アートと文藝のCafe

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「多様性と調和」とは何か

 

 今回の五輪のコンセプトは、「多様性と調和」だという。
 開会式などのセレモニーを演出する組織委員会が掲げた標語だ。

 

 “流行り言葉” といえなくもない。
 特に「多様性(ダイバーシティ)」という用語は、昨今のトレンドとなっており、それを口に出した人は、みな時代感覚の鋭い人としてもてはやされそうな風潮すらある。

 

 しかし、今回の五輪では、「多様性」という言葉を使って何を見せようとしていたのか? 
 開会式を見ていた範囲では、そのもくろみはあまり伝わってこなかった。

 

 そもそも、「多様性」という言葉自体が、イメージ的には、まだ一般的に浸透していない。

 

 ただ分かっている人は、この言葉を次のように理解しているのではなかろうか。
 人種や宗教、文化が異なり、貧富の差があっても、そのことによって差別されることなく、それぞれの人が平和や幸せを享受できる環境を認める。

 

 …… おそらく、この言葉に関心を持つ人たちは、みなそういう意味で使っているのだろう。
 特に、最近では、性的マイノリティーの人たちや障害者の人権を認めたりするというイメージが強調されているように感じる。

 

 ただ、こういう抽象的な用語は、いくらその「意味」だけを分析しても、なにか白々しいものが残る。

 

 「エラい人が、ムズカシイことを言っている」

 

 人々がそう感じてしまったとき、どんな崇高な理念も生き残ることはできない。

 そもそも、今回の五輪開会式の素案をまとめたディレクターたちが、過去に不用意な発言をしていたことなどが明るみに出たこと自体、彼らが「多様性」という概念を消化しきれなかったことを物語っている。

 

 そうでなければ、ナチスホロコーストのことを笑いのネタにしたり、太った女性タレントのブタにたとえて「オリンピッグ」などと茶化す発想など、絶対出てこないはずだ。


 それらの事実は、彼らが「多様性」とはまったく逆の「差別」や「虐待」を意識の底に隠していたことを明るみに出してしまった。

 

 
 「多様性と調和」というテーマを、もっとも分かりやすい形で世に広めたのは、私の知る限り、2019年に日本で開催された第9回ラグビーワールドカップである。
 このとき、「日本選手」として登録されたラガーマンは31人。日本で生まれた選手は15人で、外国で生まれた選手は16人だった。

 

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 日本以外の選手の母国はトンガ、ニュージーランド南アフリカ、オーストラリア等々。

 

 もちろんラグビーが盛んな国から日本に集まってきた人々だが、日本チームとして登録されるには、日本における居住年数や家族構成など、それぞれ一定の条件を満たさなければならなかった。プロ野球で “助っ人” として来日する外国選手よりもしっかりした基準が設けられていたのだ。

 

 彼らのメンタルの特徴となっていたのは、まずなによりも、日本という国が好きで、日本文化にも敬意を払い、日本チームの一員となることを喜んでいるということ。
 だから、2019年の外国人選手16人のうち日本に帰化した選手は9人にも及んだ。

 

 人種も異なれば、文化も言語も異なる外国人たちが、“日本のラグビー” を愛するという一点で結束し、「ONE TEAM」としてまとまったことが、あの大会で初のベスト8入りを果たす原動力となった。

 

 これこそが、「多様性と調和」である。

 

 今回の五輪開会式で、日本選手の入場行進にバスケットボールの八村類氏を使ったり、聖火の最終ランナーにテニスの大坂なおみ氏を起用するなど、ハーフのアスリートを使ったことで、大会の規格者は、「人種の多様性」を訴えたかったのだと思う。

 

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 それ自体は悪いことではなかった。
 何よりも、彼らはヴィジュアル的にカッコよかったから。

 

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 ただ、それならば、彼らの秘めている「多様性」というパワーに、もっと説明を加えてもよかったのではないか。

 

 歌舞伎や江戸時代の火消しを使うという伝統芸能を強調するアトラクションよりも、現代日本のスポーツは、「人種的にも開かれてきた」というメッセージをもっと可視化してもよかったと思う。