ドラマ批評
ようやく面白くなってきたと思ったら、終わり。
そんな感じで最終回を迎えるNHKの『どうする家康』。
平均10%台を記録していた視聴率も、ここにきて1ポイント上昇。11%台をまで跳ね上がってきたという。
しかし、平均視聴率でみると、62回という歴史を誇る大河ドラマとしては歴代2位の最悪視聴率を更新するとも。
このドラマは、はたして失敗作だったのか?
それとも及第点をあげるべきか?
最近の放映をみていると、私は、ようやく “力作” がそろってきたと思っている。
特に、中盤以降、豊臣秀吉(ムロツヨシ)が登場するあたりから、ようやく大河ドラマ的な重厚感を見せるようになり、けっこう楽しめるようになった。
しかし、「時すでに遅し」という雰囲気もなきにしもあらず。
致命的だったのは、前半。
家康の正妻「築山殿=瀬名(有村架純)」と家康(松本潤)のままごと的エピソードに尺を取り過ぎたこと。
松潤の演技力が乏しかったこともあり、瀬名との絡みが “学芸会” に見えてしまったのは痛々しいばかりだった。
さらに、それまでのエピソードの積み重ねが歴史マニアの常識とも合致しておらず、「通説無視」のストーリーに怒りを感じた人々も多かったと聞く。
私もまた、全体的に見ると、企画そのものは失敗だと思っている。
泣き虫の姿をさらす “みじめな家康像” という発想がいくら斬新だからといって、私には違和感ばかりだった。
歴史マニアというのは、けっこう司馬遼太郎の小説あたりから「知識」をとってくる人が多い。
司馬氏の作品はあくまでも「小説」に過ぎず、しかも昔の資料が中心となるため、必ずしも最先端の知見とはいえない。
しかし、あの自信たっぷりにたたみ込んで来る司馬氏の筆力に惹かれた者にとっては、司馬史観は “神の眼” なのだ。
さらにいえば、司馬氏は関西の出身だから、当然豊臣びいきとなる。
そのあおりを食らって、関東の家康は冷ややかに扱われる。
だから私などは、家康は幼少期から計算高い “たぬきジジイ” であったような印象を、いまだにぬぐいきれないでいる。
そういう “司馬病” の私などがようやくこのドラマを安心して観られるようになったのが、中盤以降。
すなわち、家康がヒゲを伸ばし、落ち着いた表情を見せるようになってからだ。
メイクもいい仕上がりを見せることが増えて、画像的にも安定した。
転換点となったのは、ムロツヨシの秀吉が天下人に登りつめたときといっていい。
私は、このドラマの「陰の主役」はムロ秀吉だと思っている。
こういう狂気を秘めた恐ろしい秀吉像を見るのは初めてだった。
この不気味な秀吉像が成立したからこそ、側室として大坂城に君臨した茶々(淀殿)の凄みも際立つようになった。
茶々にとって、秀吉は自分の家族を殺した “憎きかたき” である。
なのに、幼い茶々は、自分の母であるお市の方が自害した直後に、早くも秀吉の庇護にすり寄る姿勢を示す。
それは秀吉が、天下人への階段を駆け上る稀代の権力者に見えたからだ。
歴史上の美女は、権力を手に入れようとしている男の輝きに弱い。
シーザーの庇護を熱烈に求めたクレオパトラ。
玄宗皇帝の寵愛を熱心に乞うた楊貴妃。
時代の覇者になろうとしている男たちは、ある種の女から見ると、みな蜜の香りを巻き散らしている。
信長から信頼され、大きな方面軍を任されるようになった頃の秀吉は、まさに、そのはち切れそうな野心を全面的に開花させていた。
茶々は、その秀吉を通して天下を遠望する夢を抱いたのだ。
だから、茶々やその母のお市が家康に懸想をしたという話はウソである。
それは、ドラマ上のフェイクにすぎない。
なぜなら、家康は権力者として「蜜の味」を巻き散らすような人間ではなかった。
「蜜の味」を巻き散らすことができた男は、この時代、信長か秀吉しかいない。
けっきょく家康は、晩年になっても、信長や秀吉のスケール感を理解できなかったろう。
逆にいえば、戦争という世界戦略を描けなかった家康は「戦のない世」をつくろうとすることに自分の使命をかけた。
そこのところだけは、このドラマが説得性を持っている唯一の個所だ。
つまり、最後の最後になって、『どうする家康』は、ようやく大河ドラマの骨格を整えることができたといっていい。
結局、年を取った家康が、「世の中はどうにもならない」ことを悟ったからである。