アートと文藝のCafe

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自分を売り込んでも、自分の値段は自分で決められない

 自己啓発本のほとんどは、「自分を売る」ことのノウハウを教えるものといってもかまわない。

 いかにしたら、自分の能力や個性を相手に認めさせるか。
 そのためには、「謙虚になること」、「相手に優しくなること」、「相手の立場を想像すること」などと諭されるが、それも結局は「自分を売る」ことの戦略論・戦術論として語られているに過ぎない。

 

 「自分を売る」
 
 確かに、コツと度胸さえ備わってくれば、それは誰にだってできる。
 ただし、人は「売った自分」に、自分から値段を付けることはできない。


 「売った自分」にいくらの対価を払ってくれるのかは、相手が決めることであって、自分の方ではない。

 

 自分には、どれほどの価値があるのか ?

 

 自己啓発本の多くは、そこになると沈黙を守り通す。
 一般論が通用することのない世界に入り込んでしまうからだ。

 

 多くの自己啓発本は、世の常識や思い込みから解放された「自由な個人」を目指すことを提唱する。
 
 だからこそ、多くの自己啓発本は、「あなたは自由のつもりでいるが、本当はものすごい束縛の中で生きているのです」という書き出しで始まる。
 そして、「あなたの本当の価値に、あなた自身が気づいていません」というふうに誘導していく。

 

 しかし、
 「自分にどれほどの価値があるのか ? 」
 という問に対しては、永遠に自分の方からは答が出せない。

 

 つまり、自分を売り込んでも、その報酬を自分で決めることはできない。
 たとえ、かつて何らかの仕事を世に残し、それの報酬額が定まっているからといっても、それが次の仕事を保証するとは限らない。

 

 クライアントの担当者が変わるかもしれない。
 世の中の情勢が変わるかもしれない。
 それにつれて、人々の価値観が変わるかもしれない。
 自分の能力が、その変わった世の中に対応できないようになっているかもしれない。
 それらを判断するのは、すべて相手方であって、自分ではない。

 

 そう考えると、「自分を売った」ところで、相手が値をつけてくれなければ何も始まらないということになる。

 

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 しかし、こうも言える。
 「売り込まなくたって、価値があれば、黙っていても人は寄ってくる」

  PRって、そんなもんだ。


 昔、20年近く商品PRの世界にいて感じたことは、価値のないものは、売り手がどんなにキャッチの力やデザインの力でカバーしようとも、結局爆発的なヒットにならないということだった。(そこそこまでは行くけれど

 

 逆に、本体そのものに価値があれば、たとえ凡庸なキャッチや垢抜けないデザインでパッケージされても、それらを破ってオーラが輝き出す。

  

 人間も同じ。
 自分の権威を認めさせようとして、ことさら尊大に振舞ったり、自分に教養のあるところを見せびらかそうとして先端のビジネス用語を並べたって、その人間に本当の「価値(魅力)」がなければ、誰も尊敬しないし、付いていかない。
  
 そういう人に限って、「自分の価値」を自分で決めたがる。
 学歴や家柄にこだわったり、職務上のポストにこだわるような人たちは、たいていそのような人たちだ。

 

 世の中には、そんな人が多い。
 だけど、いかに自分を売り込もうが、その対価を決めるのはいつの場合でも、結局は、自分以外の「他者」なのだ。