ネットをさまよっていたら、
「豊臣秀吉という人は、とっても芸術的なセンスに恵まれた人だ」
というようなことを書いているブログを、発見した。
秀吉 …
芸術?
あまり、ありえない言葉の組み合わせに思えて、少し注意深く読んでみた。
なかなか面白い記事で、「へぇ !! 」と目ウロコ状態になった。
豊臣秀吉といえば、“いやしい百姓” 出身の天下人(てんかびと)。
権力のトップに登りつめてからは、そのキンキラした成金趣味ばかりが目立つようになり、格調の高さを尊ぶ「芸術」などという言葉が、およそ似つかわしくない人という印象がある。
ところが、その記事によると、成金趣味こそ、秀吉が生きた時代の「新しい芸術観」だったというのだ。
秀吉の時代を象徴する華麗な「桃山文化」というのは、秀吉という不世出の英雄の「新しい芸術観」によって導かれた、史上まれなる文化なのだそうだ。
秀吉を「不世出の英雄」と祭り上げるセンスが、ちょっと古いかな … という気がしたので、その記事を注意深く検分すると、どうやら日本浪漫派の有名な文筆家である保田與重郎という人が、昭和11年に書いた文章を、ブログの管理人さんが引用したものだった。
おいおい、戦前の文章かよ!
… とは思ったが、逆に、その保田與重郎の “秀吉論” が持っている現代的なセンスに脱帽する思いがした。
大意は、次のようなものだ(ちょっと強引な意訳であるが … )。
秀吉が天下を取る前の日本の美術では、水墨画に代表されるような、ワビ・サビの精神に通じる「枯れた芸術」が良しとされていた。
ところが、信長・秀吉の天下取り構想が実現されるようになって、為政者の権力を誇示するような巨大城郭が建てられるようになり、その室内装飾には、金箔を多用する華麗な屏風(びょうぶ)画などが登場するようになった。
特に、秀吉は、その出自が農民であったために、当時の武家文化・貴族文化にとらわれない新しい感覚で、その居城を飾った。
つまり、王朝文化の伝統を引きずる貴族たちや、室町文化の伝統を尊ぶ武家たちが、歌や書で守ってきた “約束事” から、彼は自由だったというのである。
そのために、日本の芸術のなかで、はじめて「物語から独立した絵画」が生まれた。
秀吉の芸術は、一見、ゴージャスな成金趣味を表現しているように見えながらも、そこには、「宗教」「物語」「イデオロギー」などから自由になった、近代絵画の精神が息づいていた。
…… 以上、誤読(?)に近いような意訳になってしまって、原作者や紹介者からは大いに怒られそうだけど、私が解釈したところは、そんな感じだ。
保田與重郎の原文では、その最後のくだりが、次のように表現されている。
「桃山の芸術の動因は、贅沢が素直に記録されていることである。しかし、素材の贅沢さは、すでに芸術のひとつの資格である。この近世的な意味での美観の成立は、秀吉の出現によって初めてなされた」
素材(マテリアル)の贅沢さが、芸術の資格だなんて!
こいつは、凄いことを言っていることになる。
秀吉は晩年、当時最高の茶人とされた千利休に、「黄金の茶室」をつくるように命じる。
それは、「木と土」でつくられた質素な茶室に美を認める千利休の美意識とは、まったく逆行するものだった。
こんにちの我々は、ワビ・サビを重んじる千利休の美意識を「高級な趣味」と評価し、黄金の茶室を考案した秀吉のセンスを「成金趣味」とさげすむ風潮に慣れている。
だが、「黄金の茶室」を企画した秀吉は、利休に、ひとつのメッセージを与えたかったのではあるまいか。
「ほれ、利休よ。おめぇの美意識はとやらは、洗練の極みを行っているかもしれねぇが、しょせんは、決まり事にしばられた水墨画の延長でしかねぇのよ。
それに比べ、俺の黄金趣味はどうだ? こういうアート表現を、南蛮人は “バロック” と呼ぶわけよ。お前、少しは世界史を勉強しろよ」
秀吉が、もし芸術観・世界観を表現する言葉を使えたならば、彼はそう言いたかったのかもしれない。
▼ ヨーロッパのバロック的内装
秀吉が、黄金のきらめきに、いかに魅せられるようになったか。
司馬遼太郎さんは、秀吉と黄金との遭遇を、『新史・太閤記』の一節で、実に上手に綴っている。
舞台は、今川義元が統治する駿府(すんぷ)の城下町。
一人の物売りの青年が、この城下町に登場する。
まだ、「秀吉」とも「藤吉郎」とも呼ばれていないこの青年は、その場面では、ひとこと「猿」と呼ばれているに過ぎない。
猿が、街道脇の茶店で、餅を食っていると、
「故郷 (くに)へのみやげ話に、良いものを拝ませてやろう」
と、茶店の老人が寄ってくる。
当時でも珍しい小判だ。
猿は、目もまばゆい小判を一枚、手のひらに載せてもらう。
あとは、司馬さんの原文で紹介しよう。
…… 猿は、反応の正直な男だ。その目もくらむような黄金通貨を手のひらに載せられたとき、「ひっ」
と、火傷したように全身を慄(ふる)わせた。
土間の者はどっと笑った。
「遠慮は及ばぬ。よく拝め。それが世に喧(かまびす)しい駿河小判というものだ」
重さは二十四~二十五匁(もんめ)はあるだろう。
黄金の含有量はきわめて多く、あたりを明るくするほどの輝きを放っている。
この物質の色は、猿が生涯、もっとも好む光色(こうしょく)になったものだが、この物質の出会いにおいて、猿は、感動のあまりほとんど慄(ふる)え続けていた。
… と、司馬さんは書く。
もちろん、本当にあった話かどうかは分からぬ。
たぶん、創作だろう。
しかし、この小さなエピソードは、天下人となった秀吉が「黄金の茶室」をつくるようになるまでの運命を、何よりも上手に暗示してはいないだろうか?
一流の小説家は、やっぱりうまい文章を書くものだ。