司馬遼太郎さんの幕末小説を読んでいると、「薩摩示現流(さつまじげんりゅう)」という言葉によく出くわす。
『新撰組血風録』
『燃えよ剣』
『竜馬がゆく』
『跳ぶが如く』
こういう作品群では、必ず「示現流」という剣術の話が紹介される。
NHKの大河ドラマにおいても、2004年の『新選組!』、2008年の『篤姫』、2018年の『西郷どん』などという薩摩藩に触れる作品では、どこかで「示現流」が登場していた。
▼ 2018年の大河『西郷どん』で中村半次郎を演じた大野拓朗
昔、会社勤めをしていた頃、鹿児島に「観光ガイド」を書くための取材に行ったことがある。
市内に「黎明館(れいめいかん)」という資料館があった。
鹿児島の歴史が一目でわかるような展示物が並んでいた。
そこに、鹿児島の伝統芸能や祭を紹介するビデオコーナーがあり、示現流の練習風景が紹介されていた。
剣士が、枝を切り落としただけの丸太を持って、地面に植え込まれた棒を次々と叩いていく。
▼ 薩摩藩士は子供の頃から示現流を叩き込まれた(大河「西郷どん」より)
洗練さのかけらもない素朴で原始的な剣術だ。
ただ、「キェー」とか「チェースト」というかけ声だけが、聞き手の心を震撼させるほど恐ろしい。
司馬遼太郎さんは、『新選組血風録』や『燃えよ剣』のなかで、新選組の近藤勇の口を借りて、こう言わせている。
「隊士諸君。薩摩の浪士と切り結ぶときは、初太刀(しょだち)を外せ。恥も外聞もなく退いていいから、初太刀だけはかわせ」
初太刀。
最初の一撃という意味だ。
示現流では、初太刀に気合を込め、最初の一撃で相手を倒すことに全てを賭ける。
逆にいえば、薩摩剣士は、相手にその初太刀を外されたら、死ぬしかない。
まさに捨て身の剣法であり、幕末、勤皇方の志士たちを血祭りにあげていた新選組ですら、この薩摩示現流には恐れおののいたといわれる。
薩摩の人々には、その示現流の精神が、生活全般にも沁み込んでいるといわれている。
そんな薩摩男の話を、居酒屋の女将(おかみ)さんから聞いた。
鹿児島市内の『焼酎天国』という、それなりに名の知れた店で、その店を取材した後、そこの女将さんが酒の相手をしてくれた。
鹿児島では決断を下す速さを表す言葉として、「太刀の来ぬ間に」という表現がある、と女将さんは話す。
つまり、相手の刀が切りかかって来ないうちに、素早く決断せよという意味らしい。
いかにも、示現流の故郷であることを感じさせる例えだ。
司馬遼太郎の小説の中で、
「鹿児島では、男の行動をたとえる表現は、ことごとく軍事か剣術の表現がベースになっている」
と言う指摘があったが、それを思い出した。
このような、薩摩剣士の精神を体現した男たちを「薩摩隼人(はやと)」という。
女将さんが、薩摩隼人の「定義」を教えてくれた。
薩摩隼人といわれる男の条件は、
一に 「議をいうな」
二に 「弱者に優しくあれ」
三に 「勇猛果敢であれ」
… だそうだ。
議を言うな、というのは「ごちゃごちゃ理屈をこくな」という意味。
男は不言実行。しかも、的確な判断力を持って、瞬時に決断せよというのである。
そして、そういう男に惚れる女のことを「薩摩おごじょ」というそうな。
薩摩おごじょというのは、「薩摩隼人」の美質を、女だてらに臓腑の隅々にまで沁みこませた女のことを指し、それでいて、常に風下に回って男を立て、万が一男がくじけそうになったときこそ、「示現流」のすさまじい炎を男に注入するのだとか。
「私こそ、まさに薩摩おごじょの典型!」
と、さすがに『焼酎天国』の女将さんは言わなかったが、目がそう語っていた。
で、薩摩隼人でも何でもない軟弱な東京男の私は、一気に酔いが回った。
翌日、鹿児島市内の風景をカメラに収めようと思って外に出たら、季節外れの雪が舞っていた。
道行く車のルーフがみな白く変色している。
通行人は、傘をさしているし、女性はスカーフをほっかぶりしている。
「変だな。天気予報は晴だといっていたのに … 」
と思って、よく見ると火山灰だった。
桜島が煙をはき出したのだ。
城山の高台に登っても、灰で桜島が見えない。
小雨で視界が悪かったときよりまだひどい。撮影どころではない。
考えてみると、不思議な町だ。
中心部に火山を抱えている町なんて信じられない。
火を噴く山とともに暮らしている人たちって、やはり感性がホットだ。
明治維新から西南戦争にかけての時代、鹿児島は、ほとんど日本国内における唯一の独立国だった。
「中央政府なにするものぞ!」
と、薩摩隼人たちは、明治政府の繰り出す大軍に対して、少しもひるむことなく戦った。
示現流の苛烈さも、薩摩人の気迫も、燃え続ける桜島が生んだものかもしれないと、ふと思った。