近頃、いろいろな方のブログを拝読していると、広告の掲載欄を残しているものに、次のような広告を見る機会が増えた。
「司馬遼太郎に洗脳された日本人」
「司馬遼太郎の日本史」の罠
一般人のブログのみならず、有名ブロガーとしてネットに多くの読者を持つ池田信夫氏の『池田信夫 blog』にも上記の広告が掲載されている。
クリックしてみると、どうやら本の広告らしい。
ただ、上記のキャッチをそのまま謳う本ではない。
書籍名は、『明治維新の大嘘』。
そのメインタイトルの横に、小さな活字で、「司馬遼太郎の日本史の罠」というサブタイトルが添えらえている。
著者の名は、三橋貴明氏(写真下)。
経済評論家だという。
司馬遼太郎ファンである私は、気になって、その広告の中身を調べてみた。
下記のような紹介文が添えられていた。
「明治維新は、坂本龍馬、西郷隆盛などの活躍により、古い体制だった江戸幕府を打ち倒した革命。そのおかげで日本は近代化した … と、ほとんどの国民は大河ドラマの影響を受けているせいか、そう思っています。しかし、本当の明治維新の姿は、そうではありません」
そう謳ってから、司馬遼太郎の『坂の上の雲』(日露戦争をテーマにした小説)を取り上げる。
「『坂の上の雲』では、日本は昔から “小国” で、人口も少なく、アメリカやヨーロッパ諸国よりも弱小国家。ロシアなんかには逆立ちしてもかなわなかったと書かれているが、けっしてそうではなかった」
という。
つまり、当時の日本はアジアを代表する大国であり、ロシアに勝ったのも当然だった … ということを、著者は伝えたいらしい。
しかし、“司馬遼太郎批判” を展開しているのは、どうやらその個所だけらしい。
要は、明治維新の “真実” を伝えたがっている著者が、日本の国民的作家である司馬遼太郎を批判する(振りして)、自分の本を宣伝しようとしているだけなのだ。
これはずるいよな。
司馬遼太郎の小説を批判するのなら、その著作をもっと大きな書体でどうどうと掲げるべきだ。
第一、「罠」とか「洗脳」などという言葉を使って、司馬遼太郎を攻撃するセンスが下品である。
そもそも、「日本人はNHKの大河ドラマに騙されている」といったところで、このドラマを見る視聴者にはほとんど意味のない指摘だ。
なぜなら、大河ファンの多くはみな歴史に興味がある人間だから、いろいろな文献と照らし合わせて、ドラマの “嘘” などはとっくに見抜いている。
みな、それを承知で大河を見ているのだから、三橋貴明氏が「大河は嘘だ」といい張ったところで、大河の視聴者は逆にうんざりしてしまう。
私は、この三橋貴明という著者のことをよく知らない。
いくつもの著作を出しているようだし、YOU TUBEなどでも自分のチャンネルを持っているようだ。
だが、彼の情報をネットでさぁっと眺めただけでは、この人がどういう立ち位置の人なのかよく分からなかった。
YOU TUBEでの話しっぷりなどから察するに、彼は、高潔な信念とか深い洞察力とか繊細な神経を持っている人には見えなかった。
もちろん、以上のような評価はすべて私の第一印象に過ぎない。
当然、私が誤解している部分もあるだろう。
ただ、ネットに露出している彼の表情、および自作の著書を語るときの語り口だけから判断すると、その著作を読む気がまったく起こらなかった。
私の長年の読書体験などから導き出された答は、
「信用できない人だ」
… であった。
もちろん、司馬遼太郎の小説やエッセイがすべて歴史の真実を伝えているとは、私自身も思わない。
実際に、彼自身の強い好みや錯誤によって歪曲されているところも数多くある。
さらに、没後25年を経て時代の空気も変わり、テーマや視点がいまの風潮になじまないものもたくさんある。
だから、三橋貴明氏が、「日本人は司馬遼太郎に洗脳されている」といったところで、私の気持ちをいえば、「今さら何を言ってやがる」という気分なのだ。
さらにいえば、三橋氏には、致命的な錯誤がある。
それは、司馬遼太郎という物書きは歴史評論家でもなければ学者でもないということだ。
確かに、司馬遼太郎の存命中に、「司馬史観」という言葉も生まれ、あたかも、司馬氏の歴史観が日本史の通説になっているような受け止められ方をしたことも事実だ。
しかし、司馬氏自身が、「自分は歴史学者だ」などとは一言もいっていない。
彼はあくまでも小説家なのである。
小説家というのは、物語をつくって読者を喜ばせる職業だ。
「物語」の場合は、まず「面白いこと」がいちばんであり、歴史的事実を反映しているかどうかは二の次である。
実際に、司馬氏の代表作の一つ、『竜馬がゆく』は、坂本龍馬という人物の伝記ではない。
あくまでも、“面白おかしく” 描いた物語なのだ。
だから、司馬氏は坂本龍馬の「龍馬」の名を、あえて(事実とは違う)「竜馬」にしているのだ。
齋藤道三、織田信長、明智光秀という戦国の英傑たちを描いた『国盗り物語』においても同様。
当時、齋藤道三に関する資料はほとんどなかったから、司馬氏はこの人物に関してほとんど一から創造している。
そこには、まさに惚れ惚れするくらいの人物造形が生まれている。
つまり、司馬氏の書く小説は無類に面白いのだ。
この面白さこそ、司馬ファンにとっては “宝” なのだ。
だから、三橋貴明氏が、「日本人は司馬遼太郎に洗脳されている」とかいったところで、
「うるせぇ! お前は引っ込んでいろ !」
という言葉しか浮かばないのである。
▲ 司馬遼太郎氏
ただ、いくら「面白い!」といっても、すでに「司馬史観」だけでは歴史を語れない時代になっているのも確かだ。
というのは、司馬氏のメンタリティーというのは、基本的に、日本の「高度成長期」の空気感を背景にしているからだ。
まさに、彼の描く世界こそ、「坂の上の雲」である。
今は苦しい登り坂だが、頂上まで登れば、青雲たなびく眺望が開ける!
そういう気分がどの小説にも満ち溢れている。
だから、彼の小説では、合理性と開明性が大きなカギとなる。
昭和の読者たちは、この “明るさ” に魅せられた。
「坂の上の雲」に出てくる男たちもそうだが、斎藤道三、織田信長、羽柴秀吉、坂本龍馬、土方歳三。
誰もが、死に絶えるときでも青空を仰いだまま絶命する。
それは、まさに、1960年代から70年代初頭まで続いた「高度成長期」の感性なのだ。
もちろん、今の時代は、そういう “昭和賛美” がそのまま通用する時代ではない。
なにせ、彼の死後、日本は長期のデフレに苦しみ、自殺者の数も増え、世界のグローバル経済に翻弄され、そしていまコロナ禍にあえいでいる。
“坂の上の雲” を夢見た昭和のサラリーマンたちの時代は遠くに去ってしまった。
だから、「司馬史観」を批判する三橋氏のような評論家も出て来るのだろう。
それでも言いたい。
“司馬遼” 的な明るさに洗脳されて、何が悪い?
ま、これ以上のことは、私自身が三橋氏の著作を読んでいないので、さすがにいえない。
もし読めば、それなりに納得し、共感するところもあるのかもしれないが、(繰り返しになるが、)三橋氏から漂ってくるのは、山師(詐欺師・いかさま師)の臭いでしかない。
秀吉の成金趣味