アートと文藝のCafe

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人類最後の日を人々は何をして過ごすのか?

映画批評
『On the beach 渚にて

    
 原発事故による「放射能汚染」の話題が出るたびに、思い出す映画がある。
 アメリカ映画の『渚にて』( On the beach )だ。


 1959年にスタンリー・クレイマー監督が撮った(当時の)近未来SF映画で、まさに地球規模の “放射能汚染” がテーマになっている。

   

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 1964年に勃発した( ことになっている)「第三次世界大戦」の核被害によって、北半球の人類は滅亡。

 
 南半球は、直接の被爆をまぬがれたが、死の灰が南半球まで及んでくるのは時間の問題という、せっぱ詰まった状況に置かれたオーストラリアが、この映画の舞台となる。

 

 核爆発の時に、たまたま深海に潜っていたアメリカ海軍の潜水艦が1隻だけ助かり、死の灰を逃れて、オーストラリアの軍港にたどり着く。

 

 ストーリーは、その潜水艦の艦長であるグレゴリー・ペックと、彼がパーティで知り合った地元のオールドミス(エバ・ガードナー)との淡くて短い恋愛を軸に、“ゆるやか” に展開する。

 
 それに絡んで、オーストラリア海軍の若い将校夫婦や、核開発にも関わったことのある科学者たちのサブストーリーが散りばめられていく。

 

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 もともとは、ネビル・シュートの小説を映画化したもので、分類でいうと、核戦争後の地球を描いたSFものということになるのだが、地球滅亡ものでおなじみの、大げさなパニックシーンを見せる映画ではない。

 

 むしろ、地味だ。
 だから、核戦争の非情さが、逆に浮かび上がってくる。
 このあたりは、原作の静謐なタッチを、映画もよく踏襲している。

 
  
 北半球を覆った “死の灰” は、南半球までは来ないだろう、と最初のうちは、オーストラリアの科学者たちは予測した。

 

 しかし、そういうオーストラリアの科学者たちが立てる希望的観測は、ひとつひとつ打ち砕かれていく。

  

 迫り来る核汚染を防ぐ手立てがすべて失われてしまったことに、オーストラリアの人々も気づき始めた頃には、残された刻限はあと5ヶ月と迫っていた。

 

 身近に迫る死の恐怖に、自暴自棄になる人々も出てくる。
 しかし、一方で、残された最後の時間を、せいっぱい “人間らしく生きよう” と決意し直す人もいる。

 

 世界の滅亡が秒読みになったとき、人々は無秩序な暴徒と化するのか、それとも、生きている限りは人間の尊厳を保ち、秩序正しい社会を維持しようとするのか。
 この映画は、人類が直面する究極の問いかけを投げかけているようにも思える。

 

 画面では、死を覚悟したオーストラリア国民が、パニックに陥ることなく、休日には渓谷のマス釣りを楽しみ、海岸で海水浴をして、自動車レースを楽しもうとする情景が描かれる。

 

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 人々が人生最後のバカンスを楽しもうとするときに流れるのが、オーストラリアの国民歌謡「ワルチング・マチルダ」である。
 
Waltzing Matilda

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 草原のキャンプ場で、海水浴場で、そして、親しい家族が集まるホームパーティーで、オーストラリアの人々はみんなで、この歌を合唱する。

 

 映画を見ている観客も、心のなかでこのメロディーの合唱に加わる。

 

 フォークダンスの伴奏曲のような明るく陽気な曲で、これが人々の野外パーティーの合唱歌として使われたりすると、この映画のテーマが悲惨な最終戦争ものであることを忘れさせる。

 

 しかし、その陽気なメロディが、途中から涙が出そうなくらい悲しく響いてくる。
 同じ曲でも、それを歌なしで演奏すると、今度はレクイエムの響きを持つのだ。

 

 そうなると、観客が見つめるオーストラリアの風景そのものが不思議な光彩を帯びて来る。

 

 豊かな緑に囲まれた牧場。
 帆に風をはらんで海原を駆けるヨット。
 家族や仲間で楽しむ川原のバーベキュー。

 

 観客は、それらの美しい風景を、いつしか末期の目を通して眺めていることに気づく。
 そこには、この風景を写し取った監督やカメラマンの心情が反映されているからだ。

 

 単に、「美しい風景」や「優しい風景」というのであれば、撮影機器や画像処理のテクニックが進歩した現代映画の方が、優れた風景を再現できるはずだ。


 ただ、そこに「かけがえのない 」という哀切感を盛り込むことができるかどうか。

 

 平和な日常生活がいかに貴重であるかを訴える映像は、CGのテクニックをいかに研ぎ澄ましたところで、実現できるものではない。

 
 それは、「ありふれた生活」を一瞬のうちに崩壊させてしまう、戦争のむごたらしさを経験した人間の視線からしか生まれてこない。

 

 1950年代は、まだ第二次大戦の惨禍が、人々の胸に強烈な印象として残っていた時代だったのだ。

 
 逆にいえば、戦争がもたらした悲しみと苦しみをリアルな体験として持っていた人たちがいたからこそ、作れた映画だった。

 

 ラストシーンでは、再びアメリカ兵たちが潜水艦に乗り込み、故郷のアメリカ大陸に帰るところが描かれる。

 

 すでに、北半球に「アメリカ」という国はない。
 あるのは、高層ビルが墓石のように取り残された、無人の大地でしかない。
 それでも、彼らは、「どうせ死ぬなら、最後は故郷で眠りたい」と、人影の絶えた北米大陸に戻っていく。

 

 オーストラリアの港を発ったアメリカの潜水艦は、そのレクイエムに送られて、深海へと潜航を開始する。

 去り行く潜水艦を見送るエバ・ガードナーの後ろ姿が切ない。

 

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 静かな終わり方に、反戦への祈りと、戦争によって失われたあらゆるものへの追悼が込められている。

 

Great Scenes: Waltzing Matilda Finale

(しんみりと聞こえるもう一つのWaltzing Matilda  ↓)

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