何度も読み返す本というのがある。
特に小説など、ある感銘を受けた情景が浮かんでくると、
「また、あそこが読みたいな」
という気分になり、その部分だけを拾い読みすることがある。
司馬遼太郎の書いた『国盗り物語』の題3巻。
斎藤道三(さいとう・どうさん)の最期を描いたシーンなどは、もう何度読んだか分からない。
戦闘の模様を描いた章なのだが、美しいのである。
「勇壮」とか「雄渾(ゆうこん)」、「凄絶」などといった “汗くさい” 美しさではない。
朝日にきらめく山々の新緑。
光の粒子が飛び散る川面(かわも) 。
そういうありきたりの自然の情景が、死を覚悟した斎藤道三の目を通して描かれることによって、涙が出るほど、ため息が出るほど美しく輝きだす瞬間を読者は手に入れることができるのだ。
「これが、俺の最後に眺める風景か … 」
そういう感慨を持った斎藤道三の目に映る風景は、緑にあふれた野山だけでなく、自分に向かって突進してくる敵の姿ですら美しい。
最初に読んだとき、
「ああ、小説家って、すごいなぁ!」
と単純に驚いた。
斎藤道三は、織田信長の正妻となった濃姫の父、つまり信長の舅(しゅうと)ということで知られる人物だが、歴史好きの人間にとっては、信長以上に面白い人物である。
▼ 2020年 NHK大河ドラマ 『麒麟がくる』の斎藤道三(本木雅弘)
一介の油商人として、京で財をなしてから美濃に流れ、権謀術策をめぐらして、美濃の国主である土岐頼芸(とき・よりよし)をたらしこみ、やがては彼を追放して、美濃一国を手に入れる。
その成り上がりぶりのすさまじさには並ぶ者がなく、「下克上」を文字どおり地でいく人物といえる。
しかし、道三については謎に包まれた部分も多く、その素性がどのようなものであったかは諸説ある。
最近では「道三」という独立した人物はおらず、親子2代で美濃を手に入れた人物を一人にまとめて伝説化したのではないか、という見方が有力である。
▼ 1973年 NHK大河『国盗り物語』の道三(平幹二朗)➀
司馬さんは、この謎に満ちた道三を主人公に選び、梟雄(きょうゆう =ずる賢い悪役)とさげすまれていたこの人物に、「陽気に人を騙し、あっけらかんと国を盗んでいく」魅力的なキャラクターを与えた。
そういった意味で、司馬さんはこの人物をまったく一から創造しなければならなかったのだが、逆にいえば、自分の作り上げた道三の心の裏まで緻密に描くことができた。
その道三が最後の戦いを前にして、自分の人生をどう振り返ったか。
この「斎藤道三の最期」を描いた章は、全4巻の『国盗り物語』のなかでも、ひときわ光る章になった。
「陰暦四月といえば、樹(き)の種類の多い稲葉山がさまざまな新緑で輝く」
という書き出しで、この『血戦』と名付けられた章は始まる。
その稲葉山のふもと長良川の手前に布陣した2千の道三軍は、川を挟んで、その数倍に当たる斎藤義龍(さいとう・よしたつ)の軍と対峙する。
斎藤道三と斎藤義龍。
親子なのだ。
しかし、道三の子として育った義龍は、ある日、自分の本当の父は、道三が放逐した土岐頼芸(とき・よりよし)であることを知る。
なんと「父」と信じてきた道三こそ、実は、自分の本当の父を美濃から追い出し、美濃という国を奪い取った大悪人だったのだ。
真相を知った義龍の怒りは収まらない。
一方、道三にしてみれば、尾張の織田、駿河の今川といった強敵に囲まれ、今にも滅びそうだった美濃をここまで強国にしたのは誰ぞ、という思いがある。
「美濃の国主が土岐家のままでいたら、とおの昔に美濃は滅んでいたわい」
道三には、道三なりの自負があるのだ。
だが、すでに家督を義龍に譲り、隠居暮らしを始めていた道三には、戦うにも自分の兵がなかった。
ようやく集めたのが2千。
美濃の国主を継いだ義龍の擁する兵力の5分の1程度にすぎない。
すでに道三は、この長良川を自分の “死に場所” と決めていた。
そして、「三十数年前、美濃に流れてきてこのヨソ者」のために、その最期を共にしようとする者が2千人もいたことに感動している。
その2千の道三軍の頭上に、朝が来る。
「やがて夜があけ、朝霧のこめるなかを弘治二年四月二十日の陽(ひ)がのぼりはじめた。
朝の陽の下に、対岸の風景がにぎやかに展(ひら)けはじめた。
雲霞(うんか)の軍勢といっていい。
おびただしい旗、指物(さしもの)が林立している。
それらの背後、義龍の本陣のある丸山には、土岐源氏の嫡流(ちゃくりゅう)たることをあらわす藍色(あいいろ)に染められた桔梗(ききょう)の旗が九本、遠霞(とおがすみ)にかすみつつひるがえっていた。
『やるわ』
と、道三は苦笑した」
この “苦笑した” という表現が、なんとも道三の胸中を巧みに描き出して見事だ。
道三は、自分が訓練し、自分が指揮して、ここまで育ててきた美濃軍団の偉容をはじめて “敵” の視点から眺めたわけだ。
そして、今はその敵を指揮する義龍も、一時は親子の情を交わした仲だ。
だから、この「やるわ」という苦笑いには、7割方の悔しさと、3割ほどの愛がこもっている。
やがて、
「風は西に吹き、その前面の青い霧のなかから、敵の先鋒六百が、銃を撃ち槍の穂をきらめかせて突撃して」くる。
それを見て、道三は、
「ほう、美しくもあるかな」
とつぶやくのである。
彼には、敵の色とりどりの具足、形さまざまな旗指物が、極彩色の絵屏風のように感じられのだ。
「美濃へきていらい、数かぎりとなく戦場をふんできたが、常に必死になって戦ってきたため、それを色彩のある風景として観賞したことがなかった。心にゆとりがなかったのであろう」
そう思う道三の姿を、司馬さんは、
「なにやら紅葉狩りにでもきて四方(よも)の景色をうちながめている老風流人ののんきさがあった」と書く。
▼ 1973年 NHK大河『国盗り物語』の道三(平幹二朗)②
もちろん戦上手の道三のこと。
ただ手をこまねいて敵の突撃を待ちかまえていたわけではない。
道三は、
「床几(しょうぎ)から立ち上がり、采(さい)を休みなく振り、五段に構えた人数をたくみに出し入れしつつ、最初は鉄砲で敵の前列をくずし、その崩れをみるや、さかさず槍組に突撃させ、敵の中軍が崩れ立ったと見たとき、左右の武者のなかから誰々と名指しして三人を選び、
『敵将の首をあげてこい』
と、手馴れた料理人のような落ち着きようで、ゆっくりと命じた」
そして、采配通りの展開となり、道三は、
「わが腕をみたか」
と、笑いながら腰をたたくのである。
そのときの道三の心境を、司馬さんはこう書く。
「たしかに勝った。が、道三は、この一時的な戦勝がなんの意味もなさないことを知っていた。
(しかし、多少は息がつける)
それだけのことだった」
この「多少は息がつける」という道三の心境は、いったいどんなものであったのだろう。
今日執行されるはずだった死刑が、明日に延期になったと知らされた死刑囚の心境に近いのだろうか。
毎回ここを読むたびに、
(しかし、多少は息がつける)
という言葉に涙してしまう。
そして、自分の実人生において、ものすごく絶望的な展開になったとき、
「多少は息がつける」
とつぶやくのがクセになった。
もちろん、一息つけたことで、助かるわけではない。
しかし、この絶望的な状況のなかで、「一息つく」瞬間を与えられたというのは、どれほどありがたいことか。
そんなふうに思ってしまうのだ。
話を道三に戻す。
緒戦を華々しく飾ったとしても、多勢に無勢、
やがて、道三方の兵は、大半が討ち取られていく。
それでも道三は、松林の中の床几に腰を下ろし、ただ一人、いまだ三軍を指揮しているような傲然とした表情で最期の時を迎えようとしている。
その姿を、かつて部下として仕えていた敵方の武将が発見する。
すでに死を決意していた道三は、型どおりの手合わせを行っただけで、あっけなく討ち取られる。
討ち取った武将は、
「死体の首を掻き切り、持ち上げようとしたが、どうしたはずみか、首を抱えたまま足をコケに滑らせて地に手をついた。
この挿話 (そうわ)、別に意味はない。
道三の首はそれほど重かった。武者一人をころばすほどに重かったという、のちの風聞がでるタネになった」
これが斎藤道三の最期を語る文である。
司馬さんのなんとつれないことか。
感傷や詠嘆を廃した、なんとそっけない終わり方か。
しかし、ある意味で、なんと道三らしい終わり方か。
一介の油売りとして、いわば「無」から身を起こし、美濃という大国を手に入れ、さらに天下を狙うという華麗な夢を見た男が、最後はまた「無」に還っていく。
そういう無常観がジワっとこみ上げてくるような、終わり方である。
『国盗り物語』の3巻は、このあと信長を主人公とした話に引き継がれていく。