私たちが把握できる “宇宙” はどこまでか
我々が把握できる「空間」と「時間」は、はたしてどのくらいの規模までなのだろうか。
もし、目に見える範囲なら、我々は経験上、およその「空間」と、そこに至るまでの「時間」を把握するできる。
範囲が広がって、他府県、あるいは他国ぐらいまでなら、地理的な学習を身につけた範囲で、その「広さ」をイメージすることは可能だろう。
さらに、地球を超えて月に至るぐらいならば、すでに月面に人類が降り立った経験をもとにして、漠然とした「距離」やそこに至るまでの「時間」を計算することができる。
しかし、そこから先の「空間」と「時間」を、我々はイメージすることができない。
たとえば、火星までの距離は、6,000万kmともいわれているが、そう教えられたとしても、数字からその「距離」を何かに置き換えてイメージすることはもう不可能だ。
ましてや、「オリオン座までの距離は地球から500光年~1500光年」などと言われても、それが「遠い」のか、それとも「近い」のかという感覚すら生まれてこない。
「我々には把握できない世界がある」と知ったときに、人はどんな感慨を持つのだろう。
無限の空間の永遠の沈黙
パスカルは、
「無限の空間の永遠の沈黙が、私に怖れを抱かせる」
と言った。
誰もが幼年期に、
「夜空の星の彼方には、無限の空間が広がっている」
と大人に教えられ、身の凍るような畏れ(おそれ)を抱いたことがあるのではなかろうか。
たぶん、人間が抱く “心細さ” の原点には、常にそのときの気分が横たわっているはずだ。
それは必然的に、
「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」(ポール・ゴーギャン)
という問を引き寄せる。
▼ 「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」
もちろん、答などはない。
どうあがいたところで、答の出ない問には、いつしか人は無頓着になる。
たいていの大人は、やがて現実生活の忙しさにかまけて、「無限の空間の永遠の沈黙」を忘れてしまう。
忘れるというより、畏れの感覚を失ってしまうのかもしれない。
私もそうだった。
しかし、二十歳の頃だったか、光瀬龍のSF小説『百億の昼と千億の夜』を読んだときに、その「畏れ」の感覚が強烈によみがえった。
人生最後の読書に選ぶ本
ここで光瀬龍の同小説をテーマにしようと思ったきっかけは、若手批評家の宇野常寛が、週刊誌の編集部から「人生最後の読書」というテーマを与えられて、この小説を挙げていたからだ。
宇野常寛(写真上)は、現在41歳(2020年現在)。
高校生のときに同小説を読んで、「ただただその言葉の美しさと、物語の壮大さに圧倒された」という。
私もまたそうだった。
それほど、『百億の昼と千億の夜』という小説には思い入れがある。
この小説が誕生したのは、1973年。
後の1977年になって、萩尾望都が漫画化して(写真下)、そちらの方でむしろ有名になったといっていい。
私は漫画の方は未読だが、ある意味で、漫画という表現手段の方が、この奇想天外な話を適切に伝えきれたのではないかと推測する。
なにしろ荒唐無稽な話なのだ。
ここに登場するのは、ギリシャの哲学者プラトン。釈迦国の王子シッタータ(釈迦)、そしてナザレのイエス(キリスト)、興福寺の阿修羅(あしゅら)像で知られる阿修羅王。
さらに、仏教説話に登場する帝釈天、弥勒(みろく)などといった神や菩薩のたぐいまで総動員され、それぞれが入り乱れて戦い合うという話なのだ。
宇宙を滅ぼそうとする “何者” かとの戦い
テーマは、この世の滅亡である。
この地球に生物 … 特に人間が誕生したときから、実は、何者かによって破滅させられるというプログラムが仕組まれていた、というのがこの小説の骨子。
何者 ……
それは人類が「神」という名で呼んでいたものに近いが、実は、その「神」ですら、さらに、それを上回る者の命令によって動かされていたに過ぎない。
宇宙を滅亡させようとするその “何者” かに対し、主人公たちは戦い始める。
そのためには、まず宇宙の生成原理をつきとめることが先決。
戦いの話は、また謎解きの話とリンクしている。
主人公たちの中心となるのは、阿修羅(あしゅら)王である。
説話では、阿修羅は天界から追われた悪神とされるが、小説では中性的な魅力をたたえた美少女の姿で登場する。
光瀬龍が、興福寺の阿修羅像を見てイメージ形成していった体験が、そこには凝縮している。
人間の能力では把握できない危機
阿修羅たちに迫りくる “この世の破滅” とは何か?
作者も具体的なことはいっさい描かない。
ただ、銀河系とアンドロメダ銀河の衝突といった規模のスケールの大きい破滅であることだけは示唆される。
そして、それは阿修羅たちの奮闘にもかかわらず、すでに避けようのないものであることも暗示される。
概説だけ追うと、低学年向けのSFファンタジーのような印象を受ける。
だが、読み進んでいくうちに、低学年の子供には歯が立たない複雑な陰影を持った小説であることが分かる。
当時の宇宙科学と哲学の先端をいく思想
ここには、(1970年代当時の)最新の宇宙科学が解き明かした大発見情報があるかと思えば、仏教・バラモン教を軸とした東洋哲学、新約・旧約聖書などの予備知識がないと理解ができないような世界が広がっている。
途中、何度も書から目を離し、茫漠と広がる夜空を見上げたくなる。
きらめく星の光が、何億光年の彼方から届いた、その星の最後を伝える光のように思えてくる。
そして、星と星の間に広がる宇宙の闇が、ブラックホールのような虚無を胚胎しているように思えてくる。
美しい言葉で綴られた宇宙の寂しさ
この小説には、冒頭で書いた「無限の空間と永遠の沈黙」を、脳ではなく肌で感じるような恐ろしさがある。
そして、それがポエムのような美しい言葉で描かれるから、なおのこと恐ろしい。
その「恐ろしさ」の核には、茫漠たる寂寥感(せきりょうかん)が潜んでいる。
宇宙の正体は分からないが、「宇宙は寂しいものだ」ということだけは、確実に伝わってくる。
この寂寥感は、のちに諸星大二郎の『孔子暗黒伝』や『暗黒神話』、押井守の『イノセンス』に引き継がれていく。
リドリー・スコットの映画『プロメテウス第1作』(2012年)も、このテーマを焼き直していた。