司馬遼太郎の人気小説『燃えよ剣』の映画化が決まり、2020年に公開される予定だという。
主人公の歳三を演じるのは、岡田准一。
近藤勇役は、鈴木亮平。
沖田総司役には、Hey ! Say ! JUMPの山田涼介。
ほか、芹沢鴨が伊藤英明。
土方とからむ女性役には、柴咲コウ。
う~む …… 。
人気キャストをずらりと並べた映画といっていい。
今の人は昔の新撰組評価を知らない
時代がずいぶん変わったもんだ … と、私などは思う。
今の若い人は、みな土方歳三や近藤勇という人物に、爽やかで颯爽とした “サムライ” のイメージを重ねているんだろうな。
しかし、私の少年時代だった1950年代当時、「新撰組」といえば悪の代名詞だった。
司馬遼太郎が『燃えよ剣』を描いた1967年においても、土方歳三は主役でありながら、ダークヒーローとして登場したのだ。
▲ 『燃えよ剣』
実際、写真を見るかぎり、新選組幹部の近藤勇も土方歳三も、平然と人を斬ってきた人間の凄みを漂わせている。
▲ 近藤勇 画像
勇の写真からは、ドーベルマンや土佐犬といった、戦う番犬の獰猛さが感じられ、歳三の写真には、優男の風貌を裏切るように、唇の端に酷薄そうな微笑みが浮かんでいる。
▲ 土方歳三 画像
はっきりいうと、彼らの顔は怖い。
「人ひとりの命は、地球より重い」と教える戦後ヒューマニズムの世界で暮らしてきた我々とはまったく異質の倫理を生きていた人間たちの顔に見える。
訓練されたテロリスト集団「新撰組」
司馬遼太郎は、『燃えよ剣』ではっきりと新選組がテロ組織であることを謳っている。
彼らは、「勤王派」の人間であればみさかいなく斬りまくり、仲間に対しては、粛正という恐怖政治で組織を鍛え上げた。
その戦闘方法や粛正方法も、相手の油断に乗じた不意打ちや騙し討ちが多く、しかも、その計画は狡知を搾り出して周到に練られたものばかり。
そういった意味で、今風にいえば、彼らは高度に訓練された「テロ組織」だった。
このような陰湿さに、組織内の人間は長く耐えられるものではない。
当然、隊を脱走する者もたくさん出てくる。
隊の規律を守るため、歳三は、「剣の暴力」を神聖化して組織の団結を維持し、隊士の不満を「恐怖の力」で押さえつけようとした。
つまり、脱走だけで、切腹が言い渡された。
▲ 新撰組結党の 「精神」 を表す 「誠」 の文字
このような歳三のメンタリティを説明するために、司馬さんは、歳三が百姓の出身であったことに着眼する。
武士の剣法とは違う百姓の剣法
武士に生まれつかなかった “卑しい百姓” は、いかにしたら武士になれるのか。
歳三は、
「人を斬ること。闘いに勝つこと」
だけに専念できる殺人マシンと化すことに、その答を求めた。
彼は「武士道」を掲げながらも、実際の戦闘においては、百姓のケンカの延長として武術を捉えていたという。
田畑の水争いなどで互いに権利を主張しあうとき、百姓同士の争いは陰惨を極める。
田んぼのあぜ道に隠れて、いきなり後ろから棍棒で殴りかかる。
卑怯だろうが、ずるかろうが、勝者としてその場に立ち尽くした者が「正義」だ。
歳三は、そのようにして自分流の「武士道」を築き上げていく。
本物の武士たちが行う剣術道場での立ち会いなどは、歳三にすれば典雅なスポーツにしか見えなかった。
「人を斬るための剣を持ちながら、今の武士たちは、剣を自分たちのステータスを満足させる飾りのように思っていやがる」
歳三にもし教養があれば、彼はそうつぶやいただろう。
そしてさらに、
「今の時代では、武士という言葉は単なる “階級” を意味しているに過ぎず、 “戦士” であることを意味していない」
と弁舌を奮ったに違いない。
ただ、歳三の考える武士は「斬り合いに強い男」というイメージを超えるものではなかったから、「美学」にはなっても「哲学」にはならない。
▲ 剣
人を斬ったことによって、どんな世界が実現するのか。
そういう哲学的かつ政治的な省察は、歳三の頭の中には生まれない。
彼は、自分が斬った薩長浪士たちが頭に描くような「日本国改造アイデア」など、おそらく一度たりとも考えたことはなかったろう。
そもそも、武士の時代が終わろうとしていた時代に、武士になろうということ自体、とてつもないアナクロニズム(時代錯誤)である。
司馬遼太郎はそこに歳三や新撰組の悲劇を見た。
寡黙こそ、歳三の美学
しかし司馬さんは、同時に「時代の流れに逆らっても、おのれの信じる道を曲げない男」として歳三を描いた。
彼は、歳三の冷酷さに「意味」を与えたのだ。
『燃えよ剣』の中の歳三は、自分の想う武士道を守るために、世間の悪評が重なることを恐れることなく、一番の汚れ役・嫌われ役を進んで引き受けていく。
そして、そのことを、歳三は誰にも弁明しなかった。
はなっから他人の理解などを求めないのだ。
弁舌に酔う勤王派の志士たちに対し、自分は、
「黙して語らず。ただ斬るのみ」
という男を演じ続ける。
そこには、
「理屈は人をなまらせる」
という偏狭な信念に裏打ちされた、歪んだ精神がある。
しかしながら、その偏狭な信念がもたらせるヒリヒリするような緊張感と、その緊張感を糧として生き抜く男の「美学」は伝わってくる。
▲ 栗塚旭さんがテレビドラマ 『燃えよ剣』 で演じた土方はカッコよかった
坂本龍馬と逆の道を歩んだ歳三
結局、私がこの『燃えよ剣』に感動したのは、それまでは「悪の権化」に思われてきた男にも、別の角度から光りを照射すれば、そこに「美学」があることを発見したからだ。
この小説の魅力は、負から正へ、邪から聖へと鮮やかに転換を遂げるときのダイナミズムにある。
だから、土方歳三のことを、最初から「まばゆいヒーロー」としてイメージしている人たちには、この逆転の輝きが見えないだろうと思う。
司馬遼太郎が、この『燃えよ剣』を書き始めたのは、司馬さんの人気を確定した小説である『竜馬がゆく』の連載の真っ最中だった。
時代に対する鋭い洞察力を持ち、日本の進むべき道へのグランドデザインを描き、人に愛され、人を愛することを知る坂本龍馬。
龍馬と歳三は、何から何まで対極にいる人間同士だ。
司馬さんが本当に描きたかったのは、坂本龍馬の方だったろう。
ところが、書いているうちに、正反対の道を選んだ歳三への好奇心がつのって仕方がなかったのではなかろうか。
▲ 坂本龍馬 画像
光の下にさらされた物には、常に「影」がある。
幕末の激動期。
竜馬という人間に「陽光」が当たり、彼の存在感がますます輝いていくのと歩調を合わせるように、ダークな世界を目指した歳三の「影」も濃さを増していく。
五稜郭に死に場所を求めて
歳三の真骨頂が発揮されるのは、むしろ新撰組が崩壊してからだった。
鳥羽伏見の戦いにも敗れた新撰組と幕軍は、北海道まで逃れ、五稜郭に立てこもる。
しかし、官軍と幕府軍の戦いは、もう結末が見えていた。
戦うための「大義」も、もう幕府軍からは奪われていた。
にもかかわらず、歳三は、わらじと羽織を捨てて、ブーツとフランス風の軍服に着替え、武士のシンボルであった髷まで切り落として、官軍に最後の決戦に挑む。
歳三は、「死に場所」を求めていた、と司馬さんは書く。
彼は彼なりに、これまで斬り殺してきた無数の薩長浪士、そして粛清してきた隊士たちに、自分もまたその後を追う形で、落とし前をつけようとしていたという。
▲ 新撰組 隊旗
最後の決戦の日。
「函館政府・陸軍奉行」
という肩書きを持つ歳三は、その肩書を使わず、官軍の前で剣を抜き放ち、
「新撰組副長、土方歳三!」
と名乗りをあげる。
そして、それを聞いた官軍は “白昼に龍の蛇行を見たごとく” 恐れおののいた … … ことになっている。
事実は少し違うらしいけれど、司馬さんの描く歳三の心意気は、読者の胸を打つ。
坂本龍馬の死は、悲惨な死に方ではあったが、神に召されて命をまっとうしたという宿命性が感じられる。
しかし、土方歳三の死は、自殺に近い意味のない死に方である。
ただし、そこには強烈な美しさがある。
日本人は、こういう死に方に弱い。
司馬遼太郎 参考記事