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オウム真理教とは何だったのか? (1)


村上春樹オウム信者の対談

  
 27年前、オウム真理教という宗教が当時の若者たちを惹きつけた理由は何だったのか。

 

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 小説家の村上春樹は、オウムの元信者たちにインタビューした『約束された場所で』(1998年刊 写真上)という書物で、オウムに関わった人々の精神風景を浮かび上がらせようとした。

 

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  その本の中で、印象的なエピソードがあった。

 

 「狩野浩之(かの・ひろゆき)」という名前で登場する元オウム信者の話である。
 1965年生まれの男性で、村上春樹が彼を取材したときは30代半ばだったという。

 

 この狩野氏は、とにかく幼い頃から頭脳が鋭敏に回り、大人たちと議論しても負けたことがなかったそうだ。

 

  しかし、読書は苦手だったという。
  「本を読んでいると、著者のいろんなアラがすぐに見えてくるんです。特に哲学書などは、偉い先生が『自分はこれだけ知性が高い』ということを示すために書かれているような気がして、すぐに嫌気がさしてくるんです」

 

 しかし、彼は、スウェデンボルグという心霊学者の本だけは高く評価した。

 

 「スウェデンボルグは50歳を境に急に霊能者になり、死後の世界に対してものすごい量の記述を残した人ですが、その論理の鋭さには感心しました」

 

 つまり、心霊研究のような実証的な科学とは相いれないものであっても、それを叙述する “理屈” に整合性があれば信頼するに足る、と狩野氏はいうのだ。

   
 その狩野氏が最後にたどりついたのが、オウム真理教を創設した麻原彰晃の言葉だった。

 

 このとき、狩野氏は次のようなことを考えていたという。

 

 「形あるものはいつか壊れる。人間も同じ。必ず最後に死が来る。すべてのものが真っ直ぐに破滅に向かっている。
 言い換えれば、“破滅” こそが宇宙の法則。
 オウム真理教で説かれる仏教の根本的な無常観というのは、私が考えていた宇宙の破滅の法則と同じものだった。
  しかし、他の仏教の本は、内容が直接的ではなかった。自分が知りたい部分までたどり着けないという感じだった」

 

 その点、オウムの説く “仏教” は、クリアな言葉で、ストレートに破滅に向かう宇宙の法則を説き明かしていた、と狩野氏はいうのだ。

 

 それを聞いた村上春樹は、さすがにたまりかねて、次のような発言をしている。


  「(他の仏教書や哲学書があいまいな部分を持っているとしても)、世の中の人々が送っている人生の大部分は、測定できない雑多なもので成り立っているんですよ。それを根こそぎ測定可能なものに変えていくというのは、おかしいのではないですか?」

 

 しかし、村上春樹にそう突っ込まれた狩野氏は、村上の言葉をさえぎって、こう言う。

 

 「オウムには、どんな疑問に対してもすべて答が用意されていた。(人間が生きていくうえで抱えるあいまいなものに対して)、すべて明瞭な答が返ってくる。
  だから私は、(今は)仏教を数値で説明する方法を考えている」

 

 チベット密教ヒンズー教、さらにはキリスト教的な要素が錯綜しているオウムの教義が、はたして「仏教」と言い切れるかどうかは疑問だが、少なくともその信者たちには、その異端性がゆえに、まったく新しい境涯に自分を誘導してくれるものとして映ったのだろう。

 

 村上春樹のインタビューに答えて、狩野氏が「仏教を数値で説明する」と言ったのも、「既成の仏教はそれをしてこなかったから」という思い込みがあってのことである。

 

 オウムの教えを外から眺める私たちは、ともすれば、信者たちが怪しげな神秘体験に感応したと考えがちだが、この狩野氏がいうように、彼らは、自らが経験した神秘体験には合理的な根拠があると信じていたようだ。

 

 実はそれらの神秘体験こそ、薬物を使ったり、巧妙な洗脳技術による生理的な脳内変化に過ぎないのだが、オウムの教義にはそれを論理化する罠が仕掛けられていたといえるだろう。
  
  
人間の心は「数値」で解明できるのか?

 

 とにかく、狩野氏が言い切った「仏教を数値で説明する」という発言に、オウムに何かを求めた若者たちの一つの具体像を読み取ることができる。

 

 「仏教を数値で説明する」
 というのは、すなわち理詰めでものを考えるということだ。

 

  それは、科学的合理性を追求する手法として広く認められているものだが、そこに落とし穴がある。
  人間の心の問題は数値化できないからだ。

 

 喜怒哀楽の感情が起こったときに、人間の脳のどの部位が刺激されているかということは解ったとしても、喜怒哀楽というのは複合的なものだから、哀しみのなかに解放感があったり、歓喜の頂点で虚脱感が訪れたりする不思議さを説き明かせない。



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 なぜなら、コンピューターと違って、人間の脳は一つの行動をしながらも、それとは関係ないさまざまな情報処理を同時並行的にこなす能力を持っており、単一な思考として取り出すことは不可能だからだ。

 

  「心」とは、この複合的な脳の情報処理を総体的に表現したもので、そのほとんどは無意識の領域に属する。(人間は、このような高度な情報処理能力を手に入れるのに、340万年かけている)。

 

 しかし、狩野氏は、そのような人間の “心” の成立過程を無視して、「心」は数値化できるし、「宗教」もまた数値に置き換えることが可能だと言い切る。

 

 このようなオウム側にいた人々を何人か観察した後に、村上春樹は、巻末に収録された精神科医河合隼雄(写真下)との対談で、こう語っている。

 

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 「(オウムの信者たちと話していると)、宗教的な話になったときに、彼らの言葉に広がりというものがないことに気づいた。それはなぜなのだろうと、ずっと考えてきた。


  つまり、オウムの人たちは、口では『別の世界』を希求しているにもかかわらず、彼らの考える世界というのは、奇妙に単一で平板である。あるところから広がりが止まってしまっているように思えた」

 

 その例として、村上は、教祖の麻原彰晃に代わってマスコミとの質疑応答をこなした上祐史浩(じょうゆう・ふみひろ 写真下)に対する印象を、こう述べる。

 

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 「(上祐という人は)非常に巧妙なレトリックを駆使して論陣を張る。しかし、彼が言っているのは、ひとつの限定された言語空間の中だけで通用する理屈でしかない。その先までに、まったく広がらない。
  だから、当然ながら人の心には届かない。 でも、(彼の議論の)相手は彼を言い負かすことができない。(彼の議論には)深みがなく、なんか変だと思っても、有効に反論できない。
  そのことをオウムの人たちに聞くと、『上祐さんみたいに頭の良い人はいないからだ』と、みんな言う」

 

 このエピソードにおいても、オウムにいた人々は、世の声には耳を閉ざしながら、教団内で信頼できると思った人のレトリックだけはしっかり信じていた様子が伝わってくる。

 

 村上春樹のこの観察を受けて、河合隼雄は答える。

 

 「(オウムに関わった人々も)、やはり最初は『世の中がなんか変だ』と疑問を持ってオウムに入ったわけですが、その『何か変だ』という疑問も、教団の中に入ると、『それはカルマ(業)のせいだ』という一言で、きれいに説明されてしまうんです。
 しかし、一言で説明がつく論理などというものは、絶対にダメなんです」

 

 河合隼雄は、そこで文学やアートの力というものに言及する。
 要は、文学やアートというものは、「この世が一言で説明できないもので成り立っている」ことと教えてくれるものだという。

 

 特に小説ともなれば、その人の教育レベル、生活環境、交友関係などといった後天的な体験の積み重ねによって、哲学のようにも読めるし、社会学のようにも読めるし、恋愛論のようにも読める。

 

  そのように、読者が求めるものによって内容が変化することを、もし「あいまいだ」というのならば、人間そのものが、本来あいまいな存在なのだ、と河合はいう。

 

 

“あいまいなもの” の価値

 

 そもそも、文学やアートに「あいまいなもの」を感じるということは、それに接している読者や鑑賞者の頭脳が “思考中” だからである。

 

 どんな人間も、思考中であるときは、あいまいな気分にならざるを得ない。

 

 しかし、その「あいまいさ」との格闘に費やしたエネルギーが、その人の思考力を鍛え、自分にとっての「真実」を見つけ出す力をつちかう。

 

 だから、そのようなプロセスを経ずして、いきなり回答が与えられたならば、その段階で、思考する人間の脳活動は停止する。

 

  オウムの人たちが、教祖の言葉を聞いて即座に「解った!」と思わず膝を打つようなクリーンな回答を得たと思えたのは、実は、彼らの脳活動が停止してしまったからである。

 

 そういった意味で、オウム側にいた人々のインタビュー集が、「本を読むのが苦手だった」と告白する人(狩野氏の例)から始まるのは象徴的だ。

 

 理解力は備わっていても、読書によって鍛えられたことのない脳は、シンプルで力強い論理に簡単に染色されてしまう。

 

 元オウム信者の狩野氏の例は、まさにそのことを語っている。
 おそらく村上春樹も、そのことを意識してこの人の話を冒頭に持ってきたに違いない。

  

※ この稿続く