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『第七の封印』という難解な映画の快楽

昔の映画の現代的鑑賞法1 歴史編
ベルイマン『第七の封印』

 

 イングマール・ベルイマンが1957年に撮った『第七の封印』は、公開当時から難解であるという批評が多かった。

 

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 当時、芸術好きの知識人たちが、さまざまな解釈や議論を展開したらしいが、私は、そういう文献を見たことがないので、何がどのように論じられたかは分からない。

 

 ただ、今回初めてDVDを観て、自分なりの解釈を主張したくなる人がいっぱい出てきそうな映画だということは分かった。

 

 謎めいたシーンがたくさんあり、その謎が解明されないまま終わる。
 脳細胞がチクチクと刺激されるような映画なのだ。

 

 
死神にチェスを挑む

 

 舞台はペストが流行し、魔女裁判が横行する、恐怖と狂気に彩られた中世ヨーロッパ。
 そのヨーロッパ大陸を横断して、異国の戦場から帰ってきた十字軍の騎士(マックス・フォンシドー)が、祖国のスウェーデンに向かって旅していく。

 

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 荒涼とした海辺で、騎士は死神と出会う。
 その死神の口から、彼は自分の寿命がここで尽きようとしていることを知らされる。

 

 しかし、まだ死にたくなかった騎士は、命の延命を賭けて、死神にチェスを挑む。
 世紀末的なデカダンスに満ちた、メランコリックな幻想美に彩られた情景だ。

 

 海岸にすっくと立つ、黒衣の死神。
 顔の部分だけが、白骨のように白く輝いている。

 

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 白と黒は、万国に共通した葬儀の色だけに、その演出だけで禍々(まがまが)しさが伝わってくる。

 

 死神が、白と黒に色分けられたチェス盤の前に座る。

 

 死神が手にしたのは黒いコマ。
 騎士が操るのは白いコマ。

 

 盤状で繰り広げられる黒と白のせめぎ合いは、同時に、死の影が濃さを増すのか、生の力が盛り返すのかという、人間の「生命力」のアナロジーともなっている。

 

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 騎士が自分の延命を願うのは、死の恐怖から逃れるためではない。

 

 「神はなぜ沈黙しているのか?」
 その理由を知りたいがためだ。

 

 彼が死を賭して戦った聖地エルサレムでは、無意味な殺戮がたくさん行われ、十字軍の掲げた理想とはほど遠い、私利私欲にまみれた略奪が横行した。

 

 ヨーロッパに戻れば、今度は疫病によって、罪もない人々が大量に死んでいく (なにしろヨーロッパの全人口の1/3がペストで死んだという)。
 
 この悲惨な人間界の状況は、はたして神が望んだものなのか?
 神が与えた試練なのか?
 騎士は、
 「その答えが得られないうちは、死ねない」
 と思っているようだ。

 

 そのため、彼は、「悪魔と通じた」という理由で火刑に処せられる少女にも近づいて問う。
 「教えてくれ。悪魔はどこだ? 悪魔なら神の居所を知っているはずだ。悪魔はどこにいる?」

 

 こういう問には、誰も答えられない。
 火刑に処せられる少女に分かるはずもなく、死神ですら答に窮す。
 
 
神はどこにいる?

 

 牧師の子として生まれ、厳格な父親に反抗しながら信仰を模索した監督のベルイマン(写真下)にとって、「神はどこにいる?」というテーマは切実なものだったと聞く。

 

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 しかし、ここでベルイマンが描きたかったのは、神の存否を問うという哲学問答ではなく、人々が真剣に神の存否を問わねばならないほど “もの悲しい” 時代だった「中世」そのものだったと思える。

 

 村の外に一歩出れば、疫病や飢餓のために死んでいった人間の死体がどこにでも転がっている。
 座ったまま死んでしまった主人の前で、やせこけた犬が、じっと主人が眠りから覚めるのを待っている。

 

 村の家でも、町の酒場でも、迷信深い人々のヒソヒソ話が続けられる。
 「隣りの町では、牛の頭をした赤子が生まれたらしい」
 「別の村では、太陽が四つも出てきて、夜になっても沈まなかったそうだ」

 

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 町の広場には、重い十字架を背負いながら、自らの体をムチ打つ狂信者たちがさまよい歩いている。


 「最後の審判」が間近に迫っていると信じられた時代。
 彼らは、自分の体を傷つけることによって罪をあがない、世界が終末を迎えたときに、神の許しを得ようとしているのだ。

 

 ここに描かれるのは、そのような「神の裁きと死」がどっかりと腰をすえている世界なのだが、なぜか、奇妙な明るさがある。

 

 黒衣に身を包み、顔だけ白塗りした死神は、よく見ると、ひょうきんな顔をしている。

 

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 死神に寿命を宣告された騎士は、笑顔で死神を迎えて、チェスを挑む。

 

 騎士に従っている従者は、死体の転がる荒野を旅しながら、卑わいな歌を歌うことをやめようとしない。

 

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 狂信者たちの行列を目にした庶民は、彼らの信仰心に畏怖を感じて涙を流したすぐ後に、旅芸人たちの余興に、たわいもなく笑い転げる。
 
 
死者たちのピクニック

 

 最後のシーンは、騎士やその従者、そして途中で知り合った同行者たちが、死神に手を引かれたまま、丘の上を踊りながら去っていく映像で終わる。

 

 もちろん、それは、死神の宣告どおり、騎士たちがあの世に旅発っていったことを暗示している。

 

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 死神を先頭にした「死者たち」の行進は、悲惨でありながら、どこかピクニックに向かう人たちのように、のどかだ。

 

 

 何を言いたい映画なのか。

 

 神の存否を問い続けた騎士の姿に、ヨーロッパ知識階級の内面的苦悩を読み取ることも可能かもしれない。
 おそらくこの映画は、そういう部分に自己を投影した知識人たちを魅了したのだろう。

 

 しかし、そのような哲学的な解釈は、無用なような気もする。

 

 われわれが、実体験することのできないヨーロッパ中世の旅。
 その時代を生きた人々の眼差しそのままに眺められた風景。
 この映画には、それがどんなものであったかを想像するヒントがたくさん散りばめられている。
 
 
 ヨーロッパ中世とは何であったのか。


 それは、暗くて恐ろしい妄想と、卑猥な笑いが混在したダイナミックな世界だったのだ。

 

 この時代の庶民のエロスは恐ろしいほどエネルギッシュだったに違いない。
 神に隠れてこっそり味わう性愛ほど、淫靡な情熱を伴うものはないからだ。

 

 逆にいえば、だからこそ、邪淫な嗜好に堕さない「神への愛」もまたすさまじいエネルギーを持つことになった。

 

 中世の後に、“人間性の解放” を謳うルネッサンスの時代が訪れる。
 人々が抱えていたエロスと笑いは、やがて「芸術」や「文化」に昇華されることになるが、中世に生きた人々は、まだ「ルネッサンス的洗練」というものを知らない。

 

 そういう “中世的なカオス” を味わうだけでも、この映画の価値はありそうに思える。