アートと文藝のCafe

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10年前の「3・11」


 東日本大震災が起きて、10年経った。
 地震が始まったとき(3月11日の14時46分)、私は北関東のキャンピングカー販売店で、新型車の取材をしていた。

 

 その場所が震源地に近かったせいもあり、10年経った今も、そのときの記憶は鮮明によみがえってくる。

 

 野外で写真を撮っていたが、突然、大地が波打った。
 立っていられなかった。
 ほぼ同時に、その販売店と道路を隔てて建っていた2階屋の瓦屋根がバラバラと地面に舞い降りてきた。

 

 販売店スタッフも私たちも、地震の概要を知ろうと、みな事務所のテレビの前に集まった。
 すでに、停電が生じていて、テレビがつかない。

 
 ラジオは電波を拾った。
 岩手、宮城、福島を中心に、かつてないほどの大地震が発生したと伝えている。

 

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 スタッフの携帯電話に入ってくる情報によると、道路の信号も動かなくなり、すでにあちこちで大渋滞が発生しているという。

 

 私は、その販売店のスタッフたちに暇乞いをして、急いで家に戻ることにした。
 家の様子を知りたいと思い、家族に携帯電話をかけたが、つながらなかった。

 

 幹線道路に出ると、どこの十字路でも、車はみな車が停まった状態であった。
 それでも、2~3台ずつ譲り合って、少しずつ前に進む。
 どの町の信号も故障しているので、夕暮れが迫ってきても幹線道路の渋滞は一向に収まらない。

 

 自分の住んでいる町にたどり着いたのは、深夜の2時だった。
 その時間でも、多くの通勤客が歩道を歩いて自分の家を目指していた。
 
 家に入り、テレビを見て、はじめて津波の情景を眺めた。
 恐ろしい出来事が起こったことを、その時点でようやく理解した。

 

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 当時、勤めていた会社は東京の品川にあった。
 翌日出社すると、地震が起きた直後、やはり会社の本棚から本や雑誌がバラバラとこぼれ落ちたと同僚が言った。


 その日は、仕事をしていても、余震が何度も会社の建物を揺らした。

 

 夜、駅に向かって歩いていると、ビルの窓から見える明かりがほとんど消えていた。
 歩道を照らす街路灯だけが寂しく灯っていた。

 異様な光景であったが、不思議なもので、その暗さがなんだか爽やかに見えた。

 

 それまで、東京の夜は異様に明るかった。
 キャンピングカーを使って、地方のキャンプ場を取材していたとき、どこの地方に寄っても、街全体がびっくりするほど暗いことが分かって驚いたことがあった。

 

 しかし、そういう経験を重ねているうちに、気づいたことがある。 
 「東京の夜の明かりの方が異常なのだ」と。


 都心部では、どんな路地に入っても、舗道全体がガラス張りのショーウィンドウのようにけばけばしく輝いている。
 東京の繁華街では、路上がそのまま宝石箱だった。

 

 いかに無駄な明かりが多かったことか。
 そういうことを、3・11の震災後にようやく気付いた。

 

 東日本大震災の被害は、地震津波だけではなかった。
 今も被災地の復興を妨げているのは、原子力発電所の事故である。

 

 原発の周辺では、10年経っても除染作業が進展せず、いまだに危険区域として、人の立ち寄りが許されない地域が広大に残っている。
 しかも汚染物質の処理には、まったく目途が立っていない。

 

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 大都市を中心とした、まばゆいほどの「夜の光り」は、みな原子力発電所の助けを借りて実現されていたことを、今さらながら感慨深く思う。
 
 菅政権は、「日本のカーボンニュートラルの実現」を公約に掲げた。
 そのなかに原発依存度がどのくらい残るのか、それに対する言及はほとんどない。
 もちろん重油を焚く火力発電をこれ以上増やすわけにもいかない。

 

 日本の電力事情は、将来どうなるのか。
 それがはっきりと示されないかぎり、東日本大震災の脅威が去ったとは、誰にもいえない。