人間の舌が感じる “味” というのは、なかなか微妙なものである。
うまいモノはうまい。
まずいモノはまずい。
… のだけれど、
「まずいもの」+「まずいもの」 = うまい!
ということが起こりうるのだ。
実は、ある中華食堂の話。
学生の頃、夏休みの間だけだったが、ある事務所でアルバイトをしていたことがあった。
都心の一頭地にあるビルで、その屋上からは、東京駅を出ていく新幹線が見下ろせるという、まぁいかにも地価の高そうな場所にあった事務所なんだけど、昼飯に困った。
食う店はいっぱいあったのである。
ビルの地下が大食堂街になっており、洋食屋から寿司屋、天ぷら屋、ステーキ屋など、何でもそろっていた。
しかし、エリートサラリーマンたちを相手にしている食堂ばかりなので、みな値段が高いのである。
一軒だけ、貧乏学生の私でも入れる店があった。
リーズナブルな価格を掲げたラーメン屋で、昼飯どきには、一人前の炒飯を半分ぐらいの量にした “半炒飯(チャーハン)” というメニューが用意されていた。
今なら “半炒飯” というのは、たいていの中華屋の定番メニューになっている。
しかし、その時代は珍しかった。
ラーメンと半炒飯を足しても、当時400円代で収まったか。
そんなわけで、よくこの中華屋に入った。
が、味がまずいのである。
安いのはいいんだが、まずラーメンがとんでもなくまずい。
炒飯はさらにまずい。
昼飯時にいちばん出るのが「ラーメン+半炒飯」であるために、注文が入る前から大量の炒飯がカウンターの奥で山盛りになって用意されている。
で、注文が入ると、それを温めることもなく、オタマでポンとすくって、そのまま出してくるわけ。
温かみは遠のいている上に、飯はぼそぼそ。
レンゲで中をほじると、かろうじてひと皿に、奥歯にはさまりそうなチャーシューの小片が一個。ナルトが少々。
玉子なんかケチっているから、めしに色すらついていない。ほとんど白いご飯のまんま。
ある日、ちょっとイラッとしたもんだから、炒飯の上にラー油をたっぷりかけてみた。
そのラー油の辛さで多少舌をシビらせ、同時にラーメンを口のなかに注ぎ込んだ。
あ !
なんだ、こりゃ ?
うまいじゃんか !
「化学変化」というのは、こういうことを言うのだろう。
ラー油めしと中華麺の奇跡的なコラボ。
たっぷりラー油が染み込んだ炒飯の米粒が、口の中で麺の小麦とほどよく絡み、醤油の辛味と絶妙の調和を見せて、なんとも奥行のある味に変化しているではないか。
「うめぇ ! 」
感極まって、ほとんど一人で叫んでしまった。
その日から、ほとんどその店に通いつめた。
コツはラー油の量である。
炒飯が真っ赤に染まるほどかけると、実にラーメンの醤油と相性がいい。
店には悪いと思ったが、ひと瓶の半分ぐらい使ってしまうこともあった。
「おお辛ぇぇ ! 辛ぇぇ !」
と涙が出そうになる瞬間に、急いでラーメンを頬ばって中和させる。
ラー油の尖ったパンチ力を、米粒と麺のクッション材でほどよく受け止め、醤油味たっぷりの汁の中に溶かし込むと、それぞれの素材がほんらいの味を超えて、さらに2倍、3倍のうまみを引き寄せてくるのだ。
幸せだぁ ……
以来、いろんな店で、「ラーメン&ラー油炒飯」を試してみたが、この店ほどの劇的なうまさが実現されることはなかった。
ひとつ気づいたことは、おいしいラーメンとおいしい炒飯では無理であるということ。
特に、おいしい炒飯は、ラー油をかけると味が変わって、かえってまずくなるのだ。
その店の炒飯は、ぼそぼそっと素っ気ない “まずい炒飯” だったからこそ、“ラー油シャワー“ の必殺ワザが生きたのだ。
あれから、50年。
実は、この店には、今でもときどき通っている。
1年に1回くらいの割で、あのまずいラーメンとまずい炒飯が、ラー油の力によって、劇的な「化学変化」を起こす奇跡を体験したくなるのだ。
きっと一生、自分からあのラー油魔術が解けることはないと思う。
▼ 写真は「おいしい炒飯」の例。この記事とは何の関係もありません
よくコメントをいただく「司馬遼太郎大好きクン」様から紹介していただいた「半チャーハンの歌」 (↓)