アートと文藝のCafe

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オウム真理教とは何だったのか? (2)

  
※ 前回のブログ (2022年3月24日)の続き


   
オウムの教義は資本主義のメカニズムをなぞった

 

 オウムの元信者たちのインタビューで構成された『約束された場所で』(1998年刊)という本で、著者の村上春樹は、オウム信者たちの奇妙な平板さに貫かれた精神に違和感を抱いたと語っている。

 

 

 そのくだりを読んで、私は、オウム真理教の教えというのは、現代の資本主義社会の精神を巧妙になぞっているような気がした。
  
  つまり、資本主義は、あらゆる広告展開やメディア戦略を通じて、消費者の価値観の単一化を進めてきた。
 その結果、20世紀の世界においては、商品の大量販売がようやく実現することになった。

 

 もちろん、そのような社会に否定的な感情を抱く人も出てくる。

 

 「資本主義社会では、モノの価値ばかりが優先されて、人間の魂の問題が貧弱になっているのではないか?」
 そう考える人が出てくるのも当然である。


 
 オウムの教義はそのところを巧みに突いた。

 つまり、オウムの説法は、表面的には、資本主義の負の部分 すなわち格差社会の増大、利己主義の蔓延などに異を唱え、倫理的な正義感を煽るような形でスタートした。

 

 一部の若者たちは、そういう資本主義の “悪” からの解脱を求めてオウムに吸い寄せられ、煩悩の元となる個人の私有物をまったく持たない出家生活に飛び込んでいった。

 

 しかし、実は、そういうオウム信者たちの心理こそ、資本主義マーケットの展開によって “刷り込まれた” 「単一の価値観に染まった人たちの思考」だったと言わざるを得ない。

 

 どういうことか?

 

 資本主義世界におけるマーケットを形成するには、まず消費者の心を巧妙にくすぐる商品開発と、その感性をわしづかみにする美辞麗句に満ちたキャッチが必要になる。

 

 それは、消費者の判断力が働かないうちに商品にシンパシーを抱かせる一種のマインドコントロールともいえるものだ。

 

 オウムの教義は、このような資本主義マーケットを成立させたマインドコントロールの手法を、宗教的な装いでくるんで徹底させたといってもいい。

 

 だから、こうも言える。


 オウムの教義は、「大量生産・大量消費」を達成した1970~80年代の日本の資本主義のメカニズムを踏襲する形で登場したのだ。
 
 オウム入信者がたくさん生まれた1980年代というのは、日本の消費社会が爛熟期を迎えた時代だった。
 その時代に青春を過ごした若者たちは、洗練された商品広告に浸りきることで、時代の先端をゆく快感も知った。

 

 しかし、その快感は、90年代に入ってヒタヒタと忍び寄ってきたバブル崩壊の予感によって崩されていった。

 

 バブル崩壊期に、若者たちの心に影を落としたのは、「豊かな社会が終わろうとしている」という終末的な気分だった。

 

 その不安感は、今の時代と比べ物にならないくらい強かったに違いない。
 事実、「世界の終わり」を予言した『ノストラダムスの大予言』という本は、1998年の発行部数において、空前絶後の209万部を誇った。
  

   
「世界の終わり」とは、ゲームでいうリセット

 

 『ノストラダムスの大予言』では、1999年の7月に空から「恐怖の大魔王」が降ってきて、世界は滅亡すると説かれており、マジに信じ込んでいた小学生が多かったとも伝えられている。
 
  高校生ぐらいの女子の間でも、
 「処女のまま死ぬのは嫌だから、世界が滅亡する前に、セックスだけは経験しておこうね」
 などという会話が真面目に交わされていたという話も聞く。

 

 ノストラダムスという440年も前の預言者の言葉を、現代社会に当てはめること自体に飛躍があるが、メディアがシャワーのように垂れ流す「単一思考」に慣れた人たちにとっては、それは「飛躍」ではなく、きわめて自然な現状認識であったかもしれない。

 

 実際に、オウム入信者は、このノストラダムスの予言と照合する形で、麻原彰晃の唱える「ハルマゲドン(最終戦争)」説に素直に感応している。
 それは、ゲームでいう “リセット” の感覚だったのだろう。

 

 もし、オウム信者の精神を「異常」だというのなら、それはその時代の社会の価値観そのものが異常だったのかもしれない。

 

「異常」は資本主義世界では大きな “価値” である
 
 
 考えるべきことは、資本主義社会にとって、「異常」はけっしてマイナスではないということだ。


  「異常」であることは、「正常な価値観」からの異質性を強調し、消費者の注目を集めるために必要不可欠の要素となる。

 

 「異常」は、「ヤバイ」の同義語なのだ。
 その言葉には恐怖、嫌悪、共感、憧れ、讃嘆が同居している。

 

 つまり、「異常」こそが、商品がバズるときの必要不可欠な要素といっていい。

 

 資本主義マーケットにおいては、すべての新商品は、“異常なもの” として注目されることによって、人々にはじめて認知される。

 

  我々が、その思考に慣れている限り、いつでもすぐそばに “オウムの誘惑” が待っている。