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井上陽水の天才性を証明した『傘がない』

 「天才」とは、自分の凄さみたいなものは確信しているけれど、「どう凄いのか」ということを自分で説明できない人のことをいう。

 

 そういう意味で、井上陽水というミュージシャンは、天才ではないのか。
 この土曜日、NHKの歌番組『SONGS「井上陽水」』の2回目を見ていて、そう思った。

 

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 私はあまり井上陽水の良きファンではなかったため、彼をめぐる言説空間で、彼が一般的にどういう評価を下されているのか、また彼自身が、自分をどのように語るのかを聞いたことがなかった。

 

 そういった意味で、『SONGS』のインタビューにはとても興味を持った。

 

 だが、話を聞いた第一印象は、なんと平凡なことしかしゃべらない人間なのだろう というものだった。

 

 謎めいた歌詞が散りばめられたシュールな歌が多いので、さぞや特異な芸術家意識をふんだんに振りまくエキセントリックな人間なのだろうと予測していたのだが、まぁ、お茶目で、少しシャイな  “普通のおっちゃん” 。

 

 ツアー途中のリハーサル室で、インタビューを受ける彼のトークを聞いているかぎり、作詞の世界から感じられる「ミステリアスなアーチスト」という雰囲気はまったくなかった。

 

 むしろ、彼自身が、“斜に構えたアーチスト” っぽいミュージシャンに対して恥ずかしいものを感じるという感覚を持っていることがうかがえた。


 しかし、私は、今でも彼のデビュー作ともいえる『傘がない』(1972年)をラジオで聞いたときの、突然、背中に氷を押し付けられたような冷気を忘れることをできない。

 

 それは決して心地よいものでなかった。

 

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 ♪ 都会では、自殺する若者が増えている、と新聞の報道は伝える。

  というのが、その歌い出しの部分。
 
 しかし、それよりも問題は、傘がないことだ。
  と歌詞は続く。

 歌に唄われる主人公は、そのことを、ひたむきに嘆く。
 
 これから君に会いに行かなければならないのに、外は雨。
 なのに、「傘がない」 。
 自殺する若者が増えているなんてことは、どうでもいい。
 「問題は、傘がない」

 

 この訴えは、たぶんその当時これをリアルタイムで聞いた人間をみな凍らせたことだろう。

 

 1972年。
 学生運動が急速に終焉に向かっていた季節であったから、この歌を、政治闘争に敗れた若者の「うつろな心情」を表現したものであると解釈する人が多かった。
 
 誰だったか、後に、この歌のことを「社会的な問題に背を向けるミーイズム(自分中心主義)世代の登場」をテーマにした曲だと言った人がいたくらいだった。

 

 しかし、陽水は、
 「別にそんなふうに考えて作った歌ではないんですよ。ただ単に、周りが政治の季節であったというだけのことで
 と(いう感じで)淡々と話す。

 

 そして、この歌をつくった23歳の頃と、70歳になった今では、歌に対する思いが少しずつ変わっているともいった。

 

 「それはどういう違いですか?」
 と、インタビュアーが突っ込む。

 

 彼の答は、こうだ。

 「傘がない、というときの “ない” という意味が、ほんとうに “ない” ということなんですよ。
 単に、物質的な意味での傘がない “ない” ということ以上に、 “ない” という意味が広がって感じられるんですよね」

 

 なんのことか、よく分からない。


 彼も苦笑いを浮かべて、
 「うまくいえないなぁ
 と頭をかく。

 

 そして、最後は、
 「やっぱり、説明能力不足ですね。とにかく歌を聞いてください」
 とトークを打ち切った。

 

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 このおしゃべりを聞いていて、思った。 

 

 彼が自作をうまく解説できないということは、そこにこそ、彼の天才性があるのではないか。

 

 「評論家」なら、その歌のモチーフからその社会的意義まで、うまい言葉ですべて説明するかもしれない。

 

 でも、井上陽水はそれができなかった。
 つまり、彼は直感でこの詞を選び取ったわけだ。

 

 直感で拾われた言葉にすぎないのに、この詞は彼の想いを超えて、なにがしかのメッセージを含んでしまった。

 

 生み出されたものが、作者の計算以上の世界を図らずも創ってしまう。
 それは、天才以外にはできないことなのだ。
 
 つまり、天才は、受け手に過剰な読み込みを行わせてしまう「何か」を持っているということに他ならない。たとえ、本人が意図しなくても。
 
 私は、いまだにこの『傘がない』という歌が自分の胸に突きつけてくるものの正体がつかめずにいる。
 
 最初に聞いたとき、どこかホッとするような解放感と、これじゃいけないんだという焦燥感と、取り返しのつかないものを失ってしまったという喪失感と様々な方向に自分の感情が分裂してしまったことを思い出す。

 

 そして、その「分裂の感覚」は、今もなお胸にうずいている。

 

 一つだけいえることは、
 「自殺する若者が増えている」という社会現象や、
 「テレビで、我が国の将来を誰かが深刻な顔でしゃべっている」という政治番組よりも、この歌の主人公は、もっともっと切ない問題を抱えてしまったということだ。
 
 たぶん、その切なさの意味を探り当てる言葉が、その時代にはなかったのだ。
 だから、この歌は新しかったのだ。

 

 そして、この詞は、新しい意味を含んだまま、今もその新しさの内容を説明していない。

 

 だから、すべてが、あいかわらず「謎」。

 

 時代を超える歌というのは、そんなものだ。

 
 好きな歌ではないけれどね。  
 でも、忘れられない歌なのだ。

  

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