アートと文藝のCafe

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『2001年宇宙の旅』再び

 年末、中学校時代の友人たちと飲む機会があった。
 すでに70歳に近い老人たちが集う会だから、半世紀以上の付き合いとなる。
 固定メンバーはだいたい4名だが、この日は3人だけの会となった。

 

 中学時代に、小説、評論、漫画などを集めたガリ版刷りの同人雑誌を制作した仲であるから、会うと「文学」や「映画」の話になることが多い。

 

 この日も、映画のゴジラシリーズやSF映画の話題となった。

 

 そういうテーマではいつも主導権を握る T 氏が、自分の一生の方向を定めたという映画『2001年宇宙の旅』(監督スタンリー・キューブリック 1968年制作)について熱く語り始めた。

 

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 彼がこの作品に接したのは、年齢的には17~18歳。
 高校3年生ぐらいの年であったろうか。
 50年ほど前の話である。

 

 中学を卒業した後に、我々はそれぞれ別の高校へ進学したが、この映画が公開されたとき、
 「すごい映画ができたから、みんなで見ようぜ」
 という T 氏の発案によって、久しぶりに集合して鑑賞した。

 

 映像的には凝った映画だと思ったが、正直、難解すぎて、私は T 氏ほどには感激しなかった記憶がある。

 

 この映画をすごいなぁ! と思ったのは、それから40年ほど経ってBS放送で見直してからだ。


 17~18歳頃には難解に思えた個所が、40年も経つと、さすがにキラキラと輝くほどの魅力を放っていて、当時は気づかなかったが、なんともすごい映画に接していたものだと、改めて考え直した。

 

 T 氏は、けっきょくこの映画に触れたことによって、クラシック音楽というものに開眼し、SF的世界観に目覚め、そこから遡行して、さらに文学・哲学の領域に関心を広げていった。
 人間にとって、そういう作品に出会うということは、とてつもない幸福であるといえるだろう。

 

 この年末に集合したときは、この映画のテーマは何であったのか、ということが改めて話題になった。

 

 素人がこの映画の感想を述べるとき、必ず「難解である」という印象が最初に語られる。

 しかし、T 氏の話によると、この『2001年 』という映画や小説には、原作者たちの丹念な制作ノートが残されており、お蔵になった脚本や未使用のフィルムもたくさんあるという。

 

 だから、「難解だ」と思う人は、まず作品以外の資料に当たるべきだ、というのだ。

 

 さらに、このシリーズには、別の制作陣による続編も用意されており、それを逐一フォローしていくことで、第一作目をつくった映画監督のキューブリックの意図や、それを小説化したアーサー・クラークの世界観や哲学が分かるようになっているとも。

 

 T 氏はそういってから、この作品の背景となるストーリーを簡単に要約してくれた。

 

 彼の説明によると、この映画は次のような構成になっているという。

 

 かつて高度な知性をもった異星人(映画ではその姿が描かれない)が地球を訪れたとき、地球はあまりにも野蛮な原初の闇に包まれていた。
 そこで、その異星人は、地球上のある猿のグループを選んで、知性を授けることにした。

 

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 そのとき、知性の教育装置となったのが、「モノリス」といわれる長方体の構造物(上)で、それに触れた猿が知恵を授かることになった。
 つまり、その段階で、猿から進化した人類が誕生したというわけだ。

 

 しかし、「人類」というのは宇宙旅行に行ける技術を持った段階でも、まだ進化の途上にある生き物でしかなく、最高の知性を持つ異星人からすると、人類はさらなる進化を遂げる必要があると見なされていた。

 

 その進化の過程を描いたのが、『2001年宇宙の旅』の終盤に描かれた木星探索に出たボーマン船長(写真下)の体験談だという。

 

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 時空を超える飛行体験の後に目を覚ましたボーマン船長は、ロココ風の室内装飾を施された謎の一室で食事をしている自分の姿を見る。

 

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 そこに登場する自分は、見る見るうちに老衰していき、最後はベッドに横たわって、もう死を待つしかないような状態になる。

 

 しかし、そのシーンのあとに映画の観客が見るのは、空中に浮かぶ巨大な胎児の姿。
 T 氏によると、その胎児こそ、人類が次の進化を遂げたことを示す「スターチャイルド」と呼ばれる新生命なのだとか。

 

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 この「スターチャイルド」こそが、猿から進化して人間になった人類が、その次のステップに移ったときの姿なのだという。

 

 ただ、それがどんな存在なのか。
 映画はそれを具体的に解き明かすことなく終わる。

 

 しかし、原作者のキューブリックとクラークは、他の文献で、この新生命がどういうものであるのかということを詳細に語っているという話だった。

 

 そこまで話したT 氏は、私に向かって、こんなことを言った。

 

 「映画や文学には謎があった方がいいと、(私が)昔ブログに書いていたが、しかし、芸術作品というのは謎のまま放置するよりも、真実を究明した方が作品理解が深くなることもある」

 

 こういう言い方だったかどうか、正確には記憶していない。
 ただ、
 「町田もより深い文献に触れて、いっしょにこの映画の本質的なテーマに向き合ってほしい」
 ということだったと思う。

 

 彼の言い分にも一理あると思い、インターネットを使って、この映画を解説していた町山智浩氏の『映画塾!2001年宇宙の旅』(2017年制作)という番組を見た。

 

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 町山氏の解説は、この映画の原作者たちのインタビューや著作などをある程度読破した成果の上に成り立ったもので、多くの観客が「難解である」と戸惑った内容をほぼ完ぺきに解き明かすものだった。

 

 その話自体はとても知的な刺激に満ちたもので、聞いているとかなり面白かったのだが、一方で、「だから何だよ」という気持ちも湧いた。

 

 私が思うに、この映画では「難解である」ことが豊饒さにつながっていて、それを解き明かしてしまうと、内容がどんどん薄っぺらになってしまうという特徴がある。

 

 実は、そう言っているのは解説している町山智浩氏自身であって、彼にいわせると、
 「キューブリック監督は、この映画に関して、完璧な説明をすべて用意しながら、公開時に、観客が理解できるような情報をいっさい映画からそぎ落とし、あえて “難解さ” を強調したのだ」
 という。

 

 なぜ、そういう作り方をしたのか?
 それについて、キューブリック自身が残した言葉があるらしい。

 
 すなわち、
 「なぜ(ダ・ヴィンチの)モナ・リザは魅力的なのか? それは、鑑賞者が彼女の微笑に “謎” を感じるからだ。要は、謎があってこそ芸術品は生命を得るのだ」
 と。

 

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 もしキューブリックがほんとうにそう言ったのだとしたら、それは至言であると言わざるを得ない。

 

 彼は、芸術品は「いつ完成するのか?」ということを考察したのだ。
 つまり、芸術品は、表現者の手を離れ、それを見た鑑賞者の “脳内” で完成するとキューブリックは言いたかったのだ。

 

 芸術品が作者の手を離れ、鑑賞者の脳内に沁み込んでいくためには、どうしても強力な原動力が不可欠になる。
 その「原動力」こそ、芸術品がその深部に抱え込む「謎」にほかならない。
 娯楽文学の王道が、いまだに「推理小説」であり続けるのはそのためである。

 
 
 キューブリックは、なぜ「謎の解明」を鑑賞者にゆだねたのか。

 

 町山氏によると、実はキューブリック監督と小説家のクラークは、この映画制作が始まる前に、ストーリーの細部まで説明するシーンをたくさん用意していたという。

 

 ところが、公開前にキューブリックの気持ちが変わった。
 すなわち、彼は、詳細な解説を施すことよりも、「謎」を残すことを取ったのだ。

 

 もし、ボツとなった企画がすべてこの映画に収録されていたら、見終わった観客から「難解だ」と非難する声はほとんどなかっただろう、と町山氏はいう。

 

 しかし、彼は、次にこういう言葉を残す。
 「難解さはなくなったとしても、それが名作といわれたかどうかは別の話だ」

 

 町山氏もまた、芸術作品は「観客の脳内で完成する」という自論の持ち主なのだろう。

 

 私もその説を支持する。

 

 もし、仮にキューブリックやクラークが、非の打ちどころのないほど完璧に自作を説明したとしても、世界の観客のなかには、原作者たちの予想をはるかに超える高次の解釈を行う人間がぜったい出てくる。
 原作者には、より優れた解釈を試みる “未来の鑑賞者たち” を排除する権利はないのだ。

 

 キューブリックはそのことが分かっていたから、この映画が公開される直前に、すべての “解説” を削り落とし、あえて暴力的なまでにそっけない作品に仕立て直した。

 

 そのことで、作品の骨格は “やせ細った” が、逆に、切り落としたところに闇が残り、その暗がりに、めくるめくような豊饒さが宿った。