あまり何度も同じテーマを繰り返したくはないのだが、昨日触れた「2020東京オリンピック」の開会式のことについて、あと一回だけ書く。
いろいろネット情報を見ると、7月23日夜に開かれた五輪開会式へは賛否両論があるという。
大方は、その内容の貧しさに失望したという意見だった。(ビートたけし氏、デーブ・スペクター氏、西村博之氏など)。
ただ一方で、この開会式を、
「すごく良かった!」
「ジーンとした!」
と手放しで評価する声もあるらしい。
その理由は、「ドラクエ」、「ファイナルファンタジー」、「モンスターハンター」など、ゲームのテーマ曲が使われていたからだとか。
私はドラクエのテーマぐらいしか知らないし、そのゲームに熱中していたのも30年以上前のことだから、五輪セレモニーにゲーム音楽が使われていたということに対する感激はない。
ただ、そういう微細なことを極端に評価する人たちがいることは分かる。
だから、開会式のセレモニーに好意的感想を述べる人たちに対しては何も言うことはない。
しかし、「オタク系の若者の心をつかむにはゲームのテーマを流しておけばいい」と安易に判断した制作側の意図には、貧しいものを感じる。
そこには、安易な大衆操作にあぐらをかいている “広告マン” たちの傲慢さがある。
聞けば、開会式のセレモニーを企画したディレクターたちは、ほとんど電通、博報堂などの大手広告代理店に関係していた人ばかりだという。
どうりで!
…… と思った。
彼らは何かを勘違いしている。
私自身も、かつて14~15年ほど広告業界に身をおいたことがあったから、大手代理店の人たちと仕事をした経験を持っている。
80年代のバブル期。
そういう大手広告代理店の営業マンたちは、みな薄い口髭をたくわえ、アルマーニのスーツに身を包み、ヴィトンのポシェットを小脇に抱え、そしてカタカナ業界用語をよどみなくしゃべっていた。
「上から目線」
当時、まだそういう言葉はなかったが、大手クライアントとのプレゼンに臨む前に彼らと打ち合わせをすると、
「あなた方はまだそういうトレンドがあることをご存じないかもしれませんが、今海外のセレブたちは … 」
… みたいな口調で話すことが好きだった。
当時の大手広告代理店のディレクターや営業マンたちは、基本的に、
「無知な大衆を啓蒙してやる」
という意識が強かった。
もちろん例外はある。
現場のクリエイターのなかには、ほんとうにアーティストとしての自覚をもって真摯に働いていた人たちもたくさんいた。
だが、組織の上に立つ身分になると、とたんに大企業のトップや政治家、タレントや俳優、作家などと接する機会も増えるから、自分も偉くなったように錯覚する人も出て来る。
そういう人が社会の構造分析を行うと、あたかも社会学者や経済学者になったかのように世の中を語ることが多かった。
今は時代がもう違う。
社会環境も変わったと思う。
なのに、今回「オリンピック開会式」を統括した広告代理店出身のディレクターの一人は、オリンピックセレモニーのコンセプトを、
「Moving Forward」
「United by Emotion」
「Worlds we share」
と言ったそうだ。
日本語への置き換えはなし。
ネット情報によると、その方は、
「日本人は、同じような生活をしてきたから、世界のいろんな考え方を認めていくことが大事。まあ、皆さんは日本人しか読まないメディアかもしれないけど(笑)。僕自身、海外でずっと生活してるので … 」
つまり、「だから、日本語よりも、(世界の人に分かる)英語で意味を伝えることを優先した」ということらしい。
もちろん、本当にそういう言葉で語ったのかどうかは分からない。
ただ、上記の発言(が本当だとしたら)、そこから感じ取れるのは、一般の日本人をバカにした「上から目線」の思想だ。
その人が掲げた「2020オリンピック」の標語は、「ダイバーシティー&インクルージョン」だという。
訳すと、「多様性と調和」。
悪い概念ではない。
立派な言葉だ。
しかし、こういう誰が聞いても反論の余地のない “立派な” な標語には、どこか発案者のナルシシズムと「正義の宣伝」の気配が漂う。
誰も反対できないような正義を振りかざす言論は、常に、独裁者の思想に陥るリスクを抱えている。
今は誰もが、「ダイバーシティ(多様性)」を時代のキーワードとして語り始める時代。
しかし、そもそも「多様性」という言葉には注意が必要だ。
それは、80年代~90年代にかけて、徐々に広がり始めた世界の階層格差を糊塗するときに使われ始めた言葉でもあるからだ。
だから、「多様性」という言葉に、単なる「差別の解消」や「少数派の擁護」というプラスの意味だけを取り出すと、正確な意味はつかめない。
すべての言葉には、その裏もあるのだ。
こういう、言葉に対する吟味の欠如に、私は今回の「五輪ディレクター」たちの傲慢さを見る思いがする。
そして、今回の五輪開会式の凡庸さ、退屈さ、その貧しさは、すべてそこから来たような気もする。
それは、そのような存在に肥大してきた、日本の大手広告代理店の終焉を物語っている。
70年代から80年代にかけて、日本の消費社会をリードしたブームやトレンドは、確かに大手広告代理店が発信元になっていた。
そこには、テレビCMの力がまだ絶大だったという時代背景があった。
しかし、今はSNSやYOUTUBEを活用した個人が情報発信を担う時代になっている。
情報発信におけるプロとアマチュアの差がなくなったのだ。
そういう時代に、「プロの代理店がイベントを仕切る」という発想そのものが問われなければならない。
今の消費社会は、彼らが思う以上に成熟してきている。