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言葉にならないもの(柄谷行人について)

  

 柄谷行人(からたに・こうじん)という批評家の本について、以前にも書いたことがあったが、そのなかの『意味という病』(1975年)という本をもう一度取り上げてみたい。

 

 

 この著作は、シェークスピアの『マクベス』を論じた「意味に憑かれた人間」を中心に構成された評論集だが、ほぼ同時期に書かれた文学論を包括的に収録しており、哲学的・思想的な傾向を強めた後の著作群と比較すると、かなり文芸的な香りを強く放っている。

 

 それゆえに “文学好き” には分かりやすい部分も多く、かつ文体も爽やかでみずみずしい。
 そのため、発行から50年近く経っているにもかかわらず、いまだに私が気に入った評論集の一つになっている。

 

 そのなかに、次のようなくだりがある。


  
  「 …… 自分をうまく説明できない人に代わって、その説明できない部分を説明してやっているような文章が横行していますが、書く方にも読む方にも、言葉では掬い(すくい)きれないものへの自覚がなければ、言葉は力を持たないでしょう」


  
  これは、柄谷自身の言葉ではなく、柄谷が小説家の古山高麗雄のエッセイの一文を引用したものだ。

 

  この引用文を紹介した評論「人間的なもの」の中で、柄谷自身はこういう。


  
  「(言葉では)表現できない不透明な部分が人間の行為にはつきまとっている。
 ジャーナリズムは(世間を騒がす奇々怪々な事件を論評するとき)奇怪なものを “奇怪なもの” として受けとめずに、何か別のもの …… たとえば心理学とか社会学の言葉を借りて安心しているようにみえる。
 (しかし)そういう態度は傲慢だ。それは、自分の理解しうるものの領域の外に一歩も出ないということであり、結局、新しい現実を古い経験の枠に押し込んで安心しているだけだ」 
  


  この文が書かれたのは昭和48年(1973年)である。
  だから、ここで言われる「奇々怪々な事件」というのは、連合赤軍浅間山荘事件とか、その前の年の大久保清による連続女性殺人事件、さらにその前年の三島由紀夫の割腹自殺事件などが想定されているように思える。


  
  しかし、柄谷行人が指摘する「奇怪なものを自分たちの理解できる形に翻訳して安心してしまう」という私たちの態度は、令和4年(2022年)の現在においても、一向に変わっていない。


  むしろ、当時よりも、この傾向は強まっているようにも感じる。

 

 たとえば、自己啓発本
 本屋の店頭に並んでいる自己啓発本のたぐいを一冊でも取り上げてみると、ほとんどの本が「奇怪なもの」から目を背けて書かれていることが分かる。


  
 それらの本で解明される “人間心理” は、ほとんど社会学か心理学、ないしは脳科学の概念を導入にしたものばかりだ。

 

  つまり、それらの本の著者たちが、結局「世界」というものを、社会学や心理学、あるいは脳科学のフィルターを通してしか見ていないということを意味する。
  
  そのような世界観で「世界」をまとめてしまえば、「世界」はすべて「了解可能」なものにとどまるだけである。
  そこで失われるのは「人間存在」の手触りである。

   

 
 私は、簡単に「答を出そうとする」すべてのものに、不信感を持っている。
 答を導きだすよりも、むしろ、出された答の前に立ちはだかっていた「謎」の方が美しいということは、この世によくあることだ。

 

 

 柄谷行人の著作は、すべて「謎」を「謎」として向き合うことの魅力を説いている。   

 彼はどんな文芸評論をこなすときも、自分の気に行った本を語るときには、かならずその本のなかに、「謎」を発見する。
 それが、文章の深みを引き寄せる。

 

 そもそも、文章の深みというのは、いったいどこからくるのか?

 

 それは、言葉で説明できない何かを、社会学や心理学などの助けを借りて説明することを避けつつ、不断にそれを追い求めていくという緊張感から生まれてくる。

 

 

 柄谷行人は、古井由吉の『先導獣の話』という作品から引用した文章で、このように書いている。(『意味という病』 「小説の方法的懐疑」)
  
  「あまりにも合理的なものは、ある時、そっくりそのまま非合理的なものである」
  
  彼は、その後に、こう書く。
  「古井氏は、人間の人格・心理・思想といったあいまいなものを少しも信じていない」 。
  
  そして、このような認識の根底にあるものは、「意味の体系」の否認である、と続ける。

 

 「意味の体系の否認」とは、我々が常に自分の心の拠りどころとして引き寄せようとする「常識」とか、「社会通念」などと呼ばれるものの総称だ。
 それに頼っているかぎり、何かあったとき、自分を安心させることはできても、物事の真実を突き詰めようとする意欲も熱意も浮かんでこない。

 

 

 それにしても、  
 「あまりにも合理的なものは、ある時、そっくりそのまま非合理的である」
 とは、またなんと素敵なフレーズであろうか!

 

 この言葉を逆から眺めれば、
 「非合理的なものでも、みんなが承認してしまえば、合理的なものになる」
 ということだ。
 

 
  実は、近代の歴史は、常にそのようにつくられてきた。
 

 
 現在、我々が直面している社会のさまざまな問題も、本当のことをいえば、どうしようもない不条理に満ちているはずなのだ。

 

 しかし、テレビや新聞、あるいはYOUTUBESNSで拡散していくニュースは、みなその不条理の根底まで掘り起こすことなく、現在流布している「常識」の範囲で説明しようとする。

 

 そこで明るみに出るのは「真実」ではなく、ただの「更新された情報」にすぎない。

 

 近代社会というものが、そういう構造の上に成り立ってきたということは、「近代文学」もまた、結局は、世間的に流布している「社会学」、「心理学」、「脳科学」でしか説明できない範囲で結着をつけようとしてきたということなのだ。
  


 私たちに「真実」に迫る方法があるとしたら、答はひとつ。
 「言葉にならないもの」を探し求めていくしかない。

 

 言葉にできないものの “手触り” 。そして、それを言葉にしたいと思っても、それができない時のもどかしさ。

 

  たぶん、それを手放してしまったら、小説家も、評論家も、Jポップの作詞家も、マニュアルライターも、物書きとしての生命は終わる。

 

 柄谷の著作は、いつもそのことを教えてくれる。