今年(2019年)の11月、NHK BSプレミアムの『ザ・プロファイラー』という番組で、アレクサンドロス大王が取り上げられていた。
番組の進行はほとんど覚えていないが、“アレクサンドロス大王” の不思議な精神構造には興味をおぼえた。
アレクサンドロスという男は、大遠征を開始したとき、いったい何を追求したかったのか?
そして、実際にギリシャ/ペルシャ/エジプト/インドという広大な領土を獲得することによって、何を得たのか。
そういうアレクサンドロスの内面を掘り下げた文献というものを、実は私はまだ知らない。
彼の大遠征ストーリーは数々の華やかな光輝に包まれているが、実際のところ、彼の心理を分析した資料は何もないのだ。
もちろん、幼少期から様々な逸話は残されている。
少年時代に、馬の心理を読み、大人たちが乗りこなせなかった荒馬を見事に乗りこなしたといったような彼の傑出した能力を喧伝するエピソードは枚挙にいとまがない。
しかし、それらの逸話は、アレクサンドロスという人物がとった行動に焦点を当てたものが大半を占め、彼の内面に触れてはいない。
ギリシャ人というのは、歴史を語るときも、ヒーローたちの人間味を語ることが好きな民族だった。
たとえばホメロスの『イリアス』や『オデッセイア』においても、ホメロスは、想像上の人物に近いアキレウスやオデッセウスを、まるでサスペンスドラマかメロドラマの主役たちのように描いた。
そのような人間味の濃い古代ギリシャの英雄像のなかで、アレクサンドロスという人だけは、非常に人間像が抽象的である。
私は歴史好きの少年だったから、小さい頃から日本語訳の『プルターク英雄伝』などを読みあさっていたが、古代ギリシャ人の話が続いた後で、アレクサンドロスのところまでくると、急に人物像が神秘のベールに包まれてしまうのを感じていた。
それがなぜなのか。
少年時代の私には、よく分からなかった。
しかし、今の私はこう思っている。
アレクサンドロスという人の内面が分かりにくいのは、彼が神話と歴史の狭間(はざま)を生きた人だったからだ。
つまり、彼は、幼い頃から自分は「神の子」であるという意識を持ちながら成長したのだろうと思う。
そこには実母のオリュンピアスという女性の育て方が関わってくる。
オリュンピアスは、呪術を重んじる巫女的性格が強く、幼いアレクサンドロスの精神性を神秘的な世界観に染め上げていったといわれている。
父のフィリッポス2世が、わざわざアテナイからアリストテレスという哲学者を招いてアレクサンドロスの家庭教師にしたのも、たぶんにオリュンピアスの呪術的世界観から息子を遠ざけようという意図が働いたからかもしれない。
こうしてアレクサンドロスは、アリストテレス経由のギリシャ的合理主義を身に付けながら、一方では、母譲りの呪術的世界観もまた意識の底に沁み込ませたいった。
後にペルシャ遠征の途に就いたとき、彼はエジプトにも進出し、少数の部下だけ連れて砂漠の中のアメン神殿を訪れている。
そこで、「なんじはアメンの子である」という神託を受け、いたく満足して帰ったというエピソードが残されているが、自分を無邪気に “神の子” と信じる精神性というものに、私はギリシャ的合理主義とは何か異質なものを感じる。
アレクサンドロスは、長き遠征中も一度も戦いに敗れたことがなく、戦略家・戦術家として、世界史上のどの軍事司令官も超えることのできない偉業を成し遂げた人として知られている。
のみならず、最前線で戦う一兵卒としても有能な戦士であった。
普通、よほどのことがないかぎり、軍司令官が先頭に立って戦うということはない。
指揮者が戦死すれば、軍全体が瓦解するからだ。
しかし、アレクサンドロスは、常に部隊の先頭を切って敵陣に切り込んでいった。
なぜ、彼にそれができたのか?
「神の子は死なない」
という信念があったからである。
このように、アレクサンドロスはどこか神がかりの人であったことは間違いなく、言葉を変えていえば、彼は自分を「超能力者」のように思っていたかもしれない。
そうでなければ、彼はペルシャを滅ぼした後に、「世界の果ての景色を見る」という妄想を抱いて、インド遠征に着手することもなかったろう。
彼は、インドの東部を流れるガンジス川こそが、“世界の果て” を流れる川だと信じていたが、「それをこの目で見たい」という感覚は、今でいえば有人探査機で銀河系の果てまで航行したいという欲望に近く、「神の子」でなければ発想できないようなものだった。
しかし、「神の子」の精神世界は、「人間」である部下たちには把握できない。
ひたすら “世界の果て” を目指す大王の欲望は、部下からみれば、「狂気」の様相を呈していただろう。
アレクサンドロスがインドを越える遠征を諦めたのは、マケドニア本国から連れてきた兵士たちが厭世的な気分になり、もう大王の言うことを聞かなくなったからだという。
マケドニアやギリシャの兵たちは、日増しにペルシャ的な風俗やしきたりを尊重し、ペルシャ的な支配体制を築こうとしたアレクサンドロスに反発した。
昔から大王につき従ってきた兵士たちからみれば、それは野蛮なアジアの風俗に堕するものであり、ギリシャ風の闊達な自由主義に反するものに見えた。
彼らはアレクサンドロスのことを、東方的な専制君主を目指す独裁者に変貌したと非難した。
このときのアレクサンドロスの心を分かる家臣は、ギリシャ人部隊の中には一人もいなかったし、征服されたペルシャ人の中にもいなかった。
アレクサンドロスが体現したものは、今でいう “グローバリズム” そのものであったのだ。
彼は、ギリシャ文化とペルシャ文化を融合させ、さらにインドに迫るアジアの辺境文化をも取り込もうとした。
そのようなグローバリズムを、後世の歴史家たちは「ヘレニズム」と呼んだ。
そもそも「グローバリズム」という言葉は、文字通り、グローブ(地球)からきている。
しかし、「地球」という概念が今のような形で確立されていない時代に、グローバルなものを想像することは、「神の視点」に立つということ以外の何ものでもない。
アレクサンドロスは、この時代、唯一「神の視点」を手に入れた軍司令官であったかもしれない。
結果的には、アレクサンドロスの意識をとらえたグローバリズムは、マケドニア・ギリシャ兵たちのローカリズムに屈した形になり、彼の死後、“アレクサンドロス帝国” は、将軍たちのローカリズムによって四分五裂になる。
将軍たちは、ギリシャ文化の伝統を守ったつもりになっただろうが、彼らには、国境を超えて広がりを実現しようとしたアレクサンドロスの野望をこぢんまりと縮小したにすぎなかった。
ギリシャ文化が本当の意味でのグローバリズムを獲得するには、次のローマ時代を待たねばならない。
地中海を “内海” とし、ヨーロッパ、アフリカ、西アジアに至る大版図を築きあげたローマ帝国というのは、間違いなく、アレクサンドロス帝国が生まれたことによって実現したグローバル国家であった。