タレントの武田鉄矢がMCを担当する『昭和は輝いていた』(BSテレ東)という番組をときどき観ている。
武田鉄矢氏と、私は同世代。
武田氏(70歳)の方が1年先輩だが、若いときに吸った空気が同じなので、彼が取り扱う話題の大半が理解できる。
いつだったか、この番組で、昭和30年代に流行っていた「マドロス歌謡」を採り上げたことがあった。
そのなかで紹介された『憧れのハワイ航路』という曲を聞いていて、ふと面白いことに気づいた。
同曲は、昭和23年(1948年)にレコードが発売された曲である。
歌手は岡晴夫。
大ヒットしたために、昭和25年(1950年)に映画化もされた。
私が生まれる前の歌なので、もちろんリアルタイムでは聞いていない。
ただ、テレビなどの懐メロ番組でよく歌われていたので、メロディと歌詞の一部を記憶している。
歌詞は、こんな感じだ。
♪ 晴れた空 そよぐ風
港 出船の ドラの音(ね)愉(たの)し
別れテープを 笑顔で切れば
希望はてない 遥(はる)かな潮路
ああ 憧(あこが)れの ハワイ航路
youtu.be
2番・3番の歌詞には、南国の海に沈む夕陽や、ヤシの並木なども歌われ、リゾート地としてのハワイの情景がさんざん歌い込まれている。
ハワイなどに行ったこともなかった日本の庶民にとっては、なんともエキゾチックな歌に聞こえたことだろう。
しかし、よく考えてみると、この歌がつくられた7年前、実は、極秘のうちにハワイに近づいていた日本軍機動部隊によるパールハーバー攻撃が敢行されていたのだ。
そして、そのハワイ攻撃の5年後、日本は圧倒的な軍事力を誇るアメリカに屈し、広島・長崎に原爆を落とされたことも含め、軍人・民間人含め300万人の犠牲者を出して終戦を迎えた。
その終戦から3年後に、この『憧れのハワイ航路』という歌ができたのである。
改めてそのことを考えると、日本人の “変わり身の早さ” に驚嘆する。
「くったくがない」というか、「能天気すぎる」というか …… 。
ここには、アメリカに対する宣戦布告前に日本がハワイを奇襲したということへの道義的うしろめたさというものはないのだろうか。
あるいは、軍・民合わせ300万人の同胞を殺され、かつ屈辱的な占領政策を押し付けてきたアメリカに対する恨みというものはないのだろうか。
いずれにせよ、この歌には「戦争が終わればノーサイドさ !」と陽気に敗戦を受け入れる日本人のおおらかさが表われている。
これが、もし、お隣の国、韓国であったらどうであろうか。
けっして、この『憧れのハワイ航路』のような歌はつくられなかったろう。
また、国民の間に、こういう歌を歓迎する空気も生まれないだろう。
韓国人のメンタリティーには、自分たちを悲惨な目に合わせた外国を許さないという強さがある。
たとえば、20世紀初頭に朝鮮半島を植民地支配した日本に対して、彼らは韓国という国が続く限り、日本を糾弾し続けるはずだ。
もちろん日本人も、太平洋戦争中は連合軍に対し、「鬼畜米英」と敵意をむき出しにした。
しかし、いったん戦争が終結すると、日本人は、自分たちの親兄弟や同胞を殺したアメリカの進駐軍に向かって、恥も外聞も投げ捨て、「ギブミー・チョコレート!」と笑顔で物乞いをした。
なんという変わり身の早さ !
なんという厚かましさ !
なんという屈託のなさ !
韓国の人たちと比べて、「国民性の違い」といえばそれまでだが、ここ一連の韓国政府の「反日運動」を見ていると、改めて、両民族の気質の違いといったものを考えざるを得ない。
「敵」をいつまでも許さない韓国。
「敵」すらも、最後はずぶずぶに受け入れてしまう日本。
この違いはどこから来るのか。
身も蓋(フタ)もない言い方をすれば、中国大陸に接した半島国と、島国の違いである。
つまり、いざとなったら当時最強の中国軍が地続きのまま侵入してくる朝鮮半島の国と、海によって中国から守られた日本の差だ。
言葉を変えていえば、中国文化を丸ごと受け入れざるを得なかった朝鮮と、中国文化を距離を置いて眺められる日本違いである。
では、その “中国文化” とは何か?
いちばん代表的なものに、朱子学(儒学)がある。
この朱子学の強化に、本場の中国以上に力を入れたことが、朝鮮民族のメンタリティーを確立した。
朱子学とは、何よりも「原理・原則」を重視し、人の生き方を「論理」や「規範」で拘束しようとする学問である。
朝鮮に朱子学が定着したのは16世紀の李氏朝鮮の時代である。
この時期は、中国の明朝が満州族(清)によって征服された混乱期であったため、中国では朱子学が衰えを見せていた。
それを再興したのが、李氏朝鮮の朱子学者たちであった。
この時期の朱子学は、朝鮮の学者たちが精緻な理論を確立していったため、世界の最高水準に達した。
彼らは、そのとき「我々こそが中国文明を継承する者だ」と自負し、“親” である中国すら超えたと自信を持ったことだろう。
ところが、その半島からさらに南にくだると、朱子学を十分に把握しきれない “劣等生” の日本人がいることを朝鮮の人々は知った。
朝鮮の優秀な学者たちからすると、日本人は「蛮族のたぐい」に思えたかもしれない。
現在の韓国人の「反日感情」のベースには、このときの韓民族の優越心が反映されていると見ることもできる。
では、朱子学は、朝鮮民族の気質をどう変えていったのか。
韓国の文芸評論家の一人(崔元植=チェ・ウォンシク)氏は、自著でこう述べている。
「16世紀以降(朱子学をベースとした)朝鮮思想史では、何事も正統と異端にはっきり分け、少しでも正統から離脱したら、“乱賊” と罵倒していく風潮が生まれた」(『韓国の民族文学』 1995年)
つまり、社会で起きていることが「事実」かどうかということよりも、「正統」か「異端」かということが重要になっていったのだ。
言葉をかえていえば、「ウソであっても、正義を守るためのウソは許される」ということになる。
この「正義」を何よりも最優先する苛烈な原理主義が、現在の「反日」行動の数々に影を落としている。
韓国には、「反日無罪」という言葉があるが、その意味はどんな犯罪でも、動機が「反日」ならば許されるという意味だ。
こういう苛烈な「正義感」を振りかざされると、多くの日本人はやはりたじたじとならざるを得ない。
日本には、「水に流す」という言葉があるように、いがみ合った仲でも「最後は仲良くやっていこう」という “仲直り文化” がある。
ところが、「正義」こそが人間としての至上の価値だと考える民族からみると、正義を貫く戦いを放棄し、見せかけだけの “仲良し” を志向することは唾を吐きたくなるほど恥ずかしいことなのだ。
そういう強さは、日本人も見習うべきかもしれないが、「正義」と「正義」がぶつかりあったとき、果たして、どちらの「正義」が正しいのか? という問題が出てくる。
答は、「勝った方の “正義” が正しい」ということになる。
だから、韓国の政治では、左派と保守派が選挙ごとに血みどろの戦いを繰り広げ、負けた方の大統領は投獄されるか、自殺に追い込まれるかという悲惨な末路を迎えなければならなくなる。
韓国の政変は容赦ない。
前大統領の朴槿恵(パク・クネ)氏は、汚職の容疑だけで、懲役25年の刑を科せられている。
現在彼女は67歳だから、生きて出獄できても92歳。
いかにも、保守派政治家を根絶やしにしようという文在寅(ムン・ジェイン)左派政権の容赦ない意志が感じられる。
そこには、文在寅大統領と、その意向を汲んだ左翼判事のサディスティックな嗜好すら漂っていそうだ。
こういう激しさを身に付けた民族と、いま日本人は向き合っているということになる。
どちらが正しいかということではない。
「精神性が違う」ということだけなのだ。
精神性の違いに、“善・悪” はないし、“正・誤” もないし、“勝ち・負け” もない。
ただ、ひとついえることは、人間は「正義」を振りかざすことで高揚感を覚える動物だということだ。
さらにいえば、人間は、「正義」を掲げて相手を倒すことに快感を感じる動物でもある。
その度合いが、たまたま今の韓国国民の方が、日本人より高いということにすぎない。
このような韓国人と日本人のメンタリティーの違いは、朱子学文化の濃淡だけに還元できるものではない。
両国の自然風土の違いということも大いに関わってくるだろう。
先ほど、「日本人には、水に流すという “仲直り文化” がある」と書いたが、それは、「水に流せるほど水が豊富だ」ということなのだ。
つまり、日本の自然は、立派な保水力を確保していることを意味する。
すなわち、国土の大半を占める日本の山にはすべて森林があり、そこから生まれる枯葉などが腐葉土となって豊富なミネラルを含む水が海に流れる。
それがプランクトンのエサとなり、それを食べる魚が増える。
この水資源の完璧な還流が日本という国土を豊かにし、そこで暮らす人々の精神性をも規定した。
すなわち、日本人はこの恵まれた自然資源のおかげで、
「一度失ったものも、時期がくればまた回復する」
という楽天性を身に付けたわけだ。
ところが、朝鮮半島の自然は、人々にそういう思考を許さない。
朝鮮の山間部には「はげ山」が多く、当然保水力がないため、土地は痩せ、洪水や渇水も多発する。
彼らは、一度失われた自然のめぐみは、そう簡単には戻らないことを知っているのだ。
韓国では、この朝鮮半島の「はげ山」は、日本が統治していた頃、日本人が朝鮮の資源も食料も強奪したからだ、ということになっている。
しかし、実際は違う。
作家の井上靖は、『風濤』という小説で、
「朝鮮半島のはげ山は、元寇の折に、元軍が高麗人に朝鮮半島の木々を伐採して軍船を造らせたことが原因であり、その後も朝鮮半島の森林は十分に回復していない」
という内容のことを小説内で記している。
確か、司馬遼太郎も同じようなことを言っていた気がする。
さらにいえば、朝鮮半島の地質は、風化や浸食によって岩盤が露出する傾向が強く、そもそも木が生える可能性が乏しかった。
これに加え、焼畑農業や、オンドルの薪として木を伐採することも盛んに行われ、それが朝鮮半島の自然をさらに貧しいものにした。
もちろん、この両国の自然環境の差は、そこに生きる人間の感受性すらも変えた。
われわれ日本人にとって、豊かな自然環境は「うるおい」とか、「いやし」の象徴となるが、韓国で生きてきた人々からすると、必ずしもそうではない。
朝鮮半島で生まれ、朝鮮で幼少期を過ごした作家の五木寛之は、あるエッセイのなかで、こんなことを言っている。
日本が戦争に負け、半島で暮らしていた日本人もみな祖国に戻ることになったとき、近づいてきた日本の風景を船から眺めた幼い五木氏は、その不気味な光景に立ちすくんだという。
陸地という陸地に木が生い茂り、その葉先が海の上にまでどっぷりと垂れている。
五木少年は、日本という風土が持っている過剰な生命力に不吉なものを感じ、不気味に思えたらしい。
もしかしたら、この体験が「作家・五木寛之」を生んだのかもしれない。
少年期の五木氏が見たのは、あくまでも日本の自然環境でしかなかったが、もしかしたら、彼はその体験に、日本人の精神が抱える “不気味さ” を重ね合わせたのかもしれない。
つまり、日本人というのは、まるで自然が勝手に繁茂するような “成り行き” で生きているということなのだ。
日本では、人間関係においても組織構成においても、はっきりした命令系統があるわけでもないのに、いつのまにか人が動いて、何事かが進行していく。
そこには、人間を超えた「自然」の摂理が、そのまま人間関係までをも支配しているという不気味さがある。
五木氏はそう感じながら、その違和感を文筆活動のモチーフにしていったのかもしれない。
このように、韓国と日本では自然環境そのものが異なるため、それが両国の国民感情に “良い面” と “悪い面” をもたらした。
韓国の苛烈な自然は、人間関係においても容赦ない関係をつくり出したが、日本の “豊かな自然” は、ある意味で日本人を甘やかしたともいえる。
つまり、日本人は敵同士になっても、最後は「水に流して」仲良くするという文化をつちかってきたわけだが、けっきょくそれは、「まぁまぁ、なぁなぁ」というお互いを甘やかす関係を生んだ。
たとえば、「喋らなくてもお互い分かるよな」という以心伝心(いしんでんしん)の心とか、阿吽(あうん)の呼吸といった間の取り方。
そして、
「命令されるまえに、上司の気持ちを汲んでおこう」
という忖度(そんたく)。
こういう非会話的なコミュニケーション文化が日本では一般的になったが、それは、ある意味人間関係に「甘えの構造」をもたらした。
言語化されないがゆえに、証拠や証言も残らず、いわば無責任な人間関係をつくりやすくなるのだ。
さらに、これがもっと大きな組織の問題にまで広がると、ある上層部の決断が膨大な被害をもたらしても、誰もその責任を取らないという最悪の事態をもたらすことになる。
その最たる例が、第二次大戦中の日本の軍部とそれを補佐した政治家たちである。
あのような悲惨な戦争を遂行しながら、けっきょく誰も責任を取らずに戦後を迎えてしまったために、今を生きるわれわれ自身が、あの戦争を「自分の責任」として自覚する契機を持ちにくくなっている。
韓国から突き付けられた “歴史問題” というのは、まさにそこを突かれたわけだ。
「あなた自身は関わっていなくても、あなたの属している国家は、かつてひどいことしたのですよ」
と、“正義” にこだわる韓国人はそう責めているのである。
こういう “責め方” は、昔からライバル同士のいざこざを “水に流してきた” 日本人にとっては理不尽極まりないことだろう。
しかし、そういう日本人の常識が通じないのが、国際社会というものなのだ。
だから、自国の常識だけ掲げていても、「外交」で勝利することはできない。
最後に、結論めいた話になるが、けっきょく豊かな自然を持つ民族、あるいは豊かな風土からは「思想」というものが生まれない。
「文化」には、その土地・その民族の豊かさが反映されるが、「思想」は “欠如” から生まれる。
ユダヤ・キリスト教(そしてイスラム教)的な一神教の思想は、砂漠を背景に持つ乾いた風土からしか生まれなかった。
“貧しさ” がはぐくむ「思想」は、人間にものを考える契機を強いるが、ものを考えなくても生活が満足される “豊かさ” は、人間を惰弱(だじゃく = へたれ)にする。
「へたれでもいい」というのが、今の日本人だ。
「意地を張り合ってケンカするよりも、へたれ同士で仲良くなろう」
というのも、一つの考え方だからだ。
誰がそれを責められる?
それはそれで、「幸せ」の一形態であることは確かなのだから。