「歌謡曲」って、食べ物でいうと、カツ丼とか、カレーうどんのようなものかもしれない。
「演歌」(和食)ではない。
でも、「洋楽」(フレンチやイタリアン)でもない。
そのどちらでもない不自然さを持ちながら、誰一人、その不自然さに気づかないような存在。
それが歌謡曲だ。
とくに、“昭和歌謡” といわれる1970年代、80年代ぐらいの曲にそういう感じの作品が多い。
「和食」なのか「洋食」なのか、ほとんどの人が気にしないということは、それだけ歌謡曲が庶民に愛され、人々の日常生活に根を下ろしていたことを意味する。
そんな歌謡曲の摩訶不思議な味わいをいちばん体現している曲を作り続けてきた人が、作曲家の故・筒美京平氏(写真下)だ。
特に、1960年代後半から70年代、80年代にかけての歌謡曲は、この人の独壇場だったような気配がある。
いしだあゆみ 「ブルー・ライト・ヨコハマ」 (1968年)
尾崎紀世彦 「また逢う日まで」 (1971年)
岩崎宏美 「ロマンス」 (1975年)
太田裕美 「木綿のハンカチーフ」 (1975年)
ジュディ・オング 「魅せられて」 (1979年)
近藤真彦 「スニーカーブル~ス」 (1980年)
〃 「ギンギラギンにさりげなく」 (1981年)
〃 「ブルージーンズメモリー」 (1981年)
事実、70年代から80年代にかけて、筒美京平は、作曲家としての年間売上トップ3の上位を独占し続けている。
彼の持ち味は、歌謡曲を作り続けた作曲家の中でも、もっとも洋楽志向を持っていたことだろう。
メロディーは和風テイストだが、そのアレンジには、徹底的に洋楽の仕掛けを施す。
それが、アメリカンポップスやらブリティッシュ・ロックの洗礼を受けた当時の若者たちの嗜好を捉えた。
上記の一連のヒット曲では、それがあまり伝わってこないが、ヒット曲にならなかったものの中には、「洋楽のような曲づくりが、どれだけ日本人に受け入れられるか?」ということを実験しているような曲がたくさんあった。
きっと、ご自身も洋楽が大好きだったのだろう。
それも、その時代の先端の洋楽にものすごく好奇心を抱いていた気配が伝わってくる。
たとえば、浅野ゆう子の歌っていた『セクシー・バス・ストップ』(1976年)。
これなど最初に聞いたときは、海外のヒット曲に、日本語の訳詞をつけたものかと思ったくらいだった。
▼ 浅野ゆう子 「セクシー・バス・ストップ」
この曲は、実に、70年代中頃の “軽佻浮薄(?)” なディスコミュージックのニュアンスを巧みに捉えている。
例を挙げれば、ジョージ・マックレーの『ロック・ユア・ベイビー』とか、ヒューズ・コーポレーションの『ロック・ザ・ボート』、ヴァン・マッコイの『ドゥ・ザ・ハッスル』などの流れを汲んだ作りである。
私自身は、こういう「明るく楽しい」ディスコ系の音には関心を持たなかったけれど、日本の「セクシー・バス・ストップ」だけは好きだった。
洋楽の意匠をまといながらも、そこに「フェイク(まがい物)」の面白さが感じられたからだ。
いってしまえば「カレーうどん」の味わい。
日本の庶民的な伝統食品に、無理やり洋食のカレー粉をまぶしたような、一種「人を喰ったような」無責任さがあって、それが妙に印象に残った。
しかし、いちばん筒美京平が自分の洋楽志向の実験場として使った歌手は、平山三紀(平山みき)だったのではなかろうか。
平山三紀には、『ビューティフル・ヨコハマ』、『フレンズ』、『真夏の出来事』、『真夜中のエンジェルベイビー』などのたくさんのヒット曲があるが、そのすべてが筒美京平によって作られている(作詞は橋本淳)。
彼女の歌い方は、「はすっぱ」という言葉がいちばん適切な、遊び好きの不良少女の面影が漂うところに特徴がある。
投げやりな感じの、けだるさ。
刹那主義的な享楽の匂い。
若さだけを頼りに、無軌道に突っ走っていくことの「開き直り」の感覚がある。
しかし、そこには、遊ぶことの「楽しさ」と「危うさ」が同居している。
それゆえに、彼女の歌からは、
「いま目の前にしている都会のネオンのきらめきが、こよなく愛しい(いとおしい)」
という切なさがにじみ出る。
このような都会性を持つ平山三紀の声質と唱法に、筒美京平はかなり熱い視線を送った。
そして、彼女のために、アレンジには洋楽のエッセンスをまぶしながらも、メロディーには、どこか和風の味わいが残る旋律を用意した。
彼が狙ったのは、もはや日本でもなく、かといって西洋のどこに存在しない都会の感覚。
いってしまえば、横浜を「ヨコハマ」と表すような都市の風景だ。
初期のヒット曲『ビューティフル・ヨコハマ』では、登場する「素敵な男たち」の名前も、すべて、ミツオ、サダオ、ジロー、ジョージ、ハルオ、ゼンタというふうにカタカナ表記される。
それによって、横浜は、「ヨコハマ」というルーツも伝統もない、光のきらめきだけしか存在しない無国籍的空間に変貌する。
その夢のようなヨコハマや、ヨコスカ、ハラジュク、ロッポンギを、彼女は “素敵な男” の肩に頭をあずけながら、クルマに揺られ、メリーゴーランドのように回り続ける。
クルマから見上げる都会のネオンは、ミラーボールのように回転し、その上に輝く星々は、プラネタリュームの天蓋(てんがい)を埋める人工的なまたたきとなって、地上に降り注ぐ。
それは、筒美京平と平山三紀のコンビにしかできなかった魔術だった。
平山三紀に歌わせた筒美京平の曲で、いちばんサウンド的な特徴がよく表れているのは、『愛のたわむれ』(1975年)だろう。
▼ 平山三紀 「愛のたわむれ」
この曲を、かつてYOUTUBEにアップした人へのコメントには、
「歌謡曲の皮をかぶったフィラデルフィア・ソウルですね!」
という印象を綴った人がいた。
言い得て妙だと思った。
イントロのギターのカッティングから、ストリングスの絡み方、そしてメロディー展開からサビの盛り上げ方まで、これは70年代のアメリカで一世を風靡したフィリー・サウンドそのものなのである。
なのに、これは「歌謡曲」なのだ。
「カレーうどん」 のカレー風味の底に、あんかけと醤油の味がしっかり沈み込んでいる。
こういう “珍妙な(?)” 曲は、当時、おそらく日本にしか生まれていなかったはずだ。
それは、素晴らしいことではないのか。
「和洋折衷」などという言葉に収まり切らない、独自の地平が切り開かれている。
「オリジナリティ」という言葉すらあざ笑うかのような、遊びの心が表現されている。
どこにも存在しない、幻としての「異国の歌」が歌われている。
この「まがい物」の味わいが、今の J ポップにはない。
J ポップは、今や日本固有の歌になってしまった。
そこには、退屈な安定感はあるけれど、一人で聞いてニンマリするような、あのうしろめたいような、くすぐったいような遊び心がない。
このような素晴らしい「昭和歌謡」をたくさん残された筒美京平氏が、この10月7日に亡くなった。
享年80歳だったという。
この人の曲がなければ、洋楽ばかり聞いていた私は、日本の歌謡曲というものに、ほとんど関心を向けなかったかもしれない。
ご冥福を祈りたい。