キャンピングカーでいろいろな所に泊まっていると、ときどき、
「あ、ここは人間が近づいてはならないところだ … 」
と思えるような場所にたどり着くことがある。
最近はもっぱらキャンプ場かRVパーク、高速のSA,PAで泊まることが多いので、そういう場所に対する感受性が鈍磨しているが、昔、『全国キャンプ場ガイド』を編集していた頃は、よく山の中に泊まった。
日暮れても目的地まで届かないときは、山奥の石切り場や川原で寝るしかなかったのだ。
30年ぐらい前だったと思う。
その晩のねぐらを探しながら、中国地方の山奥を走っていたときだ。
ダム湖の看板が見えた。
近づいていくと、湖を見おろせる絶好のスペースが見えてきた。
車1台分ぐらいの隙間しかないのだが、車外に椅子、テーブルを持ち出せば、湖を遠望しながら、快適なティータイムを楽しめそうに思えた。
日が沈むまで外の景色を眺め、夜は車内で一人だけの酒宴。
とっさに、その晩のスケジュールが決まった。
湖が見おろせるその狭いスペースに、なんとか車を収め、椅子とテーブルを外に持ち出した。
今は、キャンピングカーを停められるスペースがあったとしても、所有者が特定できない場所に無許可で車を停めるということはマナー違反となる。
しかし、30年ぐらい前は、キャンピングカーも少なかったので、あまりそういうことに頓着することなく、気に入った空き地があれば自由に寝泊まりできた。
その日も、ダム湖が見える空き地になんとか車を押し込み、さっそくコーヒーを沸かして、カップになみなみと注ぎ、それを手にもって車外に出た。
夕暮れが湖の上に迫っていた。
美しい光景だったが、異様な光景でもあった。
その頃、日本全国が歴史的な渇水状態にみまわれ、どこの地域でも深刻な水不足が問題になっていた。
この湖も例外ではなく、水面が極端に低くなっている。
樹木で覆われた層がある線でくっきりと断ち切られ、白く乾いた岩肌がざっくりとむき出されているのだ。
今まで正体を現さなかった大地の素顔が、水が涸れて、その荒々しい相貌を白日のもとにさらしたという感じだった。
私は、その生物の匂いをまったく欠いた岩盤を見つめながら、行ったことのないタッシリ砂漠とかカッパドキアの風景を想像した。
旧約聖書などに出てくる、神が預言者たちに謎めいた啓示を与える場所。
なぜか、そんなふうに思えた。
不意に寒気をおぼえた。
夏が過ぎたとはいえ、まだ秋は深まっていない。
寒気の正体が分からない。
次に、音がまったく途絶えていることに気がついた。
鳥の鳴く声も、風のそよぎも聴こえない。
幹線道路が近くを通っているはずなのだが、車の走行音もここまでは届かない。
沈黙の重みが、大地を覆っている。
そう思うと、えもいわれぬ不安感が頭をもたげてきた。
地球上からすべての音が消えてしまったことを、私一人が知らないまま、ここに座っているという気分だった。
壮麗な夕焼けが空を覆いはじめた。
それが丸裸にされた岩肌を、血の色に染めていく。
あまりもの美しさに鳥肌がたった。
湖面から無数の粒子がキラキラと立ち昇り、残照に包まれながら輪舞を踊り始めている様子が目に見えてくるような気がした。
「ここにいては何か良くないことが起こる!」
直感的にそう感じた。
このとき私が思い出したのは、ひとつのホラー小説だった。
アルジャーノン・ブラックウッドの書いた『柳』。
キャンプ怪奇小説といえばいいのか。
2人のアウトドアマンが、水柳の群生する湖のほとりでキャンプをしているとき、世にも恐ろしい奇怪な出来事に襲われるという話だ。
恐怖の対象が何であるかは、最後まで明かされない。
しかし、人知を超えた超自然的生命が、主人公たちを徐々に包囲していく気配が驚くほどリアルに描かれている。
人間の想像力すら超えるような美しい光景は、それ自体がすでに邪悪な精神に浸されている。
まさに、いま自分が見つめている湖面こそ、人間が見ることを許されない光景なのではなかろうか?
それをこっそり覗き見している。
そんな気持ちが込み上げてきたのである。
夜を迎え、そのまま朝まで眠ってしまえば、けっきょく何事も起こらなかったと思うことは、「理性」では理解できた。
しかし、眠りにつくまでは、「何かが起こるかもしれない」という怯えがずっと続くことも予測できた。
私は急いで、椅子とテーブルを車内に収め、そこから立ち去る準備を始めた。
そこを逃げ出したあと、どこで泊まったかはもう覚えていない。
しかし、逃げ出す直前に見た湖の荘厳な夕焼けさは、今も鮮明に覚えている。