それにしても、今回のNHKの大河『麒麟がくる』の番宣はすさまじかったなぁ。
いろいろな歴史企画で “明智光秀特集” を組むし、主役の長谷川博己をトーク番組に出演させて、役作りの抱負を語らせたりするし。
「絶対に外せない !」
というNHKの意気込みがひしひしと伝わってきた。
その甲斐あってか、初回を見た限り「悪くない」という印象を持った。
近年の大河ドラマで気に入ったのは、『龍馬伝』(2010年)と『真田丸』(2016年)であったが、久々にそれらに匹敵するようなレベルの作品になりそうな気がする。
今回の『麒麟 … 』で評価できるのは、昔からの大河ファンの好みをある程度すくい上げているところだ。
大河を見る人間というのは、基本的に “歴史好き” である。
それも、司馬遼太郎やら吉川英治、井上靖などの小説を読みあさって、登場人物に対して、それなりの予備知識を持っている人が多い。
こういう視聴者はうるさい。
役者の顔かたちやセリフ回しが自分のイメージと違うだけで、
「ミスキャストだ」
とか、
「脚本家を代えろ」
などと叫ぶ。
時代考証に間違いがあれば、
「あの武具は源平時代の大鎧じゃねぇか。この時代は当世具足だろ !」
とか、突っ込みを入れる。
俺なんかさ、大河を見始めたのは、『赤穂浪士』(1964年)からだぜ。
当時14歳。
中学2年だよ。
「すげぇなぁ ! 大人のドラマだなぁ!」
と、ため息をつきながら、モノクロの映像に見入っていた。
ほんとうに大河が楽しみになったのは、『太閤記』(1965年)からだ。
緒形拳という(当時は)まったく無名の役者が抜擢され、主人公の豊臣秀吉を演じたのだが、その緒形拳(写真下)の演技に魅せられて、歴史ドラマの味わい深さというものを知った。
このときに織田信長を演じたのが、高橋幸治(写真下)だった。
彼は、信長という男の冷徹さやカッコ良さを格調高く演じて、時には主役の緒形拳を食ってしまったこともあった。
もうひとつ忘れられない大河は、『国盗り物語』(1973年)。
当時の俺は、夜遊びばかり繰り返すチャラ男のバカ学生だったから、家などにはまともに帰ったことがなかった。
それでも日曜日の夜だけは、大河を見るために家に戻った。
この『国盗り … 』の原作は司馬遼太郎。
主人公の斎藤道三を演じたのは平幹二朗(写真上)。
信長役は高橋英樹(写真下)。
番組の途中からは、近藤正臣(写真下)が登場し、明智光秀を演じた。
結局、60作品に近い大河ドラマのなかで、この『国盗り物語』が俺さまのベスト1である。
役者たちがみな素晴らしかったが、やはり司馬遼太郎の原作の面白さに負うところが大きい。
あまりにも原作が面白かったので、けっきょく生涯に4度読み返している。
この時代の司馬遼太郎の文章はもう神がかりといっていい出来映えで、信長が桶狭間の戦いに出撃するために館を出るところなどは、ほとんどそらで覚えている。
だから『麒麟がくる』というドラマの時代背景も、『国盗り … 』をはじめとする司馬遼太郎の戦国モノを読みあさっていたので、だいたい頭に入っている。
そういう戦国オタクの俺さまから見ても、今回の『麒麟 … 』はまぁまぁのスタートだった。
あまり現代的な社会観・政治観を持ち込まないところもよかった。
こういう戦国ドラマを企画するとき、
「どうしたら戦争のない世の中がくるだろうか?」
とか、
「人の命を大切に思う時代が早く来ないだろうか?」
などといった近代的ヒューマニズムを平気で語らせる脚本家がいるけれど、戦国ドラマが安っぽくなっていくのは、そういうところからである。
『麒麟 … 』では、その視点が最小限にとどめられているのもよかった。
主役を演じる長谷川博己がどんな光秀を演じるのか、最初はそこに不安もあったが、時にお茶目、時に生真面目という性格の配分に違和感はなく、それなりに存在感が感じられた。
『シン・ゴジラ』の矢口を演じていた頃よりもずいぶんうまくなったような気がする。
これで、いいんではないの?
問題があるとしたら、染谷将太の信長(写真下)かなぁ … 。
なにしろ、俺にとって “大河の信長” といえば、1に高橋幸治、2に高橋英樹だから、それ以外の信長というのが、ちょっと許せない。
特に、“丸顔” というだけで、(俺にとっては)致命的だ。
信長の頬は尖っていて、細長くなければならない。
俺さまの勝手な理想をいえば、伊勢谷友介(写真下)だな。
憂鬱そうな表情がうまく、さらに意地悪さが顔に出るような役者じゃないとダメだ。
染谷君、まぁ頑張ってくれぇい。