ひょんなことから、“短歌の会” というのに参加するようになって、そろそろ半年になる。
『無窮花植ゑむ』などの著書をお持ちの藤井徳子(ふじい・のりこ先生 = 日本歌人クラブ)のご指導を仰ぎ、月1回くらいのペースで拙作の講評をいただいている。
例会は地域の短歌愛好家が集う15~16人規模で行われ、一人2首ほど提出する。
参加者がそれぞれの作品の感想を述べあった後、先生の添削を受けるという段取りとなる。
参加者にはご年配のご婦人方が多い。
皆さん素人ではあるが、さすがにベテランともなると、プロともいえるような秀作を詠まれる。
短歌を始めて半年という私などは、短歌の極意を会得されたご婦人方に対し、今のところどう足掻いても太刀打ちできない。
正攻法では勝てないという気持ちがつのってしまうと、どうしても天邪鬼な歌が浮かんでしまう。
この前、こんな歌をつくって、周りのご婦人方から悪評をいただき、さすが先生からも叱られた。
ヒロセスズアリムラカスミツチヤタオ 似た顔なので区別がつかず
広瀬すず、有村架純、土屋太鳳という、今を時めく若手女優を並べただけの何の芸もない歌なのだが、“区別がつかない” というニュアンスを強調したいがために、わざとカタカナに変え、区切りを付けずに並べた。
案の定、
「人の名前だと気づかなかった」
「どこで区切るのか分からず、ただ読みづらかった」
という散々の酷評が続いた。
先生からは、
「奇をてらうことだけを意図した凡作」
と言われた。
やっぱりこの路線はダメだと気づき、すこし趣向を変えた。
逃がさぬぞ黒光りしたその背中 スリッパ手に持ちとどめ刺す
ゴキブリを撃退するところを描いたつもりであったが、これも「黒光りした背中」という言葉が何を指しているのか分からないという声が多かった。
先生だけは、「逃さぬぞ」という言葉に勢いが感じられて、躍動感は感じられると認めて下さった。
ただ、「その背中」が何の背中か伝わりづらいので、はっきりと「ゴキブリ」という固有名詞を入れてもいいのではないか、という示唆もいただいた。
次にはこんなのを作った。
ツマミなし 一杯だけのコップ酒 外れ馬券に未練たらたら
これは先生に「面白い」と褒められた。
地域ごとの短歌会が集まったもう少し広域の短歌大会(多摩歌話会)に応募してみてはどうかと誘われ、推薦してもらった。
先だって、その「多摩歌話会」の秋季短歌大会(写真上)が行われ、78首の歌が集まったなかで、各首の講評が行われた。
講評を行ったのは、『ぽんの不思議の』などという歌集を出されている小島熱子先生(現代歌人協会会員)。
小島先生は、78首のうちの約半分を採り上げ、1首1分程度の講評・添削をその場で行われたが、私の歌の番になると、
「この歌には思わず笑った。すごく面白いと思った」
と好意的なコメントを寄せてくださった。
ストレートな言葉で、シンプルに歌い上げているところが力強いとのこと。
ただ、「短歌としては俗っぽい言葉が多いので選に拾われるような作とはいえない」とも評していただいた。
大会が終わり、近くの居酒屋で打ち上げが開かれた。
10人規模の会となり、私は人一人を置いて、小島先生のそばに座らせてもらった。
宴半ば、いつもご指導いただいている藤井先生が小島先生に、私のことを紹介してくださった。
小島先生は、私の「外れ馬券に未練たらたら」の歌を覚えていてくださって、
「あれは面白かった。もっといっぱい作りなさい」と励ましてくださった。
この短歌大会の講評を聞いていて、いくつか学んだことがある。
「笑顔」、「いやし」など、誰もが “ほっこりする” ような言葉を歌の中心に置く短歌は、まず凡作だということ。
こういう月並みの言葉は、短歌の情感を平凡なものにしてしまう。
これは、小島先生が講評のなかで語った言葉だ。
また、抒情性が勝ちすぎると、逆に “味気なくなる” という逆説。
詠嘆的に詠い過ぎた歌は、肌がむずがゆくなって、気持悪くなるとも。
歌の中には、ときに “時事詠” というのがある。
安倍政権がどうだとか、基地問題がどうだとか。
そういうイデオロギーが強く出た歌は、他人の共感をほとんど呼ばないという。
これも分かる。
私も、こういう歌には鼻白む方だから。
ま、その手の歌は、いずれにせよ、私には作れない。
私が考えるような歌は、次のようなもの。
婦人向け下着売り場で目を伏せる 妻の視線を感じたゆえに
東映のヤクザ映画を観た帰り 肩いからしてタコ焼きを買う
「このトイレ定時に水が流れます」 水でよかった血なら怖い
髪上げて うなじ見せたるヤンキー娘 男に混じりて神輿を担ぐ