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司馬遼太郎 『坂の上の雲』を読む

バルチック艦隊の悲劇

 

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 司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、日本近代史を深堀りする画期的な名著の一つに数えられるが、私が読んでいちばん記憶に残っているのは、意外にも、“敵国” として描かれたロシア軍の記録なのだ。
 なかでも、バルチック艦隊の悲劇は、魂をゆすぶる壮絶な話といっていい。
   
 『坂の上の雲』を単なる戦記モノとして読むならば、バルチック艦隊というのは、日本海軍のただの “かたき役” でしかない。
 
 しかし、彼らがどのような労苦を払って日本海までたどり着いたか ということに着目するならば、これはもう涙なくして読めない波乱万丈の冒険物語といえる。たぶん、それだけで独立した小説ができあがるはずだ。

 

NHKでドラマ化された『坂の上の雲』(2011年)に出演したロシア海軍の役者たち

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 現に、司馬氏はこの艦隊が出航してから海戦に至るまでの叙述で、文庫本8巻のうちのほぼ1巻分ぐらいのボリュームを割いている。それ以上かもしれない。

 

 
地球を半周する壮大な航路
 
 満州の陸戦で日本軍に苦戦を強いられたロシア政府は、その難局を打開するため、ヨーロッパ方面の有事に備えて温存していたバルチック艦隊を、ついに極東の戦線に派遣することに決めた。
  
 これが、どのような難事であったかは、その遠大な航路がそれを物語っている。
 バルト海から大西洋に出て、アフリカ西岸を南下し、インド洋をまたぎ、そして東シナ海から日本海へと進む航路を、艦隊としての秩序を保ちながら完遂したというだけで壮挙だ。


 スエズ運河を渡れば、まだいくらかの航路の短縮は図れただろう。

 

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 しかし、当時のスエズは日本と同盟していたイギリスが支配していた。
 イギリスは、「ロシア船は石炭を満載するため喫水線が下がってしまう」ということを理由に、スエズの通行を許さなかった。

 

 そのため、バルチック艦隊は、アフリカ南端の喜望峰を越えなければならなかったのである。
 

 
 北国で生を受けたロシア人たちは、アフリカの西岸を南下するときに、まず南国の暑さと湿気に悩まされた。

 熱気のこもる船内で寝ることは不可能になり、士官も兵卒も、上半身裸になったまま甲板にごろ寝するのだが、そのようなだらしなさが日常化することによって、士気もどんどん低下していく。

 


「粗悪な燃料」が招いた不運

 

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バルチック艦隊の1番艦を務めた「ボロジノ」
 
 続いて、船を動かすための石炭の確保に苦しむ。
 日本を支援するイギリスは、石炭を供給できるような自国の港をけっしてロシア艦隊に開放することはなかった。

 

 のみならず、フランスにプレッシャーをかけて、ロシアの同盟国であるフランス領の港においても、ロシア艦隊への石炭供給を断るように働きかけた。

  
 頼みの綱であったロシアの軍事力が、日本軍によって削ぎ落とされていく現状を冷静に分析したフランスは、打算的な政治力を発揮し、イギリスの機嫌を損ねないように、ロシアに冷たく当たるようになる。

 

 ロシア艦隊が寄港できる港は、フランス領内であっても環境の劣悪な港しかなく、石炭を仕入れる港はさらに限定されていく。

 

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▲ 洋上のバルチック艦隊 粗悪な石炭しか積めなかったので、吐き出す黒煙の量が多い
  
 だから、石炭が供給される港に入ったときは、あらんかぎりの石炭を積み込むことになり、そのため船員たちの居住スペースは狭められ、船の重量も重くなり、航行速度はさらに減少する。

 

 しかも、石炭を詰め込むという重労働が、長旅に疲れた船員たちの疲労度をさらに増すことになる。

 

 
大暴風雨に翻弄される艦隊
 
 彼らは、青息吐息でようやく喜望峰を回るのだが、そこで待っていたのは、大航海時代の船乗りたちを悩ませた、想像を絶するような大暴風。

 

 船よりも高い大波が艦尾を襲い、その次には、船そのものが波の頂点に押し上げられ、眼下に、今にも波に呑み込まれそうな僚船の姿を見下ろすことになる。
 船員たちは、生きた心地がしなかったろう。
   
 
 ようやくたどり着いたマダガスカル島で、彼らは、旅順港と旅順の要塞が、日本軍の手に落ちたという悲報を受け取る。

 

 バルチック艦隊の東征の目的は、旅順港に寄港している旅順艦隊と合流して、圧倒的な海軍力で日本軍にプレッシャーをかけることにあったから、航海の半ばで、その目的も潰えてしまったことになる。

 

 しかも、彼らにとって難攻不落に思えた旅順要塞が陥落したことで、日本の軍事力への過大評価が、幻影となって彼らの神経を蝕み始める。

 

 
発狂して海に飛び込む水兵も続出
 
 以降、水平線の彼方に昇る煙を見ただけで、彼らは「日本の巡洋艦隊の出撃か?」と恐れおののき、それが無用の緊張となって、兵士たちの睡眠を妨げるようになる。
 
 艦隊をワンセットしか持たない日本海軍が、わざわざインド洋まで兵力を割くなどということはありえないのだが、疑心暗鬼に駆られたロシア海軍は、幻の日本海軍に悩まされながら、航海を続けなければならなくなる。
 発狂して海に飛び込む兵士も続出し、軍としての統制力もどんどん弛緩していく。
 

 
 このような難行苦行の航海を続けたバルチック艦隊を待っていたのが、あの日本海海戦の悲惨な結末なのだから、これはもう涙なくしては読めない話だ。

 

▼ せっかくたどり着いた日本海で、日本の連合艦隊によって壊滅状態に陥るバルチック艦隊NHKドラマ『坂の上の雲』)

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 『坂の上の雲』という小説は、そのような “敵国” ロシアの兵士たちが立たされた苦境をも公平な視線で描ききった小説である。

 

NHKドラマ『坂の上の雲』の日本軍連合艦隊

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悲惨な結末

 

 この物語を読むと、日露戦争の勝利が、けっして日本軍の “優秀さ” だけによってもたらされたものでないことが分かる。

 

 あの戦争は、欧米列強の政治的な思惑の中で繰り広げられた戦いで、戦況を支配するのは、諸外国の駆け引きをどう利用するかというその “読み” の力にかかっていた。
 その結果が、日本海海戦に結実した。

 強いていえば、当時の日本政府は、欧米列強の政治的な思惑を “読む” 力があったということなのかもしれない。

 

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 ロシア艦隊の兵士のなかには、日本兵士の顔なども見ることなく、見知らぬ東洋の海にたどりついた瞬間に、海底に沈んでしまった者もたくさんいただろう。
 当たり前の話だが、戦争は悲惨である。

 

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