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義経は遊牧民のメンタリティーを持っていた

 
 この1月に始まった大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。
 NHKは総力戦で番宣に臨んでいる。

 

 同局は、BSを含めるとたくさんの歴史番組を持っているが、そこで取り上げられたテーマの大半は鎌倉武士たちの話だ。 
  
 たとえば、BSプレミアム「英雄たちの選択」のタイトルは、『北条義時・チーム鎌倉の逆襲』。
 同じくBSプレミアム「プロファイラー」のテーマは、『悲劇のヒーローの真実・源義経』。

 

 突然の “鎌倉ブーム” に、他の民放番組も便乗している。
 たとえば、BS-TBSの「にっぽん! 歴史鑑定」では、『流人から将軍になった源頼朝』という特集を組み、弟義経との絡みで、頼朝が開いた鎌倉幕府の構造を解き明かしていた。

 

 頼朝と義経の関係を追求するのは、ある意味、源氏と平家の違いを語るよりも武家政権の本質を語ることになりうる。

 

 というのは、源頼朝が起こした鎌倉幕府は、平安期の貴族政治とはまったく異なる政権を目指したように見えるが、それでいて、伝統的な日本人の感覚を裏切らない政権を志向した。
 
 つまり、平清盛がすでに試みたように、天皇や貴族政権との共存を図りながら、武家の独立を維持するという方針を踏襲したのだ。

 

 だから、その戦い方も、完膚なきまで敵を叩き潰すという方法をとらず、土地などの恩賞をちらつかせながら味方に引き込むという戦略を自在にとり入れた。

 

 しかし、義経という武人は違った。
 義経伝説のなかに、「義経=チンギスハーン」説というのがあるが、これはあながち荒唐無稽の話ではなくて、義経の感性は、どこかユーラシアの遊牧騎馬民族の発想に近いものがあったことを物語っている。

 

▼ 『鎌倉殿の13人』で源義経を演じる菅田将暉

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 義経は、戦闘の渦中では、冷酷な面もあり、傲慢なところもあったという。

 

 たとえば、壇ノ浦の戦いにおいては、義経は、当時としては “非戦闘員” としての地位を保証されていた舟の漕ぎ手たちを射殺しろと部下に命じ、この「禁じ手」によって、平家方の船舶の動きを封じた。

 

 さらには、平家方と川を挟んで合い対峙したとき、義経は、味方が渡りやすい浅瀬を確保するために、それを邪魔していた川べりの民家をことごとく焼き払ったとも。

 

 このように、義経平氏を打倒できたのは、いかなる戦闘においても非情に徹し、ためらうことなく冷酷な手段を取り続けたからだ、というのが最近の定説になりつつある。

 

 しかし、このような義経の戦術は、彼がユーラシアの遊牧騎馬民族的な感性を持った武将であると読み解けば、案外理解しやすい。

 

 中国史というのは、農耕に基盤を置いた中原の漢民族と、遊牧を営む北方の騎馬民族の抗争の歴史だった。
 そして、遊牧民が中国を圧倒したとき、そこに壮大な騎馬民族国家が誕生した。

 

 広大なユーラシア平原に勢力を張り、紀元前1世紀にたびたび中国の漢王朝を侵略した匈奴(きょうど)。
 金、宋という中華王朝を倒して、ヨーロッパ(そして日本にも)遠征した13世紀のモンゴル。
 
 こういうユーラシアの遊牧騎馬民族グループは、それぞれ北半球の半分を征服するほどの広大な版図を手に入れた。

 

 それが可能になったのは、「騎馬」という移動手段をベースにした世界観に徹していたからである。
 つまり、彼らの戦略は、常に「移動コスト」を中心に組み立てられていた。


 
 モンゴル族が中近東のイスラム諸国に兵を進めたとき、その侵略に抵抗した都市の城壁はことごとく打ち壊され、市民たちの大半は惨殺された。

 

 破壊された都市の周辺には、住民たちの首を積み重ねた巨大なピラミッドが次々と築きあげられたという。

 

 もちろん、この残酷な仕打ちは、他のイスラム都市への見せしめという狙いがあった。
 しかし、それだけでなく、征服した住民たちを捕虜として連行するのは、騎馬部隊の進行スピードを損なうものだったからである。

 

 つまり、彼らは、「人命」の尊重などよりも、自軍の「移動コスト」で戦略を立てる非情さに徹したのだ。

 

 

 日本の源義経の発想と行動もまた、それに近いものがあった。
 先ほどの壇ノ浦の戦いで、戦闘員より先に、非戦闘員の舟の漕ぎ手を射殺するなどという戦術がそれに当たる。

 

 この戦いでも、義経が計算したのは、スピードだった。
 つまり、敵の漕ぎ手の力を削いで、味方の船との間に速度差を設ける。
 この作戦もまた、義経が「馬」の進軍速度で戦術を立てたことの延長にある。


 
大河ドラマ義経を演じたのはみなイケメン俳優だった。
  「源義経尾上菊之助)1966年」

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 「騎乗」を基本に進軍計画を立てたのは、他の東国武士も同じだった。
 しかし、義経ほど騎馬武者の特性を知りつくして、それを戦術の根幹に与んだ武将は、東国広しといえどもその時代には誰もいなかった。

 

 なぜかというと、「武士」というのは、もともとは「百姓」だったからだ。
 地面を歩き回って田畑を耕す農民たちが、その土地争いなどを繰り返すうちに武装を強化していったのが武士だったのである。

 

 だから、義経以外の東国武士は、「馬」に乗ったとしても、それは権威を誇示したり、敵方を威嚇する手段としての側面が強かった。

 

 では、義経は「馬」をどのようにとらえていたのか。
 
 ヒントになるのは、鞍馬山で、幼少期の義経に武術を教えたという “天狗たち” の存在だ。


 この伝説が事実だとしたら、その天狗たちとは、都の生活を嫌った修験者たちであったかもしれない。

 ならば彼らは、義経に、「山野を駆けるときの秘伝」を教授したのではなかろうか。
 それは当然、都人(みやこびと)たちの移動速度とは異なる原理を義経に体感させるものになったろう。

 

 そういう “速度感” を会得した義経は、東北でついに「馬」と出合う。

 

 彼が成人を迎えるまで暮らした奥州平泉という土地は、当時日本でも有数な良馬の産地であり、かつ騎馬文化というものに目覚めた武士たちが多かったはずだ。

 

 そういう環境のなかで、義経は思う存分馬たちの習性を観察した。
 そのなかで、義経は、自ら編み出した戦術を「馬のスピード」で計算するようになっていく。


 つまり、鎌倉期の武将のなかで、彼だけが、行軍や戦闘の要(かなめ)になるのは、歩行の速度ではなく、馬の速度であることを会得したのだ。

 

 これはすでに歴史小説家の司馬遼太郎が小説『義経』(1968年)のなかで着目していた発想だ。

 

 司馬氏は、義経を主人公にしたこの作品のなかで、
 「義経は、それまで単騎で戦っていた騎馬武者を、“騎兵集団” というグループ単位で考えた最初の戦術家だった」
 と喝破している。

 

▼ 2005年の大河で義経を演じたのは滝沢秀明

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 この義経の軍事感覚を継承した武将は、戦国時代なら武田信玄が有名だが、信玄も、義経ほど騎馬戦術を徹底させたわけではない。
 武田騎馬軍団は、戦場につくと下馬して、徒歩で敵と渡り合ったこともあったからだ。

 

 しかし、義経は終始、部下のすべてを “騎馬の速度感” で統率した。
 “鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし” で有名な「一の谷の戦い」などはその典型だろう。

 この戦いで、義経が指揮する精鋭70騎は、全員騎乗したまま「断崖絶壁」ともいえる山の斜面を駆けおりて平家の虚をつき、奇襲を成功させている。
 
 

 義経の戦術の特徴には、こういった奇襲と同時に、「逃走」という手段もあった。
 基本的に、ユーラシアの騎馬民族は、「逃げる」ことを厭わない。
 
 彼らはヨーロッパまで侵入し、中世の騎士そのものの格好をしたドイツ騎兵と戦った。

 

 大型馬に乗り、装甲の厚さを武器にしたドイツ騎兵は、初戦では、一気に軽装のモンゴル騎兵を圧倒した。

 

 こういうとき、モンゴル騎兵は、一目散に逃げ出すことをためらわなかった。

 

 しかし、重い甲冑を背負ったドイツ騎兵は、騎士も馬もすぐに疲弊した。

 

 それを見たモンゴル軍は、馬首をひるがえし、疲れて戦意を失ったドイツ騎兵の甲冑の隙間に刀を差し入れ、いとも簡単に殺戮を繰り返した。

 

 

 逃げることを恥じないという精神は、壇ノ浦の戦いにおける義経にもみられる。
 彼は、平家方の闘将である平教経に一騎討ちを挑まれたが、船から船へとひらりひらりと乗り移り、8艘も逃げ延びた。

 

 彼もまた、“一騎討ち” という武将同士のメンツにこだわることなく、「逃げる」ことに何のためらいを持たなかった武将であった。

 

肖像画に残る義経

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 こういう義経のメンタリティにいちばん恐怖を感じたのは、敵となった平氏の一門よりも、むしろ兄の頼朝だったはずだ。

 

 頼朝は、義経のことを、自分が統率してきた鎌倉武士とはまったく異なる恐ろしい怪物だと思ったことだろう。

 

 「東国の武士」といえども、その素性は、土地を守ることにこだわる百姓にすぎないということは、先に述べた。

 百姓というのは、徒歩の速度で世界観をつくる人々である。
 「武士」の戦闘ルールというのは、この徒歩の世界観をもった人間たちが戦場で顔を合せたときに生まれたものだった。

 

 だから、彼らは、敵味方に別れたとき、お互いに氏素性を名乗り合って、一騎討ちで勝負に臨んだ。


 彼らは、騎乗した武士たちの集団戦という発想を持たなかったのだ。
 さすがの頼朝も、義経がそういう戦いのルールを一気に変えたことにすぐに気づいただろう。

 

 頼朝が奥州まで兵を進めて、義経とそれをかくまった藤原一族を滅ぼしたのは、「馬」をベースに世界観を打ち建てる人たちへの恐怖心がもたらしたものであったかもしれない。