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『麒麟がくる』の脚本と役者の演技に期待

 

 NHK大河ドラマ麒麟がくる』の2回目を見たが、初回に続き、安定感のあるつくりになっていた。
 1年続く長丁場のドラマとしては、まずまず無難な滑り出しを見せてくれたのではないか。

 

 で、この2回目。
 戦闘シーンが多少長いようにも感じられた。
 ただ、少ないエキストラと規模の小さなセットでそこそこの見せ場をつくっていたように思う。

 

 いくらNHKが大河にお金をかけようが、昔のように無尽蔵に人とカネが使えるわけではないだろう。(2009年から11年にかけて放映された『坂の上の雲』のおカネの掛け方には度肝を抜かれたが、ああいうハリウッド映画のようなテレビドラマはもう別格だ)
  
 で、通常の大河の場合、戦闘シーンにそれほどおカネを投入できないのであれば、派手なシーンだけを残し、あとボロが出ないように、時間を短縮していった方が観ている方も納得する。

 

 それよりも、大河ドラマの見せ場は、やはり、役者たちのセリフのやり取りによる丁々発止の “斬り合い” だ。

 

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 今回、本木雅弘が演じる斎藤道三(写真上)と、その主筋にあたる土岐頼純(矢野聖人  写真下)との対決シーンは見応えがあった。

 

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 美濃の守護である土岐頼純は、侵略してきた尾張織田信秀を撃退した家老の道三の労をねぎらう。
 しかし、それは表面的なもので、実際には織田信秀と密かに気脈を通じ、斎藤道三を亡き者にしようと画策していた … という設定になっている。

 

 それを見事に見破る道三。
 見破られてうろたえる頼純。

 

 けっきょく頼純は、開き直って道三を罵倒する。
 「お前の本心は、この土岐家を滅ぼし、美濃を乗っ取る気であろう」
 と頼純は道三への憤懣をぶちまける。

 

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 道三、それをやんわりかわしながら、茶を点て、
 「少し落ち着きなされ」
 と、頼純に茶を勧める。

 

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 茶を点てるときの、落ち着き払った道三の仕草と、感情を押し殺した表情から、視聴者は、道三が毒を盛るのではないか、と推測する。

 

 案の定、毒茶をあおいだ頼純は、呻きながら床に転がっていく。

 

 緊迫したシーンが誕生したと思った。
 土岐頼純を演じた矢野聖人は、これが最初で最後の出演になったわけだが、印象に残る演技をこなした。

 
 主人公の明智光秀の若い頃を描いた資料がないように、斎藤道三が美濃を乗っ取るまでの生活を記した資料もない。


 だから、いま『麒麟がくる』で描かれている脚本は、すべて “創作” といっていい。
 そのため、「主君を冷酷に毒殺する道三」という設定になっていても、それが間違いとはいえない。

 

 今回は、本木雅弘と矢野聖人のやり取りが緊迫していたがゆえに、“主君を毒殺する” という設定にもそれなりに説得力があった。

 

 しかし、司馬遼太郎の『国盗り物語』を読んでいる読者からすると、ここまで陰惨な道三には少し違和感がある。

 

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 もちろん、道三という人物が、そうとうの “悪” であることは周知の事実であるが、司馬さんの描く道三には、どこか明るい茶目っ気がある。

 

 人を騙すときも、騙された方が「悔しい !」と地団駄踏みながら、一方で「やられたわい」と苦笑いするような、あっけらかんとした明朗性が道三にはあるのだ。

 

 そうであるがゆえに、正統な守護である土岐氏を追放した道三を、美濃の多くの地侍たちが支えたのだ。

 

 もちろん、そういう “道三像” も、司馬遼太郎の創作にすぎない。
 実際は、主君を毒殺するような陰惨な謀略家であったかもしれない。

 すべては謎。


 登場人物に謎が多いということは、それだけ小説家やドラマの脚本家の腕の見せどころとなる。

 

 その最高傑作が、今のところ司馬遼太郎の『国盗り物語』であるが、『麒麟がくる』の脚本も、それに負けないほどの見どころを創造してほしい。

 

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