日本中が熱気に包まれたサッカーのワールドカップが終わってしまった。
今回も、結局日本チームは「ベスト8」の壁を打ち破ることができず、テレビを通じて観戦していた自分としては悔しい思いをしたが、しかし今回の「ベスト16」進出は、今までとは違ったものになったような気がする。

それは、日本チームがドイツやスペインといった強豪を破って決勝トーナメントに進んだということだけでなく、「サッカー」というスポーツもまた、ひとつの国民的文化を反映したものだという部分を見せたくれたように思ったからだ。
「サッカーの文化」とは何か?
それは、サッカーというスポーツの枠を超え、そこに国民性の違いやら、その取り組み姿勢の違いなどを浮き上がらせる力のことだ。
特に最後の試合。
クロアチアという格上チームを相手に、日本はドイツやスペインを相手にしたときと同じような接戦を繰り広げたが、結局延長線の後で迎えたPK戦で敗れた。
あるサッカー解説者はいう。
「PK戦というのは、相手のゴールキーパーには手も出せないような場所にボールを蹴り込むこと尽きる」
手が出せない場所というのは、クロスバーすれすれの高さを確保した場所のことである。
そこを勢いよく突かれると、たいていのキーパーはボールを捕捉することをあきらめてしまうが、蹴る側からすると、それはとてもリスキーな場所なのだ。
なぜなら、攻める側にも、ボールをクロスバー内にコントロールすることが難しくなるからだ。
クロアチア戦におけるPK合戦では、日本のキッカーは、そのリスクを避けて、ゴールポストの左右どちらかを狙う作戦に出た。高さを狙うより失敗が少ないからだ。
しかし、ボールが、左右のいずれかに来るのであれば、キーパーは自分の体を水平移動するだけで対処できる。
クロアチアのキーパーは、最初に蹴った二人の日本選手から、そのコツをなんなく手に入れた。

そこに、日本人のメンタリティーがにじみ出てしまった …… と、あるサッカー解説者はいう。
日本人は、リスクを背負ってチャレンジするよりも、冒険を避け、リスクを回避することを好む。
なぜなら、そういう文化に育ってきたからだ。
そう語ったのは、サッカー解説者の福田正博(ふくだ・まさひろ)氏である。
サッカーというのは、狩猟・騎馬民族的なスポーツだとよく言われる。
それは大自然のなかで、天候を読み、地形を読み、常に流動的な状況のなかで他者(敵)との戦いを有利に進める文化になじんできた民族のスポーツだ。
それと正反対の思考を持つ文化が、いわゆる農耕民族的な思考様式だ。
こういう文化を過去に背負ってきた民族は、毎年周期的に訪れる「種まき・刈り取り」のサイクルを忠実に守らないと生きていけない。
この「農耕民族 vs 騎馬民族」というレトリックは、現在のグローバル社会のなかでは過去のものとなったとよく言われる。
しかし、完全に消えたわけではない。
特に、今回のPK戦という肝心なところで、日本人の農耕民族的なメンタリティーが無意識のうちに出てしまった … そんなふうに思えないだろうか。
もちろん、このPK戦に至るまで、日本チームは国際感覚にあふれたゲーム鮮やかにを進めてきた。
だから、過去の日本チームと比べて、各段の進歩を遂げたのは事実だ。

しかし、リスクに対する覚悟の取り方だけは変わらなかった。
私は、こういうことを考えさせてくれるサッカー解説にとても魅了された。
「サッカーというスポーツから、諸外国と日本の文化の差を感じる」
そう教えてもらったのは得難い経験だった。
だからこそ逆に、日本が諸外国との差を縮める姿も想像できるようになった。
諸外国と日本サッカーのレベルの違いを、スペイン戦でゴールをあげた田中碧選手が語っている。
「ベスト8に残るようなチームは、ある意味で、“化け物” みたいなチームばかり。それがよく分かった。
だから次は、自分たちがその “化け物” にならなければならない」
ベスト8のメンバーたちに接したからこそ言える言葉である。
それは、日本のサッカー解説者たちにもいえることである。
前述した福田正博氏だけでなく、前園真聖氏など、今回のW杯の解説は、そういうすがすがしい説明を行なえるようになった新しい解説者をたくさん見ることができた。
今までの解説は、技術論の解析が主流だった。
しかし、今回のW杯を通じて、いろいろなチームのいろいろな戦いぶりを観てきた視聴者たちは、もう単純な技術論だけでは納得しない。
国際試合通じて、国同士の民族の違い、文化の違いをしっかり説明してくれる解説者を望むようになってきている。
つまり、サッカー解説も、「人間の解析」にまで及ぶレベルのものが求められる時代がきたのだ。
私は、それは「一方通行」的なものではないように思う。
そういった解説者と視聴者、そして現場のアスリートたちとの “心の交流” が生まれることによって、文化が深まると確信している。
もし、日本人アスリートの伝統的な思考様式が、一つの強さにまで昇華すれば、それは海外の選手やサポーターにとっては、エキゾチックな美学になりうる。
すなわち、日本人の “融通の利かない気真面目さ” にストイックな信念を見いだす外国人たちは絶対いる。
それは、逆にいえば、彼らが感じた「サムライ」であり、「ニンジャ」なのだ。
カッコよさとは、欠点を「美」に昇華したときに生まれる心の形でもある。