「昭和歌謡」に興味を抱く、平成世代の若者が増えているという。
あるワイドショーを見ていたら、(どの番組か忘れたが … )、レポーターが街行く若者にマイクを突き付け、「昭和歌謡をどう思うか?」と聞きまくっていた。
それに答えた若者たちの話を総合すると、昭和の歌というのは、
「メロディに親しみがあって、歌詞が覚えやすい」という。
なかには、
「歌詞にリアリティーがあって、まるで物語を聞いているような気がする」
と答える人もいた。
このような若者の昭和歌謡ブームに乗り、昭和のアイドルや歌手のブロマイドも人気が高まってきたとも。
都内のブロマイド専門店には、遠方からも平成世代の若者が押し寄せ、松田聖子、中森明菜、沢田研二といった昭和のスターの写真を買い込んでいくという。
家族や親の影響が大きいのだろう、と専門家は分析する。
平成生まれ(1989年~)の若者の “親世代”(1960~70年代生まれ)といば、子供の頃から昭和アイドルたちの音楽になじんだ人たち。
“昭和まっただ中” の70年代といえば、キャンディーズ、ピンクレディー、山口百恵、松田聖子、天地真理、近藤真彦といったアイドルを軸に、荒井由実、中島みゆき、テレサ・テン、桑田佳祐、井上陽水、玉置浩二といった実力派の歌手やミュージシャンも活躍し、昭和歌謡が質的にも量的にも全面開花した時代だった。
▼ ピンクレディー
そういう歌になじんでいた親たちが、家事をしながら口ずさんだり、子供たちとドライブするときに流していた曲が、徐々に平成の若者たちの “耳の肥やし” になっていったのではないか、とある専門家は語った。
もちろん、親が歌っていたからといって、それを聞いた子供がそのまま好きになるとは限らない。
やはり、「この歌はいいな !」と若い世代が思えるような何かがなければ、昭和歌謡再評価のブームは起こらない。
平成の若者からみた昭和歌謡の魅力とは何なのか?
一つのヒントがある。
昔、NHKが、「若者の好きな音楽」というテーマでアンケート調査を行ったことがあったが、それによると、平成元年にデビューしたJ ポップの人気者小室哲哉よりも、昭和50年に引退した山口百恵の方が、若者たちの認知率が高かったというのだ。
小室哲哉といえば、音楽プロデューサー兼ミュージシャンとして「TM NETWORK」、「globe」などの音楽ユニットを結成して大活躍。安室奈美恵、華原朋美などをスターに育てた人としても知られる。
まさに1980年代~90年代におけるJ ポップのカリスマ的存在であるが、その彼よりも、さらに20年も古い山口百恵の方が若者に親しまれているというのは、どういうことなのだろう。
▼ 山口百恵
これぞ、まさに「サウンド」と「歌」の違いなのだ。
80年代の中頃、いわゆる「J ポップ」が台頭するようになって、曲づくりがサウンドを中心に回り始めた。
もともと J ポップは音楽ビジネス関係者たちによって、かなり意図的に企画されたプロジェクトだった。
狙いは、「洋楽のように洒落た国産ポップス」という新しいマーケットの創出だった。
“洋楽っぽい” ことが絶対条件だったから、J ポップのメロディー、リズム、コード、アレンジなどが、一斉に “脱・歌謡曲” に向かったのは言うまでもない。
和音構成として、わが国独特の哀調感を持つ日本音階(ヨナヌキ)が影を潜めていくというのも、その顕著な例といえるだろう。
こうして、日本のポップスは、サウンド的には恐ろしいくらい華麗かつオシャレになっていったが、それを徹底していく途中で、「歌詞」がストンと抜けた。
もともと、日本の流行歌は、分業体制で作られていた。
作詞、作曲はそれぞれ別のプロが担当し、さらにプロの歌手が渡された曲をそのまま歌う、という手法で世に送り出されてきた。
ところが、フォークソングブーム、シンガーソングライターブームが起こることによって、分業体制の一部でしかなかった「歌手」の地位が突出するようになった。
彼らは「アーチスト」と呼ばれるようになり、歌のコンセプト全体を代表する表現者と目されるようになった。
J ポップの担い手はバンドで占められることも多かったから、バンドのリーダーがそのまま作詞・作曲・アレンジを手掛ける率も高くなった。
もちろん、そのことによって、J ポップの音楽的統一感は際立つことになった
ただ、バンドのリーダーやシンガーソングライターが優れたミュージシャンであったとしても、必ずしも “優れた詩人” であるとはかぎらない。
歌詞づくりというものは、自分の日常の断片を綴ったり、自分の身に降りかかった事件を取り上げていればいい、というものでもないからだ。
自分の体験からネタを拾っている限り、常に人をハッとさせたり、人の意表を衝いたりする詞を量産することはできない。
シンガーソングライターたちの詞を聞いていると、その歌詞に表現された等身大の世界観に共感することもあるが、そのうちに曲のレベルが尻すぼみになっていくこともある。
こうして、J ポップの詞は、いつしかみな似たり寄ったりのテーマばかりが繰り返されるようになり、聴衆に、通り一遍の “感動” と、通り一遍の “勇気” と、通り一遍の “元気” を与えるだけの存在になっていった。
だから、飽きられるのも早い。
平成生まれの若者たちは、今の音楽の “歌詞不在” に気づいたのだ。
昭和歌謡が好きだ、という若者の声に、こんなものがある。
「今の歌って、歌詞がウソくさい。でも昔の歌って、歌詞が本音で書かれているような気がする」
この一見稚拙な表現のなかに、今のJ ポップと昔の昭和歌謡の根本的な差異があらわれている。
これは、「昔の歌の方が人間の本音」を語っているという意味ではない。
昔の「詞」は、プロの作詞家によって書かれていたということなのだ。
つまり、人間の心理を鋭く追及できるプロの作詞家が、人々の生活に使われる言語の中からこだわり抜いた言葉を選び出し、繊細な手つきで並べ変え、一語ずつ、人の心を震わすフレーズに組み直していったということなのである。
では、「プロの作詞家」とは何か?
それは、曲があってもなくても、小説のような作品を書いてしまう人たちのことをいう。
昭和歌謡の詞をつくり続けていた人たちの名をざっと並べてみよう。
阿久悠、星野哲郎、山口洋子、なかにし礼、安井かずみ、阿木燿子、竜真知子、井上陽水、松本隆、岩谷時子、吉田拓郎、中島みゆき、来生えつこ …… 。
▼ 松本隆
もちろん、この人たちは昭和歌謡をつくった作詞家の一部でしかないけれど、どの人も “文学者” としてもの実力を備えた人たちである。
事実、上記の人たちのなかには、すでに著名な文学賞を受賞している人もいる。
阿久悠、山口洋子、なかにし礼などは実際に小説も書いているし、他にもエッセイを書いているような人がたくさんいる。
つまり、プロの作詞家というのは、そういう作業を通じて、言葉が人間の想像力を刺激するツボを心得ている人たちなのだ。
では、人の想像力というのは、いったい、どういうときに刺激されるのだろうか?
昔、NHKの歌をテーマにしたトーク番組で、ゲストのミッツ・マングローブがこんなことをいっていた。
「今の音楽は、すべてを説明して答まで消費者に提供しようとしている」
しかし、それでは、かえって聞き手の想像力が奪われてしまう、という。
同番組でインタビューを受けた作詞家の松本隆も、似たようなことを述べていた。
「歌には “余白” というものが大事。つまり、言葉と言葉の “間(ま)” のようなもの。詞における『美』というものは、そういう “余白” とか “間” に生まれる」
つまり、詞における「余白」とか「間」というのは、すなわち「想像力」が舞い降りるスペースになるというのだ。
昭和歌謡というのは、概してこういう方法論によって編み出されてきた。
音楽評論家の近田春夫氏は、「今のJ ポップの作り手のなかで、昭和歌謡のような作詞能力を持っている人が現れたら、詞の世界で必ず頭を取れる」と言い切る。
おそらく、これからは、昭和歌謡を聞き始めた平成の若者のなかから、きっと将来の逸材が現れてくるに違いない。