能力などを引き出す創作活動への欲求。
(いくつかのネット情報からアレンジ)